――俺はお前を叩かない。蹴らないし、殴らない。
 その子どもは、部屋の隅で蹲って丸まっていた。男を蹴り飛ばして気絶させた義勇が振り向いて見たものは、暴力に慣れきってしまった子どもで。頭を庇って、ただぎゅうっと縮こまっていた。「もらった」子どもをどうすべきか考えあぐねて、それでも結局手を差し伸べることにした義勇はその子どもの怯えように眉を寄せたものだ。悲鳴も上げない。許しも乞わない。泣きもしない。それが無意味で、却って自分の命を縮めるものであることを理解してしまっている者の反応だった。
 ――噛んでいい。噛まれても俺は殴らない。
 大きな瞳だけが、怯えの色を煌々と灯していた。差し出された掌をすんすんと嗅いで、かぷりと噛んですぐ後ずさって。予測した衝撃が来なかったことに、ぎゅっと閉じた目をおそるおそる開けていた。当然のように信用されていなかったわけだが、義勇は再びその子どもに手を差し伸べた。そろそろと自らの手を伸ばして、小さなその手で義勇の指に触れて。義勇は動かず、子どもが義勇の指をおっかなびっくり握るのを見守る。冷たいその手の強ばりが、義勇の体温に溶かされるように徐々に解けていく。僅かな面積だけ触れていたのが、少しずつ義勇の指をしっかりと掴んで。窺うように、虚ろな瞳が義勇を見上げる。期待することに疲れたような目が、気に食わなかった。
「……あったかい、」
 消え入りそうな声で呟いて、きゅっと義勇の手に縋る。その手をぐっと握り返しても、拒絶する素振りは見せなかった。差し伸べられた手が温かいという、ただそれだけのことでこんなに救われたような顔をする。義勇にも覚えのあるその表情が見ていられなくて、義勇はその子どもを連れて帰ったのだ。

「……どうした、
 休みの日にがわけもなく隣にいるのは、いつものことだ。臆病な分、家族とくっついていたがる。詰め将棋の本を読む義勇の隣で、何やら料理の本を読んでいたが唐突に義勇の肩に頭を預けたものだから、どうかしたのかと問うたのだ。
「その……理由はないんですけど、こうしていたくて」
「そうか」
 淡々と返したものの、から触れられることに驚いて鼓動が早くなったのは事実だ。普段何の気なしに触れていたのに、自分が触れられるとどうしたらいいのかわからなくなる。丸い頭は小さくとも確かな重みを持っていて、その重さにどうしてか安心を覚えた。
「…………」
 そっと、の頭を抱き寄せて胸に埋めさせる。本が読めなくなってしまうかと思ったが、はぱたんと本を閉じて横に置いた。義勇も、頭に入らない文字が並んでいるそれを閉じる。義勇の厚い胸に頬を擦り寄せたが、鼓動の音に聞き入るように目を閉じる。小さな頭を抑える義勇の手に、そっとの手が重なった。
「……小さいな」
「小さいですか……?」
「ああ」
 手を掴んで、まじまじと指や爪を眺めてなぞる。あの日も小さかったが、今では別の意味で小さい。掌は頼りないし、皮膚は薄くて刃物を当てればすぐにぷつりと切れてしまいそうだ。指もおもちゃのように細くて短くて、短く切り揃えられた爪もまるで貝殻のようだ。同じ頼りなさでも、拾った頃の子どものそれよりむしろ記憶の中の姉のたおやかさを彷彿とさせた。
「……ひえっ、」
 おもむろに指先に口付けた義勇に、情けない声が上がる。それでも、顔を上げたの表情を見ればそれが嫌悪や拒絶ではなく単なる驚きなのだとわかった。
「……理由はない。こうしていたいだけだ」
「は、はい……」
 同じ言葉を返されて、は頬を赤く染めたまま俯く。けれどふと顔を上げたは、そっと義勇の手を握り返しその指に唇を寄せた。確かめるようにかぷりと食んだあの日にはなかった、色めいた雰囲気がそこにはあって。義勇の指に、手の甲に、は尊いものに触れるように口付ける。
「……義勇さん、」
 縋るような、希うような。そんな表情で、は義勇を見上げた。繋いだ手を胸元に引き寄せて、近くなった距離に顔を赤らめながらも義勇の唇にふにりと自らの唇を押し付けた。稚い、けれど明確な意味を持った口付けに、義勇がわずかに目を見開いて。けれど拒むことはなく、ぼやけるほどの距離で互いの表情も見えないまま、それでも目を閉じないまま重なった息を感じていた。

「……に何を言ったんだ」
「どうした、いきなり」
「…………キスをされた」
 ああ、と錆兎は頷いて腕を組む。どうしてそうも平然としていられるのかと、義勇は胡乱気な目を錆兎に向けた。
「何を言ったというか、キスをした」
「…………」
「俺がに」
「どうしてそこからが俺に……」
「俺のことも義勇のことも好きなのに、それが恋だとしたら自分がおかしいと言うんだ」
「……普通はそう思うだろう」
「普通じゃなくてもおかしくても、俺たちにとっては一番良い形だと思うが」
 がどちらかを選べば納得するのかと、錆兎は義勇に問う。その問いかけに視線を泳がせた義勇は、「そうじゃない」とぼそりと呟いた。
「錆兎はそれでいいのか」
「何がだ」
を巻き込んでいいのか」
「手放す気がないなら、早いか遅いかの話だ」
 もちろん仕事に関わらせる気はないが、と錆兎はきっぱりと口にする。いつも錆兎のそういうところが羨ましかったのだと、義勇は内心で呟いた。
「……俺は、には幸せでいてほしい」
「ああ」
が俺たちといて幸せそうにするから、甘えそうになる」
 単純な善悪や正誤の話で言うなら、手放してしまうべきだ。それができないと自覚しているから、許される方法を探してしまう。から向けられている好意は、免罪符になるのだろうか。そうしてしまうのが怖い自分は、きっと臆病者なのだろう。
「お前が逃げても、俺がを幸せにするから安心しろ」
「……逃げない」
「なんだ、逃げないのか」
 肩を竦めた錆兎に、義勇はじとりとした視線を向ける。どうせ錆兎は義勇に発破をかけているのだろう。義勇の抱える後ろめたさを、錆兎はよく知っていた。同じ葛藤を抱いていてなお、錆兎はとっくに腹を決めている。羨ましくないと言えば嘘になるが、義勇は錆兎のようには腹を括れない。あの日何もかもに怯えていた子どもは、本当にこの「今」を望んだのだろうか。それでもが望んでくれるのならと、義勇はおっかなびっくりその手を握るのだろう。自分の答えに怯えながらも、の手を引いて生きていく。結局義勇には、それしかできないような気がした。
「…………」
 のところに戻ろうと、義勇は踵を返す。おはぎでも食べに連れ出して、ついでに何かしら街を散策するのもいいかもしれない。普通の生活を諦めさせるのならば、普通の幸せの真似事をしてやるくらいは良いだろう。そうやって未練たらしく「普通」の真似事をしたがるのが義勇なのだ。背中の刺青を、初めて重く感じた気がした。
 
190731
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