その日はまるで、お祭りのような騒ぎだった。「と盃を交わす」と義勇が皆に告げた途端、普段は静謐に包まれている宮がどうっと喧騒に溢れて。鱗滝は感極まって泣いていたし、錆兎は義勇の肩を掴んで「やっとか。やっとなのか」とガクガクと揺さぶっていた(聞いた話では、錆兎は義勇の幼い頃からの守役らしい。普段は公子に対する礼をとっているが、ああしてたまに兄貴分としての性分が顔を見せるらしかった)。はといえば「あらあらまあまあ」と嬉しそうな蔦子や真菰たちに別室に連れて行かれ、それはもう豪奢に飾り立てられて。幾重にも重ねられた美しい着物は、月光や陽光を紡いで糸にしたものを織ったのだという。見た目にはひどく重そうな珠の連なる簪は、時を忘れた波飛沫だから少しも重くはないのだと侍女たちは笑った。珊瑚の櫛や、真珠の耳飾り。様々な装飾品と華やかな化粧に彩られ、は真菰に手を引かれて義勇の前へと連れて行かれた。侍女たちが燈籠を架けた廻廊を、騎士たちにかしずかれて歩くのはやはりどうにも居心地が悪い。けれど教わったとおりにしゃんと背筋を伸ばして、怯えは胸の内に仕舞う。紅い珊瑚の椅子へとを導いた真菰は、ふんわりと笑ってに掛けるようにと言う。緊張で強ばっていたもその笑顔に少し安心して、椅子に腰掛けた。
「……酒を」
義勇の指示で、三人の侍女がしずしずと現れる。二人はそれぞれに酒の瓶を、一人は玉でできた一対の盃を白金の皿に持っていた。それらを受け取って卓に置いた真菰が、盃に酒を注ぐ。「召し上がりまし」と勧められて、義勇は品の良い所作で、はおっかなびっくり盃を口元に運ぶ。故郷にいた頃は一度も酒など口に含んだことのないは、少しばかり盃に口をつけるのを躊躇ってしまったけれど。その理由を見透かしたように、義勇は少しだけ可笑しそうに目元を緩めた。
「その酒は辛くない」
「……の盃は桃の露で、あっちは菊の花の雫。海ではいちばんの飲み物なんだよ」
こっそりと、二人だけのときの口調で耳打ちしてくれる真菰。桃の露、と聞けば不思議と安心できて、はおずおずとその薄紅色に口をつけた。ほんのりと甘くて、後にも尾を引かずすっきりとしていて飲みやすい。それが喉を通り抜けると、不思議と気持ちが涼やかになって。義勇に盃を差し出され、自らのそれと交換してまたそっと口をつける。酒というよりも、清らかな朝露を口にしているような心地だった。ひとくち飲むごとに、まるで綺麗な命を与えられているような。再び盃を交換して、最後の三度をこくりと飲み干す。空になった二人の盃を真菰が受け取ると、「契りは成った」と義勇が静かに告げた。途端、それまで静かに控えていた騎士や侍女たちが口々に二人を言祝いで。びくっと驚いたが目を白黒とさせている間に、やれ宴だ目出度いと料理や酒が運ばれて。こういった場の花嫁があまりものを食べるのもはしたないだろうか、とたくさん並べられた皿を前におろおろするのを、義勇は「好きに食べればいい」と全く気にしていない様子で酒を煽っていた。若様もようやく男気をお見せになられた、だとか、若様はお可愛らしい新奥様にお手を触れようともなさらないから不憫だった、だとか半ば無礼講のような空気の中で義勇がわりと好き勝手にものを言われているのを聞いてはヒヤヒヤとする。違うのだ、義勇は優しいだけなのだ。優しさでを娶ってくれて、が本意でないことを強いたくないから、に妻としての立場や振る舞いを強いることのないよう気を遣ってくれていただけなのだ。かといって今それを声を大にして主張するわけにもいかず、は義勇をおずおずと見上げる。けれど義勇は慈しむような目でを見下ろしていて、自分が誤解されていることなど全く気にかけてもいないようだった。
「お前は、変わらず自由に暮らしていていい。閨も、お前が嫌なら無理に一緒にする必要はない」
「い、嫌じゃないです、一緒で……一緒が、いいです……」
「……何か望みはないのか。お前はずいぶんと我儘を言わない」
今まで別々だった閨も、今日を境に一緒になるのだという。夫婦となった者が閨を分けていては、また義勇が何か言われてしまうのだろう。頬を赤く染めながらも、は義勇の優しい提案に首を横に振った。実際、嫌ではないのだ。義勇のような優しい人と寝所を共にすることに、不安などあるはずもない。あるとすればただ、義勇の迷惑にならないかということばかりで。素直に義勇に従おうとするを見て、義勇は目を瞬く。何か望みはないのかと訊かれて思い浮かぶとすれば、今なお胸の内に引っかかっている浅ましい願いひとつで。それを口にするのも憚られ、目を伏せるに義勇は「話せ」と静かに命じた。
「……一度だけ、父に会いとう存じます……」
「…………」
「か、帰りたい、などとは思っておりません。ひと目だけ、会えればもう二度と、」
「……会ってどうする」
「私は元気にしているので……義勇さまにも、皆さんにもとても親切に、優しくしていただいているので、何の心配も要らないと……そう、伝えたいと」
「あれはお前の心配などしていない。無事を伝える必要もないだろう」
「……父が、私の息災を喜んでくれると、信じたくて」
「無駄な望みだろうな」
きっぱりと、父からの親子の愛を義勇に否定されては痛む胸を押さえて俯く。義勇から見ても、父がの行く末を気にかけているなどありえないことなのだと思い知って胸が痛い。それでも、いっそそう言われたならそう言われたで諦めがつく。これから自分は海の命として生きていくから、せめてちゃんと別れを告げたい。あの日ただ泣き崩れていた父親に、海の底で幸せになれと送り出してもらいたい。ぽつぽつと語るに、義勇は苦虫を噛み潰したような顔をした。
「……契りを交わした今のお前は、俺の妻としての権能を有している。お前が沈んだあの浦にも、行こうと思うだけで瞬く間に行ける」
だが、と義勇は目を閉じて言った。
「お前が傷付く結果になるだけだ」
やめておけと、義勇は冷たいまでに静かな声で言う。ぐっと唇を噛み締めて俯いたに、別の者が声をかけた。
「いいんじゃないのか、行かせてやれば」
「……錆兎」
顔を上げれば、盃を手に錆兎が立っていて。義勇の兄貴分としての顔で、錆兎はを見据えていた。ぐいっと男らしい所作で盃を煽って、義勇へと視線を移す。無責任なことを言うなと顔を顰める義勇に、「過保護なのもいいが」と錆兎は肩を竦めた。
「自分の目で見なければ、納得できないこともある。奥方も、無駄な望みであることはわかっているんだ。ただ、気持ちに整理をつけたいだけだ」
なら、行けばいい。そう言って錆兎はに向き直る。義勇と錆兎に真っ直ぐに見つめられ、は躊躇いながらも椅子からそっと立ち上がった。義勇からの制止は、無い。黙って見守るふたりを何度も振り返りながら、は海原へとトンッと軽い足取りで舞い降りる。その後一瞬で掻き消えたの姿を見送って、義勇は錆兎をじろりと睨んだ。
「……は知らないんだぞ」
「言っていないお前が悪い」
「行かなければ知らずに済んだんだ」
「お前はやけに過保護だな。隠していてもいずれは知れていたことだ」
「だとしても……」
「あれ、新奥様は?」
新しい酒と料理を運んできた真菰が、幼馴染同士の口調で首を傾げる。「故郷に挨拶に行った」と告げた錆兎の言葉にハッとして、悲しそうに眉を下げた。
「……かわいそうな新奥様」
蛇になっても、家族に会いたいだなんて。
ぽつりと呟かれた言葉に、義勇も錆兎も、ただ目を伏せた。
「…………」
愕然と、青い顔では義勇の腕に抱かれていた。綺麗に整えてもらった髪は無残に乱れ、その袂は裂けて帯も崩れてしまっている。髪や帯を自らの手で直しながら、義勇は淡々と告げた。
「だから、やめておけと言ったんだ」
海の命となったはもう、人間の目に人とは映らない。在るものを在るように見れない人間の目にはただ、の姿は恐ろしい大蛇として映る。お父さん、と呼びかける声は炎が閃くようにしゅうしゅうと響き。その息は煙が渦巻くように。悲鳴を上げて逃げ出す父親に悲嘆する涙は、草を爛れさせる硫黄に。美しい着物の長い袖が翻る風は、生臭い風を起こして木を枯らす。おぞましいものを見る目で人々が自分を見る視線に震える肌は、鱗を鳴らしてのたうつように見えるだけだ。父親は、真っ先に泡を食って逃げ出して銃を手に取った。父親がを売った金で囲った若い妾は、の姿を目にして気絶した。鉄砲に撃たれて追われるを、迎えに来てくれたのは義勇で。長い袖にを隠して庇う様も、人から見れば大蛇同士が絡み合うように映っていたのだろうか。諦めなら、ついてしまった。せめて別れの言葉を、などとの考えは甘すぎたのだ。もう二度と、父にも故郷の誰にも、と認識してもらえることはないと思い知らされたのだから。
「……人間の目は」
義勇がの破れた袂にすっと手を当てると、そこは何事も無かったかのように新品同様の姿に戻っていた。椅子に腰掛け腕の中のを介抱しながら、義勇は訥々と語る。
「俺の姿も、蛇の身としてしか映さない。人間の目はそういうものだ。だから、こちらも人間に関わることはしない」
そのはずだったが、と義勇は簪を直して、真っ青なの顔を覗き込んだ。
「……覚えていないか」
まだお前は幼子だったと、義勇が続ける言葉の意味がわからずには首を傾げる。答えられないを不快に思う様子もなく、義勇はを抱えたまま遠くを見るような目をした。
「一度、溺れかけたことがあるだろう。あの浦で」
言われて、の記憶に引っかかるものがある。自身は覚えていないけれど、父が事あるごとにに聞かせていた思い出話。は幼い頃に海に落ちて溺れかけて、大きな蛇に助けられたことがあるのだという。溺れかけたくせに妙にけろっとして嬉しそうなは、慌てふためく父親にこう言ったのだそうだ。「海の中に、とても綺麗な男の人がいた」「その人をよく見ようとして海に落ちてしまったけれど、驚いたその人が助けてくれた」と。
「……!」
「俺のせいだ。お前が、捨てられたのは」
の父親は何も、荒唐無稽な思い付きでを海に捧げたわけではないのだ。尋常ではない大蛇に助けられた娘を見て、「この子は海の眷属に魅入られた」と考えた。義勇はその日、たまたま陸に近いところを散歩していただけだった。それが、子どもとはいえ自分の姿を見ることのできる人間に驚いて。関わらないようにしていたのに、助けてしまった。人前に姿を見せれば碌なことがないとわかっていながら、あの無垢な笑顔が嬉しくてつい浜辺に足を運んでしまう。水面越しにひらひらと控えめに手を振れば、幼いもにこにこと嬉しそうに手を振り返して。やがて、海を覗き込んでばかりいるようになった娘を案じた母親がを海から離すようになり、不思議な逢瀬の日々は幕を閉じた。それでもしばらくは浜辺に姿を見せた大蛇の姿に、父親は邪な考えを膨らませていったのだろう。それほどまでに海の眷属が娘に執着しているのなら、それを利用して豊かになろうと。当然母親は何を馬鹿なことをと反対していたが、やがて母親は病で亡くなって。幼い頃の不思議な出会いを忘れ何も知らないは、父親に言われるままに舵も櫓もない舟へと乗ることになった。義勇があの日、あの浦へと行かなければ。自分の姿が見える人間との出会いを惜しまず、すぐに姿を消していれば。その後、何度も会いに行かなければ。だからせめて、の好きなようにさせてやりたいと手を尽くした。「若様の初恋の方がおいでになる」とはしゃぐ騎士や侍女たちに、余計なことは言わないようにと口止めをして。もう父親が要らぬ欲を出さないように、望むままのものをやった。人には大蛇と恐れられる自分などに嫁いだのが哀れだったから、あまり近付かぬようにしていた。それなのに、何も覚えていないはずのがあの日と同じことを言うから。義勇のことを、綺麗だと言うから。夫婦として生きていけるのではないかと、願いを抱いてしまった。盃を交わす前ならまだ人の身として戻れたものを、渡津海の者としての命を与える酒を飲ませてしまった。全部、自分のせいだと義勇は思う。この小さな花のような命との関わりを、未練たらしく切れずにいた自分のせいだと。そのせいでを、自分と同じ身にしてしまった。陸の家族の目にはもう、蛇としてしか映らない身に。
「……つらいか」
腰に帯びていた剣を、そっと抜く。このまま蛇の身として永きを生きることが苦痛なら、せめてそうさせた自分の我儘を償うべきだと思った。の首にぴたりと刃を当て、に問う。
「つらいなら、俺が終わらせる。せめて痛みもなく、この首を刎ねる」
我儘に付き合わせて済まなかったと、義勇はに詫びる。騎士も侍女たちも、誰もが固唾を飲んで事態を見守っていた。呆然としていたが、ふと義勇を見上げて目を細める。空に星を見つけたように、その顔を綻ばせた。
「やっぱり、綺麗です……義勇さま」
そっと手を伸ばして、義勇の頬に触れる。未だ、義勇と初めに出会った浜辺の記憶は埋もれているけれど。それでもその瞳の蒼さを、覚えているような気がした。星に惹かれて空に手を伸ばすように、水面の向こうの青い瞳へと手を伸ばす。細い指が、愛おしそうに目のふちをなぞった。
「…………」
義勇の唇が、小さく動く。その場の誰にも、読み取れない言葉を紡ぐ。ゆっくりと剣を下ろした義勇は、の袖を下ろして白い腕に剣を滑らせる。自らの盃を手に取って、滴る紅い血を受けた。次いで、自らの腕にも刃を引く。青い血が滴り、の盃に落ちる。
「……終生の誓いだ。」
互いの血を受けた盃を、それぞれに手に取る。それをふたりが仰いで飲むと、廻廊の燈籠の灯りがふわっと輝きを増した。緊迫していた空気から一転、幻想的な光景に皆がほうっと息を吐く。ふと遠くを透かして見遣った義勇は、の故郷に見慣れないものを見つけて口を開いた。
「お前の故郷に、花が咲いている」
空を覆うように連なり、薄紫の、淡い花弁をひらひらと舞わせる花。海辺では見ないその花に、も首を傾げた。義勇が「あの花は何ですか」と鱗滝を呼んで尋ねると、彼は「藤の花です」と答えた。
「若様と新奥様のお心が通いまして、あの地に面影を残したのでしょう」
心無いものにはそうとは知れないが、と鱗滝は頭を下げてその場を辞す。初めて見る藤の花にがぼうっと見蕩れていると、義勇がそっと袖での視界を覆った。
「……花を見ているのはわかっているが」
また故郷を恋しがっているようで、面白くないと義勇は小さな声で告げた。わたわたと慌てて弁解しようとするにふっと笑い、義勇はの手を取って立ち上がる。声を揃えて「万歳を申し上げます」とふたりを仰ぐ彼らに、義勇は宴の終わりと休息を言い渡した。義勇に手を引かれて歩くが、そっとその背中に声をかける。
「あの……幾久しく、お願い申し上げます」
もとよりその気だ、と義勇はの手をぐっと引いて抱き寄せる。
「お前の心も、俺の心も、あの花が表した」
藤の花言葉を知る義勇は、首を傾げるを見下ろして目を細める。はきっと明日にでも、真菰や鱗滝にその意味を尋ねるに違いない。顔を赤らめて狼狽える可愛いの姿を想像して、義勇は小さな笑みを浮かべたのだった。
200219