「あ、さん」
「こ、こんにちは、炭治郎さん……ボール、ありがとう」
 体育の時間、隣のグラウンドから転がってきたソフトボール。駆け寄ってきた人間に拾い上げて差し出せば、それは炭治郎の家のパン屋の常連でもあるだった。隣のグラウンドは上級生だったのかと思いつつ、ボールを手渡す。その時目に入ったジャージの刺繍に、思わず疑問が炭治郎の口を突いた。
「冨岡……?」
「……あっ、ジャージ……?」
 生徒の名前が刺繍されるはずのそこには、「冨岡義勇」と刺繍があって。炭治郎も時たま禰豆子にジャージを貸すことはあるし何てことのない貸し借りだろうが、何しろその名は学園中に畏れられている義勇である。善逸が見たら卒倒しそうだなという言葉はさすがに呑み込んだ炭治郎に、は視線を追って首を傾げた。
「昨日、雨の前に取り込むのが間に合わなくて……冨岡先生が、高校生の時のジャージを貸してくれて、」
「冨岡先生は物持ちがいいんですね……」
「……ジャージ、綺麗だよね? 変なところとか、ないよね……?」
「は、はい。どうしたんですか?」
「今日みんな、ジャージを見たら炭治郎さんみたいに変な顔して、どこかに行っちゃうから……」
 自分のジャージ姿を見下ろして不安そうにするに、炭治郎はとても言い出せない。ほとんどの生徒に恐れられ、もしくは嫌われている義勇のジャージを着ているから、冨岡義勇の文字を目にした生徒たちに逃げられているのだと。の体格には大きいジャージはぶかぶかで、袖も裾も捲り上げているのが何だか可愛らしくもあるのだが。
「――竈門、授業中に何をしている」
「はっ、はい! すみません、すぐに戻ります」
 噂をすればなんとやら、グラウンドの間で話し込んでいる炭治郎に声をかけに来た義勇に炭治郎は頭を下げた。にも視線を向けた義勇は、その手にあるボールを見て事情を察したらしい。学外での仲睦まじさなどどこへやら、淡々とに告げた。
「鱗滝も、自分のクラスに戻れ」
「はい、冨岡先生。炭治郎さん、ありがとう」
「いえ、それではまた!」
 とてとてと向こうのグラウンドに戻っていくを見送って、炭治郎も踵を返す。こっそりと義勇を見上げた炭治郎だったが、義勇の視線は既にから外れ炭治郎のクラスの生徒たちに向けられている。存外生徒としてのには淡泊な反応を示す義勇に、そんなものかと炭治郎は首を傾げたのだった。

「え? あの人と先輩? 風紀委員会だと仲良……くもないか別に」
「そうなのか?」
先輩に対してもスパルタだし……」
 過保護であることはともかく、少なくとも下校中のような甘い空気は微塵もない。その辺りはも義勇も弁えているのだろう、そんなことを考える炭治郎に、善逸は顔を顰めて口を開いた。
先輩、家でもあの人のお下がり着てるのに……今日はジャージもあの人のだから話しかけづらい……」
「えっ、家でもお下がりなのか?」
「なんで炭治郎が知らないんだよ、仲良いんだろ」
「いや、うちに来るときはさん、いつもワイシャツに短パンかズボンだし……」
「それもあの人のお下がりだよ……」
「詳しいんだな、善逸」
「あのワイシャツ、男物じゃん。サイズ合ってないし」
 ワイシャツが女物か男物かなど気にしたこともなかったと、炭治郎は善逸の着眼点に感心する。
「この間も先輩に借りてたノート返しに家に行ったらあの人が出てきてさ……後ろからひょっこり出てきた先輩、あの人と同じジャージとTシャツ着てたんだよ……ぶかぶかのやつ」
「そ、そうなのか」
「家の中でペアルックとか……それもお下がりのジャージとか……先輩が嬉しそうなのが余計にキツい……」
 善逸はのことは好いている。優しい先輩として慕っている。けれど、の保護者はあの冨岡義勇なのだ。もし善逸がの保護者なら、きっと可愛らしい服を着せてやりたいと思うだろう。どうせ義勇のことだから、が喜んだという理由で馬鹿の一つ覚えのように自分のお下がりを与えているに違いない。別にはジャージとTシャツが好きなわけではなく、義勇がくれたものだから喜んだのだ。そんなこともわからないくせにに好かれている義勇のことが、善逸は少しだけ嫌いだった。

「……楽しいのか?」
「安心します」
「そうか」
 義勇の膝の上で、義勇の胸にぎゅうっと頭を埋めて。結局楽しいのかどうかはわからないが、すりすりと擦り寄るが可愛らしかったから、義勇はの好きにさせていた。もっとも、それで危うくなるのは自身の理性でもあるのだが。は義勇との接触を好んだし、義勇もに触れられるのは嫌いではないしむしろ安らぎを感じる。義勇のお下がりのTシャツは少しくたびれていたが、義勇の匂いが好きなのだとは少し照れたように話していた。何となく犬のようなところがあると、口にこそ出さないものの義勇は思っている。
「今日は悪かったな」
「?」
「炭治郎が、ボールを拾ってくれていたんだろう。追い返すような真似をした」
「いえ、義勇さんは先生ですから……」
 授業中の件を持ち出して謝る義勇に、はふるふると首を横に振る。柔らかい髪を撫でながら、義勇は「先生」という言葉の意味を反芻していた。義勇の腕の中で義勇の胸に頭を埋めて安らぐこの少女は、先生と生徒という関係をわかっているようでわかっていないのだろう。学内ではきっちりと線引きした態度を取れるだが、本当は家とはいえ男女がこうして接触するのも立場を鑑みれば好ましくはないと。そうわかってはいても言わない義勇も同罪だが、の幼さは時に義勇をじわりと蝕んだ。が望むから、が安心するから。そんな言い訳に任せてという安寧を享受する義勇は、きっと卑怯なのだろう。いつも丈の余る裾を捲っているお下がりのジャージは、動いたためか裾が落ちてしまっていた。それを捲り直してやりながら、細い踝の白さに目を惹かれる。掴んだら折れてしまいそうで、そんなに脆くはないと知ってはいても怖かった。

「はい、」
「お前は俺といて、いいのか」
「義勇さんといたいんです」
 こうやって、変わることのない答えを確かめる。そんなことはきっと、無意味なのに。は義勇に刷り込みのような好意を抱いているのだ。まさに子が親に向けるような、絶対的な好意を。この年頃の少女は、きっとそれを恋と簡単に錯覚してしまうに違いない。幸か不幸かはそれすらわからないほど情緒が幼いから、義勇は自分の否定しようもない愛恋をの想いと重なるものだと自惚れずにいられたけれど。は来年も再来年も、義勇のことが好きだと笑ってくれるのだろうか。いつか、後悔しやしないだろうか。
「義勇さん」
「何だ」
「明日も、こうしていいですか?」
「ああ」
 別にそんな確認などせずとも拒んだりしないのに、は律儀に確認をとる。も義勇と同じで、変わらない答えを確かめていることに義勇は気付かない。自分ばかりが、不安定な家族という枠を確かめているつもりでいる。そこにが同じ気持ちを抱いていることなど、気付こうともしていないのだろう。
「ジャージ、ありがとうございました」
「構わない、いつでも使え」
 互いの心音が聞こえそうなほど近い距離で、他愛のない話をする。それがどんなに不安定で贅沢な時間か、互いに気付くこともなく。この先どうしたいだとかどうなりたいだとか、敢えて目を背けて今この時の安寧を甘受する。もしかしたら義勇の方がよりよほど、臆病なのかもしれなかった。
 
190429
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