可愛い可愛いと、ずっと愛でられていたことは覚えている。暗い部屋で唯一輝く虹色の虹彩は、の朧気な記憶にも強く焼き付いていた。匂いを嗅がれて、舌先で肌を嬲られて。
――ここにいれば、何も怖いものなどないよ。
ずっと守ってあげると、それは言った。けれどは怖くて仕方なかったのだ。いつだってその男が、怖くて堪らなかった。
「、」
ぎゅっと縮こまるの緊張を解きほぐすように、義勇はの頭を撫でる。匂いを嗅がれるだけで緊張して固まってしまうようなを、義勇は大事に扱ってくれた。をあの暗い部屋から保護してくれた義勇は、「タワー」という場所で働いている「センチネル」なのだそうだ。を見つけたのは、とあるカルト教団の捜査中のことだったらしい。義勇が捜査していた建物はもぬけの殻だったが、その地下に閉じ込められていたのがで。当然教団への関与が疑われただったが、調査の中で「ガイド」という存在であることが判明したことで身柄は義勇の預かりとなった。何も知らされず監禁されていただけの子どもの取調べを続けるよりも、未だ「バンド」を持たない義勇にガイドを与える方が有益だと判断されたのだそうだ。はまだ、自分のことも義勇のことも、今暮らしているタワーのこともよくわからない。わからないけれど、あの日暗い部屋から出してくれた義勇に安心と温もりを感じている。義勇の役に立てるなら、自分の存在が消費されても構わないと。そう思うくらいには、義勇はに優しくしてくれた。
「……ん、」
義勇の鼻先が、何度もの首筋を掠める。髪や鼻先の触れる感触が擽ったくて、けれども躊躇いがちに義勇のつむじに鼻先を埋めて匂いを嗅いだ。肉体的な接触を重ねて、センチネルとガイドはバンドになるのだそうだ。リスクがあるとはいえ超感覚を持ち社会的に保護され特権階級にあるセンチネルと、その唯一の弱点ともいえるゾーンアウトからセンチネルを救えるガイド。とはいえガイドはセンチネルの超感覚ゆえの苦痛を抑える以外の能力を持たないから、社会的にはセンチネルのおまけのようなものらしいけれど。それでもセンチネルにとっては不可欠な存在なのだと、義勇はに語った。どうして今まで義勇はバンドを持たなかったのだろうと、は首を傾げたけれど。「人手不足だ」と目を背けた義勇が、そこに触れられたくなさそうにしていたから。は口を噤んで、義勇と少しずつ関係を進めていた。本当は、まだは義勇のバンドではないらしい。肉体的に繋がって初めて、と義勇は本当の意味で結ばれるのだそうだ。超感覚の抱えるリスクを思えば一刻も早くバンドになってしまった方がいいだろうに、義勇はのことをひどく大切に扱ってくれていた。何も知らないに、本当はその行為が何を意味するのか教えてくれて。それでも自分でいいのかと、繰り返し尋ねた。意思など尊重せずともをどうとでもできる権利を与えられているのに、義勇はに教えた上で意志を問うてくれる。優しくて、誠実な人だった。
「あの、義勇さま」
「何だ」
「苦しいの、とか、痛いのとか、大丈夫、ですか」
「……ああ」
帰ってきたときの義勇は、とても苦しそうだった。駆け寄ったを抱き締めて、ぎゅうっとかき抱いて。それでも、苦痛から逃れるために性急な行為に及ぶことはなく。が抱き締めて、頬や額にキスをして、一生懸命に苦痛を取り除こうとするのを静かに享受していた。
「、ここでの生活に……不自由はないか。不当な扱いを、受けていたりはしないか」
「大丈夫です、とても良くして、もらってます」
「……そうか」
義勇はいつも、を気遣ってくれる。ガイド不足故に、は義勇の他のセンチネルの一時的なバンドの役目も課せられていた。そこで嫌なことをされていないかと、いつも心配そうに問う。義勇がいなければ、はこの部屋を自由に出ることさえできない。それもまた、義勇の表情を曇らせているらしかった。確かに、他のセンチネルと触れ合うのは緊張するし、少し怖い。この間は首を噛まれて義勇に渋い顔をさせてしまった。自分を大切にしろと、義勇は毎日のように言う。けれどそれを言う義勇の表情はいつも苦しそうで、どうしたってはその苦痛を取り除きたいと手を伸ばしてしまうのだった。だがその苦痛は、には取り除けないものらしい。感情による苦痛は、には癒すことができないのだ。どうしたら、義勇は苦しくなくなるのだろうか。行く宛もなく記憶もなく、センチネルに目をつけられやすいガイドであるにとって、ここの軟禁生活は保護としての側面もあった。義勇が思うほど、はタワーでの日々を悲観していない。はどう足掻いてもガイドでしかなく、外の世界で生きていく術も持たず、それでも義勇という優しいセンチネルに庇護されている。これを幸運と呼ばすして、何を幸運と呼ぶのだろうか。それに、ここにはあの男がいない。毎日暗闇で誰かに怯えていた記憶だけが、の過去の全てだ。あの恐ろしい日々から救い出してもらえただけで、十分に幸せだった。
「その……義勇さまとこうするの、好きです」
恥ずかしい気持ちもあるし、緊張もするけれど、どこか安心する。暖かい気持ちになる。義勇が教えてくれる「先」は少し怖いけれど、義勇とならそこに進みたいと思う。義勇が確かめるようにの頬に触れるとき、躊躇いがちに首筋に顔を埋めるとき、は確かに義勇の優しさを感じるのだ。あの暗い部屋での朧気な記憶の中の行為と、していること自体は変わらないはずなのに。そこにある感情が違うだけで、こんなにも温かくて安らぐのだと。は義勇のことが好きだ。初めてお日様と青空を見せてくれた義勇のことが好きだ。に自分の意思で行動することを教えてくれた義勇のことが好きだ。が嫌ではないか確かめてから触れようとしてくれる義勇のことが好きだ。義勇のことが好きだから、怖かったはずの行為に安らぎを感じることができる。こうして安心を得られる相手がバンドであるというのは、きっととても幸せなことだ。義勇はのソウルメイトではないらしいけれど、はどこにいるかもわからないソウルメイトよりも義勇が良かった。ソウルメイトのことを考えると、どうしてか恐怖で背筋が震えて、目の前が真っ暗になる。こんなに怖いのなら、きっと出会わない方がいい。に安心を与えてくれる義勇と、結ばれたかった。
「他のセンチネルに、痛いことはされていないか」
「……だい、じょうぶです」
「本当か」
「痛いことは、されてないです……本当に」
「…………」
このタワーには、が一時的なバンドとして仮に結ばれているセンチネルがいる。本当は、彼らのところにあまり行きたくない。彼らがどうこうというわけではなく、どうしてか行為の最中に胸が苦しくなるのだ。本当は義勇とだけ触れ合いたくて、他の誰かと触れ合うとぎゅうっと胸が痛くなる。けれど、がそんなことを口にしていいのかわからなかった。センチネルがどんなに自分の五感に苦しめられているか、は知っている。義勇だけのガイドでいたいと思うのは、きっとひどい我が儘だろう。彼らは義勇よりよほど躊躇いなくに触れるけれど、痛いことや酷いことはほとんどしない。虐げられないだけで、十分なのではないだろうか。そう思うけれど、ずきずきと胸の奥が痛む。この痛みがどうして生まれるのかわからなくて、義勇に問うてみたけれど。そうすれば義勇も痛そうな顔になってしまったから、はただ謝るしかできなかった。
「謝るべきは俺だ」
「……?」
「俺のせいだ」
を抱き締めて、義勇は許しを乞うように頭を垂れる。そんなふうにされては、は困ってしまう。義勇は何一つ、悪くない。を助けてくれて、にたくさんのものを与えてくれる。義勇が謝る必要などどこにもないから、はそう口にして義勇の頬を撫でるけれど。
「俺を許すな」
今はわからなくていいからと、義勇はを強く強く抱き締める。戸惑うに明かせない胸中の苦しみを直視することで、この幸福に溺れるまいと自身に言い聞かせる。お前は幸せなんかじゃないと、そう言ってしまうのが怖い。ガイドとしては、確かに幸福な部類だろう。けれどひとつの命としては、あまりにも不自由で不幸だ。ヒドゥンとして、普通の人間のように生きていけたはずのが、宗教団体に囚われて、センチネルにガイドとして拾われて。それがどんなに束縛された安息か、は知らないのだろう。それでも義勇は、を自由にしてやれない。義勇がを手放したところで、このタワーにいる他のセンチネルのバンドにさせられるだけだ。外の世界に逃がしてやったとて、ガイドとして目覚めてしまった以上安全には生きていけまい。だから義勇が守らねばならないと、壁の中の安息を与えて救った気になっている。の体温に、救われて。に好意を、向けられて。報われてはならないと、自身を戒める。も知らない本来の幸福を、義勇だけが知っていた。
190501