ぱちり、ぱちり。寡黙なふたりの対局を、じっとは見つめていた。は頭が良くないから、戦局を読み解くことすら難しいのだけれど。それでも、義勇と錆兎が将棋を指すのを眺めているのはただ楽しかった。ふたりとも、と指すときはむしろ指南といった様子で飛車角抜きの手加減どころか助言までしてくれるから。全部の駒が揃ったふたりの対局は、にはただただ「すごい」としか思えない光景で。そういうところが自分の頭の悪さなのだとわかってはいたが、邪魔と言われないのをいいことにただじっと眺めていた。
、また見てるの?」
 好きだね、と真菰が大福をお盆に乗せてやってくる。真菰もふたりの対局を眺めることがあるが、今日はその気分ではないらしい。大福をに預けてどこかに行った真菰を見送り、はふたりに大福を差し出そうとする。「今はいい」と対局を理由に揃って断ったふたりに頷いて、は大福をひとつ手に取ってあむ、と齧り付いた。
「……義勇」
「なんだ」
「賭けないか」
「何を」
 視線は将棋盤のまま、錆兎がの方を指さす。それに「わかった」と頷いた義勇に、ふたりは大福を賭けたものだとは思ったのだ。それからしばらく、ぱち、と駒の音が響くのを聞いていたが。
「……投了だ」
 難しい顔をした義勇が、自らの負けを告げる。大福の皿を錆兎に差し出そうとしただったが、その手を掴んで錆兎はをひょいっと抱きかかえた。
「……!?」
「一局の間、勝った方の」
「……わかった」
 混乱するをよそに、錆兎と義勇はさっさと駒を並べ直していく。を膝の上に抱えたまま先攻で打ち始めた錆兎と、どこかムスッとした表情で頷いた義勇の間でをやり取りする取り決めがなされてしまったらしい。の頭の上に顎を乗せた錆兎の距離の近さに、どぎまぎと落ち着かない。何か丁度いいクッション代わりのものが欲しかったのかもしれないと、は懸命に自身に言い聞かせて平静を保とうとした。真剣な対局のときの義勇の表情が目の前にあるのもが落ち着かない一因で、縮こまるを置いてきぼりに盤上の駒はどんどん動いていく。錆兎はの腹に手を回したまま、もう片方の手で迷いなく指していく。けれど一定の速さで動いていたその手が不意に止まって、とんとんと思案するように錆兎の指がの腹を軽く叩いた。「うん……」と唸るような錆兎の声が思ったよりも低く響いて、は身を震わせる。
「……やられた。投了だ」
、」
「は、はいっ……」
 当然のように手招いた義勇に反射的に頷いて立ち上がったは、今度は義勇の膝の上に抱えられる。の肩口に顎を置いた義勇の息が、首筋にかかるのがくすぐったい。身を強ばらせて変な挙動をとらないようにとカチコチに固まるにふっと笑って、義勇はもぞりと手を動かした。「ひああ、」と間抜けな声を上げたの手を掴んで、に駒を打たせていく。
「……こうして、飛車を取られないように歩を進めておく」
「はい……」
はいつも展開が早いからな……そっちの桂馬、もらった」
 を挟んで指南を続けながらも、ふたりの手は淀みなく動いていく。せっかく教えてもらっているのに、首筋を擽る義勇の髪の感触だとか、の手を握って指し方を教える大きな手の体温だとかが気になってどうにも頭に入ってこない。わたわたと慌てふためくをよそに、義勇と錆兎は涼しい顔で駒を進めて。
「今度は俺の勝ちだな、王手」
「……詰みか」
、次は俺が教えてやるから」
 ひょいっと錆兎に手渡され、当然のように上から手を握られる。もはや主旨などわからなくなっていたが、その後もは何度か二人の膝の上を行き来したのだった。

「今日は俺の勝ち越しだから、は借りてくぞ」
 そう言って上機嫌にを抱えて自室に連れてきた錆兎は、の膝枕の上でをじっと見上げていた。まっすぐな視線が気恥ずかしくて宍色の髪を撫でたり口元の傷をなぞったりしてしまうが、錆兎の視線はちっとも外れない。なんとなく見つめ合っていると、錆兎がおもむろに口を開いた。
「綺麗になったな、
「えっ」
「綺麗だ。ついこの前まで、小さな子どもだったのに」
 の頬に手を当て、しみじみと錆兎は言う。義勇がを拾ってきた当時は、捨て犬の世話をするような感覚で。髪はくすんでざんばらだったし、可愛らしい服を与えようとしてもぶかぶかの義勇のジャージにくるまりたがるものだから巣に引きこもろうとする小動物のようだった。それが最近は義勇や錆兎の髪まで気にするようになったし、真菰と一緒に服を見に行ったりもする。何より、子どもというより少女と呼ぶべき年頃になってきた。頬の輪郭や頭の丸みをただ可愛いと撫でていただけの自分が、どうやってそこに触れていたのかわからなくなるほど。
「……
「はい、錆兎さん」
 呼べば律儀に返事をするの後頭部に手を回し、ぐっと抱き寄せる。距離の近さに赤くなる頬が愛らしくて、そこに唇を押し付けた。
「……っ!?」
 驚愕して凍り付いたように固まっただが、そこには拒絶や嫌悪の色はない。そもそも年頃であるというのに色恋の話もせず恋人も作らず休日を錆兎たちと過ごしたがるのだから、少しくらいは自惚れる。そこにあるのが明確な恋愛感情であれ無自覚な慕情であれ、に慕わしく思われている自覚はあった。
、次は唇を重ねるから」
「……ぁ、」
「嫌なら避けてくれ」
 身を起こして口付けるが、は動かなかった。ふにりとした感触が錆兎の唇に重なって、柔く潰れる。そっと離してまた唇を押し付けても、やはりは拒絶する素振りすら見せなかった。ただ重ねるだけのキスを何度か繰り返して、呆然と錆兎を見つめるの頬を撫でる。火のついたように赤く熱くなった頬を抑えて、は「今の、」と狼狽えたように呟いた。
「錆兎さん、今の……今のは、」
「ああ」
「……その、女の人にするそれだって、思っていいですか、」
 妹みたいな子どもじゃなくて。そう消え入りそうな声で問うのいじらしさに、錆兎はの顎を掴んでまた唇を奪う。の顎に指をかけたまま、錆兎は口を開いた。
は妹でいたいのか」
「……ちがう、と思います、でも、」
「でも?」
「恋だったら、錆兎さんだけ……大切なんじゃないかって、思うんです……」
 だってそうでなければ、はおかしい。言外に含まれた「錆兎だけじゃない誰か」など明白で、はくしゃりと顔を歪める。
「だって、変です、私は義勇さんにもきっと、今の、嫌じゃないって……でも、義勇さんと錆兎さんだけで、けど……」
 要領を得ない、狼狽えるの本心。普通ではないから恋ではないと、恋だったらおかしいとは言う。けれど、今更ただの兄妹分でも家族愛だけでもない。他の家族には抱いていない感情があると、は認めてしまっている。曖昧な家族の線を破ったのは錆兎で、けれどそれは錆兎も特別な感情をに認めてしまっているからだった。
は俺たちが好きだろう」
「……っ、はい」
「それじゃだめなのか」
 錆兎は、自分の人生にを巻き込む覚悟を決めていた。仕事に関わらせる気はないが、そういう身内を持った者としての人生をに強いるつもりでいる。に帰る場所がないと知ったとき、安堵してしまったことを認めざるを得なかったから。けれど義勇は、まだ迷っている。が望んでもなお迷い続けるだろう。だからもう、義勇も巻き込んで否応なしに認めさせればいい。得てしまえば、失うのが怖くなる。それでやっと、義勇は腹を括れるのだろう。
「いいんだ、。それが何でも」
「錆兎さん……?」
「一緒にいたいとか、大切にしたいとか、どうしたいかはハッキリしてるだろう。それだけでいいんだ」
 の幼い情緒は、恋や愛を定義できない。好きという曖昧な慕情で、義勇や錆兎と一緒にいたいと思っている。それできっと、十分だ。世の中の普通に照らしての正誤など、元より自分たちのような人間には関係ない。ただそれがの望む幸せであるかどうかだけが気がかりだったが、それを疑うことはへの侮辱になるのだろう。子どもだとはいえ、だって自分の選択の結果は自分で負うべきものだと理解しているのだ。
「……義勇は怒るかもしれないな」
「?」
「その時はから義勇にキスしてやってくれ」
「えっ、あっ、はい……?」
 見ている側からすれば、いっそ滑稽でもあるのだろう。宇髄の含みのある笑みを思い出して、錆兎は口の端を吊り上げての頬に手をやる。のどこがこんなに好きなのか、錆兎自身にもよくわからない。捨てられた仔犬のような不憫な愛らしさに、転じて庇護という生きがいを与えられている。言ってみればそれは、何もではなくてよかったのだろう。けれど現実として、ここにいるのことを錆兎は手放しがたく思っている。やはり愛だの恋だのと名付けるには、いささか純度の低い感情だった。
 
190710
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