「義勇さん……?」
おそるおそるといった様子で見上げてくるに、何と話を切り出したものか悩んでいた。今日のは真菰の見繕った服を着ている。こういう姿を見ていると、やはりは普通の子どもだと思い知らされるのだ。思い立ったままにを連れ出して街に来たはいいものの、自分は何をしたかったのだろうか。どうやって伝えるべきか、そもそも何を伝えたいのかも纏まりきらない。自分たちのために普通の人生を捨ててくれと、義勇の望むことは結局はそういうことだ。それをどう言い繕ったところで変わらないのに、言葉を探してしまうのは義勇自身が心苦しさから逃げようとしているからなのだろう。
「……何か食べたいものはあるか、」
「え、えっと……ドーナツ、買って帰りたいです……鱗滝さんが、この間テレビで見ていて」
「鱗滝さんが、ドーナツを……?」
思わずオウム返しに呟いてしまったが、はこくこくと頷いた。鱗滝もあまり何が欲しいと口に出す性分ではないが、は慕う人間のことにはよく気がつく。が言うなら間違いないだろうと、その店へ足を向けることにした。
「わっ……」
方向を変えた拍子に、手を繋いでいたがすれ違う誰かにぶつかりそうになる。義勇が反射的に手を引いたために衝突はしなかったが、相手は義勇の半袖から覗く入れ墨を視界に入れた途端そそくさと去っていく。むしろ非があるとしたらこちらなのにと、義勇は慣れてしまった苦い気持ちを飲み下した。
「……、お前は」
「?」
「俺たちと家族でいるということは、こういうことだとわかっているのか」
自身が何をしていなくても、恐れや侮蔑を含んだ目を向けられる。本当にそれでいいのかと尋ねれば、はきょとんと首を傾げた。義勇の問うたことの意味を、本気で理解していないという顔だ。回りくどい言い方をせずに「普通の人間に煙たがられてもいいのか」と重ねて問えば、はようやく義勇の言いたいことを理解して俯いた。
「わたし、義勇さんを煙たがったことなんて、」
「お前じゃなく……」
「義勇さんをそういうふうに思わないなら、私もきっと、普通じゃない、です……」
あの家で幸せに暮らしてきた自分はとっくに普通ではないのだと、は言う。それは義勇と錆兎の願いを真っ向から否定するような言葉だったのに、不思議と怒りは湧かなかった。
「『普通』みたいに暮らしていられることを、本当に感謝しているんです……私がどれだけ、恵まれているのかも」
「それなら……」
「でも、普通じゃないんです……本当に普通ならきっと、私は義勇さんたちを怖がるって……」
あの夜は、おそらく人だったものを見た。手を下したのは、義勇と錆兎だ。それなのには、二人を恐れることも、厭うこともなかった。ただそれを理由に二人がに距離を置こうとするのが嫌だと、消えた命を前に思ったことはどこまでも自分勝手な願望だった。普通の境界など、きっととっくの昔に超えている。ただ、の大切な人たちが望んでくれたから普通「みたいに」いられただけだ。
「誰に、どんな目で見られても……義勇さんたちと一緒にいられなくなることの方が、ずっとずっとこわいです……」
「…………」
幼いと、その無謀は幼さだと、義勇は思う。期待している答えが変わらないことを、何度も何度も確かめてしまう。の答えは変わるまい、義勇も本心では変わらないことに安堵している。やはり義勇は、錆兎のようにはいられない。幸せになってほしいのではなく幸せにしたいのだと、わかっているのにの気持ちを試すようなことをしてしまう。こんなに自分は女々しかっただろうかと思いつつも、に「ああいう目で」見られることだけは怖かった。いっそ怖がってくれれば手放してやれるのに、臆病なはずのは義勇のしていることを知っていながら義勇に怯えないのだ。
「……私のせいにしてください」
「……?」
「私が、義勇さんの言うことを聞かないで、勝手にここにいるんだって……義勇さんたちが普通でいさせてくれようとしてるのに、私がわがままなんだって……それなら義勇さんは、つらくない、ですか……?」
繋いでいるの手は、じんわりと汗ばんでいるのに冷たい。緊張で冷えた手は、義勇の拒絶を恐れているのだろう。あまりにも自分が情けないと、恐れを見抜かれてしまっていることに頭を抱えたくなる。は賢くはないが、聡いのだ。こんなことまでに言わせたと知れれば錆兎に「男らしくない」と叱責されるのだろうなと思いつつ、義勇はの手をぎゅっと握り返した。
「……俺が、」
が、義勇や錆兎の背中にある入れ墨を見たことはない。たまに一部が見えてしまうことはあっただろうが、極力見せないようにしていた。それはひとつのケジメだった。
「俺がこの道を選んだのは、鱗滝さんに恩を返したかったからだ」
「……はい、」
「鱗滝さんは、俺のことも錆兎のことも叱った。軽い気持ちでこちら側に来るなと、家を叩き出された」
「…………」
「それでも、ここに俺の全てを懸けたかった。社会的に間違ったことをしてでも、家族の力になりたいと」
の存在は、ある種の救いだった。が幸せそうに笑ってくれるだけで、まるで許されたような気持ちにさえなった。ほんの一片でも、自分の人生に正当性があるかのような。入れ墨を背負うことで、救えたものも確かにあるのだと。だからこそ、を普通でいさせることに固執してしまっていた。
「あの家から、せっかく得た家族から、離れがたかっただけかもしれない。だから俺は、お前の気持ちもわかる」
同時に、自分たちを叱った鱗滝の気持ちも今になれば理解できる。けれど、鱗滝がそうしたように結局義勇もの無謀な幼さを許容してしまうのだろう。
「、俺たちは……」
足を止めて、と向き合う。俯くの頬に触れようとして、躊躇う。けれど、その手を再び伸ばした。あの夜のように、から手を引いてもらうのではあまりに情けない。欲しいのなら覚悟を決めるべきだと、この綺麗な生き物を汚してしまうことを受け入れろと、ようやく義勇は腹を括った。
「俺たちは、家族だな」
「はい、」
「俺たちにとっての家族という言葉の意味と重さを、わかっているな」
「はい」
義勇の問いかけに、はしっかりと頷く。例えがその意味を理解していなかったとしても、もう二度と手放してはやれない。後悔するとしたら、きっとではなく義勇だ。それでも、義勇はの手を取った。
「お前の人生を、俺たちに所有させてくれ」
「はい、義勇さん」
どうしてそんなに、嬉しそうに笑うのか。まるで自分が、正しいことをしているような錯覚を抱いてしまう。偽悪的な偽善者だ、考えれば考えるほど泥濘に嵌っていくとわかっていても、思考は同じところをぐるぐるとさ迷ってしまう。それでも、きゅっと義勇の手を握り返してくれるの笑顔を見ていると、葛藤や苦悩が溶けるように胸の奥底に沈んでいくのを感じた。
「義勇さん、私を『もらって』くれました」
「……ああ」
「……捨てないで、ください」
普段聞き分けのいい子でいようとするの、珍しい自己主張。思えばは、生まれた家も覚えていない孤児だ。商品として施設の隅に蹲り、買われる前に勘違いで盗まれ、保身のために差し出され。たまたまそれを拾った義勇が良心的な部類の人間だったから、幸せな人生だとは自身の生を定義している。それなのに、「幸せになれ」と言われて放り出されるのはにとっては恐ろしいことだろう。繋いだ手が弱々しくも自分に縋っているように思えて、義勇はぐっと唇を噛み締める。黙々と店までの道を歩きながらも、人間ひとり拾うということの重さを改めて思い知る。それなのに、に縋られることに悪い気がしないのだ。この胸を満たす感情の中に、仄暗い独占欲や優越感も含まれている。それを認めずにいられるほど、義勇は鈍感ではいられなかった。
190910