今日も今日とて理不尽に義勇に平手打ちされた善逸は、とぼとぼと肩を落として会議室のひとつへと足を運んでいた。風紀委員の本拠地であるその会議室には服装検査に使うノートなどを収める棚があって、善逸の教室からは遠いものの朝の服装検査が終わったらすぐにノートを仕舞いに行かなければならないのだ。今日も朝から散々だ、とブツブツ呟いていた善逸は、しかし会議室に入った瞬間に掌をくるりと返した。
「我妻くん、おはよう」
「おはようございます、先輩!」
 風紀委員の先輩であるが、女神のごとき笑み(善逸の主観による)を浮かべて善逸に声をかける。いそいそとノートを棚に仕舞った善逸は、会議室の掃除をしていたらしいに手伝うことはないかとハキハキとした声で話しかけた。
「ううん、もう終わるから大丈夫。それより我妻くん、朝から服装検査で大変だったと思うから、休んでていいんだよ?」
「せ、せんぱぁい……」
「ほっぺ、打たれたの? 本当に大変だったんだね……」
 いえこれはあなたの保護者に引っぱたかれた跡です、などとは言えず善逸は乾いた笑みを浮かべた。は「あの冨岡義勇先生」と一緒に暮らしているらしい。風紀委員に入ったのも、義勇の言いつけだというもっぱらの噂だ。たくさんの傷があるので当初は義勇の虐待が疑われた程だが、真相はどうにも虐待されていたを義勇が引き取ったらしいということだった。もっとも、その辺りは二人と縁のあるらしい炭治郎からぼんやりとした事情を聞いているだけなのだが。
「湿布があったと思うから、ちょっと待っててね」
「先輩は女神ですか?」
 思わず真顔で問うた善逸に、は困ったように眉を下げて笑う。「冨岡先生に先輩の半分でも優しさがあれば……」と呟いたが、その瞬間背筋に悪寒が走って。おそるおそる振り向けば、そこには凪いだ目で善逸を見下ろす義勇がいた。
「……あれ、先生? 我妻くんは……」
「我妻なら火急の用だとかで教室に戻った」
「そうですか……?」
 不思議そうに首を傾げるから湿布の袋を取り上げて、義勇はさっさとそれを救急箱に戻す。実のところは義勇にぼやきを聞かれた善逸が脱兎のごとく逃げ出したのであるが、義勇にそれを語る気はなく、またもそれを追及する気はないのであった。

「せ、先生、解き終わりました……」
「不正解だ」
 スパンッと、容赦のないハリセンがの頭に振り下ろされた。あれじゃ絶対シナプス死んで逆効果だろ、と思いつつも善逸は黙って掃除の手を動かす。周囲の人間からへの干渉はことごとく跳ね除ける過保護のくせに、自分はにスパルタなのだ。さっきからが間違えるたびにパンパンと容赦なくハリセンが振るわれていたが、よくよく見ればが解かされている問題はの学年よりも上のそれである。いやハードル高すぎだろどんだけ期待値上げてるんだ、と善逸は思うものの悲しいかな、思ってはいても口には出せないからこそのヘタレなのである。
「三問連続不正解だ、腕立て伏せ百回」
「はい、先生」
「ひゃっ……!?」
 横暴な罰直に悲鳴を上げたのはではなく善逸である。いやいや腕立て伏せ百回とか今日び運動部でもやらないぞ、と慌てふためく善逸をよそに、はさっさと腕立て伏せの姿勢をとる。規定値ピッタリのスカート丈は今のところ鉄壁の守りでのパンツを守り抜いているが、そもそも制服で腕立て伏せなどやるべきでない。
「せ、先輩! スカートで腕立て伏せとかダメですから! 危ないですから! いろいろと!!」
「? 短パン穿いてるので……」
 ぴらりとがスカートを捲り、芋ジャージと名高いキメツ学園の短パンが晒される。絶対これは義勇の言いつけだろう、と年頃の女の子に芋ジャーの短パン着用を義務付ける義勇に呆れるものの。自らスカートを捲るというの行動に慌てふためいていた善逸がそのことに思いを馳せたのは、保健室で目を覚ましてからのことである。善逸の目に最後に映ったのは、鬼のような形相で善逸に制裁を下そうとする義勇の姿だった。

「いや俺何も悪くなくない!?」
 どこからか聞こえてきた悲痛な叫び声に、義勇と共に下校していたは首を傾げる。けれど義勇に呼ばれて、の頭の中から叫び声のことは弾き出される。学園の敷地内では徹底的に生徒と教師としての関係を守る義勇がを名前で呼んでくれるのは、こうして学園外にいるときだけなのだ。満面の笑みで義勇を見上げるを、義勇は優しい笑顔で見下ろす。引き取ったときは無表情で俯いてばかりだったがこんなふうに笑ってくれることを、何よりも尊く思っていた。
「あの、義勇さん。今日のご飯、鮭フライなんです。それと、しのぶ先輩が大会のお土産に入浴剤セットをくださったので、後でお好きなものを選んでくださいね」
「…………」
「義勇さん?」
 不思議そうに義勇を見上げるだが、純粋なに言えるはずもない。今のの言葉が、ご飯かお風呂かそれとも、の常套句のように思えたなどと。
「…………」
「わっ、」
 ぽすりと、の頭に手を乗せて柔らかい髪をかき回す。煩悩を振り払うように、しばらくわしわしと小さな頭を撫で回した。ようやく鎮めた欲求に、はぁと深いため息が漏れる。
「……義勇さん?」
 ただでさえ、血も繋がっていない男女の二人暮らし、それも教師と生徒という関係なのだ。せめてが卒業するまでは一線を超えるわけにはいかないと、義勇はよくわかっていた。けれど、耐えきれるだろうか。いや、耐えねばならないのだ。
、スタンガンは持っているか」
「あっ、はい、ちゃんと持ってます」
「使うべき時には、例え俺が相手でも使え」
「は、はい……?」
 意味がわかってなさそうにしていながらも、素直には頷く。護身用に持たせているスタンガンだが、自分自身が暴漢にならないようにと何度も自らに言い聞かせる。は義勇に絶対の信頼を寄せている上、例えがスタンガンを持って本気で抵抗したところで義勇には敵わないのだ。この幼気な信頼を自分の手で壊さないようにと、強く自戒する。キメツ学園全校生徒に畏怖をもって名を語られる冨岡義勇の、ありふれた煩悩と葛藤なのであった。
 
190217
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