時々、錆兎と義勇は血の匂いがする。柔らかい、けれどどこか切ない表情でを撫でるときは、特にそうだった。は自分が「そういった場所」に身を置いていることを、あまり実感できずにいる。拾われてからずっと、まるで普通の子どものように暮らしていた。ここにいる誰もが、が普通であるために心を砕いていてくれたからだ。は鱗滝たちの「仕事」について、何も知らない。一部の隙もなく、彼らはをその世界から締め出してくれている。にとって義勇と錆兎は厳しくも優しい兄のような存在であり、真菰は優しくてふわふわとした姉のような存在であり、鱗滝は意外と涙脆い父親であった。がただの子どもでいられるよう、どれだけ大切にしてもらっているのかは肌で感じていた。だからは家族のいうことをよく聞いたし、「あちら」の世界を覗こうなどと少しも思っていなかったのだ。
「……
 そこにいるんだろう、と義勇の声が響く。廊下の曲がり角に隠れていたは、おそるおそる顔を出した。玄関に立っていた義勇と錆兎と、まっすぐに目が合う。片眉を上げて、錆兎はに問うた。
「どうしたんだ、こんな時間に」
「喉が渇いて……お水、飲もうと……」
 それは本当のことだった。彼らもそれはわかってくれているようで、誰も悪くない不運に苦虫を噛み潰したような顔をする。どこか気怠げで、けれど鋭い空気を纏う彼らは、困ったように頭をかいた。するりと手袋を外した義勇が、それを黒いゴミ袋のようなものに押し込む。その手袋は白いのにところどころ染みのようなものがついていて、二人から僅かにする鉄の臭いにはその染みが何なのかを察した。ゴミ袋は内側から奇妙に凸凹と膨らんでいたが、それが何なのかを考えてはいけないのだろう。
「……ごめんなさい」
が謝ることじゃない」
 ゴミ袋の口を固く結んで、錆兎がに仕方なさそうに笑う。「怖いか」と訊かれたから、は首をどちらに振るべきか躊躇した。
「……『それ』は怖い、ですけど、義勇さんと錆兎さんは、こわくないです、」
 のか細い声に、二人は顔を見合わせる。近寄ったを撫でようとして、義勇は躊躇ったように手を下ろしたから。は義勇の手を両手でぎゅっと掴んで、いつもしてくれるように頭の上にぽんと乗せた。
……」
 義勇と錆兎が何をしていようと、彼らはの恩人で、は彼らに生かされている。普通の子どもでいることを彼らが望むなら、きっと今見てしまったものは忘れるから。が普通であるために、彼らがに見せまいとしてきたものだ。事故のようなものだとしても、は二人が触れることを躊躇う理由を作ってしまった。だから、こうしていたいとから伝えなくては。くるりと振り向いたは、今度は錆兎にぎゅっと抱き着く。強くなった鉄の臭いには、気付かないふりをした。
「……、今日のことは忘れられるか?」
「はい」
「いい子だな」
 錆兎が、の頭を撫でてくれる。それが嬉しいのは責められるべきことかもしれないが、にとって大切なものは社会の善悪よりも家族の気持ちだ。ぽんぽんと背中を叩いた義勇が、もう寝るようにとに促す。こくりと頷いて本来の目的である台所へと向かったを、二人はじっと見つめていた。

「……寝てるか?」
「寝ているな」
 音を立てずに部屋に入るのは、仕事柄身についた癖だ。あの後色々と後始末をした二人は、自室で眠るの様子を見に来ていた。布団の中で、すやすやと寝息を立てている。しゃがみこんで幼い寝顔を見下ろして、の様子を見守っていた。自分が何を見たのか、勘のいいは察しているだろう。悪い夢に魘されていたり、眠れなくなっていたりするのではないかと心配したが、この分では大丈夫そうだ。とはいえの片手はぎゅっと強く布団を握り締めていて、義勇は眉を寄せる。眠りの浅いが起きないか心配だったが、義勇はそっとの手を上から包み込んだ。
「……錆兎」
「義勇だって」
 の頬を撫でた錆兎に咎めるような視線を向ければ、そっくりそのまま返される。まろい輪郭をなぞるように指先で頬を撫でる錆兎は、の寝顔を見下ろして呟いた。
「失敗したなあ」
「……ああ」
「鱗滝さん、怒らなかったな」
 むしろ今まで何も見ずにいられたことの方が幸運だったのだと、鱗滝は二人を責めなかった。は今回の仕事に直接関わるものは見ていないし、口外するような性格でもない。二人が忘れるようにと言ったのならそれで充分だろうと、鱗滝は判断した。それでも、これ以上は関わらせてはいけない。はまだ、「こちら側」には無関係でいられる。
、高校卒業したらどうするんだろうな」
「大学に行くんじゃないのか」
がいるの、就職コースだぞ」
「……家を出るのか?」
「どうだろうな」
 漠然と、幸せに生きてほしいと思っていたけれど。はこれから大人になって、二人の庇護がなくとも生きていけるようになるのだ。鱗滝の家から離れることが前提ではあるが、は大抵の生き方は望めるだろう。鱗滝が、かつて自分たちにその道を提示してくれたように。は、家族といることを望んでしまいそうだけれど。
「お前も嫌だろ、義勇」
「錆兎こそ」
 幸せにと、そう願っているくせに手元から離れるのが嫌だと。それに気付いてしまえば複雑な気持ちにもなる。「こちら側」は男の世界だから、が望んだところで義勇や錆兎のように組員として働くことはできない。だからといって、真菰のように身内としてここに身を置けば、警察沙汰の対応やらで家族が何をしているのか知ることになる。それが嫌でこの家の人間はに応対をさせないし、学校の送り迎えだって毎日しているのだ。毎日部屋住みの若い衆のために家事をするだけでも、女子高生としては異質な生活だ。は子どもだから、家族と離れることを厭うて異質な生活を望んでしまうかもしれない。錆兎たちだって本心ではを手放すことを望んでいない。自分たちに懐いて無邪気な笑顔を浮かべる小さな生き物を、冷淡に突き放せる方がどうかしている。けれど本心からの幸せを願うのであれば、いつかそうしなければならない日は来るのだろう。が彼らの傍にいることを強く望んだときに、それを拒める気がしない。悪い大人に捕まったものだと、を憐れむ気持ちすらある。
「どうしようか、義勇」
「錆兎はどうしたいんだ」
 答えの代わりに、錆兎はの髪をさらりと掬い上げる。肩を竦めた錆兎を横目に、義勇はの指先に口付けたのだった。
 
190702
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