「…………」
 義勇とふたりで暮らしている家は、少しばかり大きすぎる。義勇が任務に出ている間ひとりで過ごすと、余計にそう思われた。鱗滝の元で暮らしているときは、いつも不思議と寂しくなかった。鱗滝がいなくて不安なとき、どこからかお面をつけた子どもたちが現れては傍にいてくれたのだ。後に彼らは、最終選別で鬼に殺された兄姉弟子たちだったと知ったのだけれど。
「……真菰おねえちゃん、錆兎おにいちゃん……義勇、おにい、……義勇さま」
 ぽそぽそと呟きながら、玄関の掃き掃除をする。義勇はの兄弟子にあたるらしいけれど、到底真菰や錆兎たちのように気安く呼べるはずもない。狭霧山で共に過ごしたわけではないからかもしれないが、そもそも義勇は「水柱様」なのだ。こんな不出来な臆病者を、妹弟子とも思いたくないかもしれない。今がここにいられるのは、義勇の優しさだ。せめて今できることはがんばろうと、は箒を握り直して顔を上げる。そして、門扉の外からをじっと見つめる大きな瞳と目が合った。
「ひゃッ……!?」
 反射的に距離を取ろうとして、敷石に躓く。そのまま無様に尻もちをつくかと思われたが、ぎゅっと目をつぶったに訪れたのは痛みや衝撃ではなかった。ふわりと、いつかの優しい匂いがして。とん、と軽く肩を叩かれ恐る恐る目を開ける。を転ぶ前に抱き留めてくれたのは、炎柱の煉獄杏寿郎であった。
「また君を驚かせてしまったか! すまないな、怪我はないか?」
「え、炎柱様……」
 見られていた。また見られていた。義勇を兄などと呼ばわろうとしていたところを見られてしまった。一度ならず二度までも、杏寿郎にものすごく恥ずかしいところを見られてしまっている。穴があったら、いやなくとも掘ってでも入りたい気持ちだった。消え入りそうな声で大丈夫だと答えるに、怪我がないなら何よりだと杏寿郎はにっこり笑った。
「君は冨岡の身内なのか?」
「いっ、いえ、その、同じ育手に、師事していて……」
「なるほど、妹弟子か!」
「でも、お会いしたのは義勇さまに拾われたときが初めてなので……あまり、その、」
「うん?」
「……その、さきほどの独り言は、忘れていただけないでしょうか……?」
「冨岡に知られたくないのか?」
「……はい」
「ふむ?」
 まあ色々あるのだろうと、杏寿郎は頷く。お礼を言って頭を下げるに、杏寿郎は「そういえば冨岡はいないのか?」と義勇の所在を訊ねた。
「ぎ、義勇さまは、任務でご不在です」
「そうか……一応許可は取るべきかと思ったのだが」
「?」
、団子を食べに行こう!」
「……!?」
 がしっと手を掴まれて、箒を取られる。抗議する間もなくスタスタと歩き始めた杏寿郎に、理解が追いつかなくて。てっきり義勇に何かしらの用があって来たのかと思ったのだが、を団子に誘うことが目的だったらしい。予想だにもしない事態に何か制止の声を上げなければいけないと思うのに、わたわたと手が泳ぐばかりでうまく言葉が出てこない。元よりあまり人の話を聞かないらしい杏寿郎は、最低限の戸締りを確認するとの手を引いたまま道に出てしまう。人さらいよりも鮮やかな拉致だったと、たまたまその光景を目にした隠は仲間に語ったのだった。

「千寿郎に、真顔で諭されたのだ」
「は、はあ、」
「ああ、千寿郎というのは俺の弟だ! 真面目で努力家で、自慢に思っている。少し内気なところもあるのだが……そんな千寿郎が、真剣な顔をして『女の子をお手玉にするのはダメです』と……」
「そ、そのことはお気になさらないでください」
「いや、それではダメだ! 俺の我儘ということは百も承知だが……」
 の手を引きながら、河川敷を歩く杏寿郎。詫びなど要らないと、拙くも必死に繰り返すをちらりと見下ろした。
「君の笑う顔が見られるまでは、構わせてほしい」
「ッ!?」
 率直ながらも意図のわからない言葉に、は竦み上がって足を止める。に合わせて立ち止まった杏寿郎は、握った手をぐっと引き寄せてと向かい合った。
「俺は君を、笑顔にできなかった!」
「えっ、あ、あの、」
「一人で置いていかれて師範の羽織に顔を埋めているなど、なんて不憫な子どもだろうと思ったのだ!」
「そ、それは忘れてください……!」
「それでも君は笑っていただろう、それなのに俺が驚かせてしまった。それもあって遊び相手を買って出たが……君は始終怯えたままだった。今日もずっと、困った顔をしているだろう」
「……い、いえ、その……申し訳ありません……」
「なぜ謝る? 君は俺に謝るようなことをしたか?」
「え、えっと、その……」
「……俺は君を困らせてばかりのようだ。いかんな、そんな顔をさせたいわけではないというのに」
 本当に大丈夫だからどうか捨て置いてほしいと、それをこの善性が人の形を成したようなひとに言うのは躊躇われた。例えば愛想笑いでもできたなら、そうやって笑顔のかたちを作って大丈夫だと一言この優しいひとに安心をあげられただろうに。杏寿郎の親切に報いたいのに、どうして笑顔ひとつ見せられないのだろう。こんなに暖かいひとの表情を曇らせてしまったことが、とても悲しく思えた。陰らせたくないのだ。その眩しすぎる瞳の強さは、には少し怖いのだ。不甲斐なさと申し訳なさに、の瞳に薄らと水の膜が張る。それを見た杏寿郎は、大慌てでを抱き上げた。
「すまない! な、泣かないでくれ! 俺が悪かった、この通りだ!」
「も、もうしわけ、」
「女子を泣かせるなど……腹は切れないが、どんな詫びでもする! そうだ、団子! 甘露寺の行きつけの茶店なのだ! きっと美味に違いない、団子を食べよう、!」
 言うが早いが、杏寿郎はを抱えたまま全速力で駆けていく。周りの景色も霞むほどの速さに、の涙は瞬く間に吹き飛ばされて。速さは怖いけれど、涙と一緒にぐるぐると思考に渦巻いていた自己嫌悪も飛んでいく。おそるおそる見上げた杏寿郎は、真っ直ぐに前を見据えていて。はこっそりと、杏寿郎の羽織を掴んだ。
「……!」
 きゅ、と小さな手が縋る感触に、杏寿郎はを見下ろす。は相変わらず困ったように眉を下げていたけれど、それでも風のように流れていく景色をぼうっとした表情で眺めていて。心做しか、目がきらきらと楽しげに輝いている気がする。少なくとももう怯えたり泣いたりは、していないように見えて。けれどここで声をかけてしまえば、きっとまた驚いてしまうのだろう。はどことなく、千寿郎の姿を思い起こさせた。千寿郎よりも、数倍臆病なようだが。
 ――女の子は、大切に扱ってあげてください。
 鬼殺隊で周りにいる女性は強いから忘れてしまいがちなのだろうが、と千寿郎は兄を嗜めた。その瞳の強さは、亡き母の真っ直ぐな光を確かに受け継いでいて。内気なだけではないと、杏寿郎は千寿郎の強さをたくさん知っている。にもきっと、そういうところがたくさんあるのだろう。けれどは千寿郎ではないから、少しずつ距離を探っていかなければならないのだ。そんなことに今更気付いて、杏寿郎は弟に胸中で詫びた。ああ言って諭してくれたのに、また失敗を重ねてしまったらしい。追えば遠のく逃げ水のように、の柔らかな表情は怯えの影に隠れてしまう。けれど杏寿郎はもう一度、あの柔らかな笑顔を見たいのだ。寂しそうな子どもが、屈託なく笑う姿が見たい。美味しいものはきっと人を笑顔にするだろうと、杏寿郎は更に強く地面を蹴ったのだった。
 
190224
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