その日実弥がを見かけたのは、ただの偶然だった。任務帰りか、廃寺で握り飯をもぐもぐと齧っていて。その足元に寄ってきてふんふんと匂いを嗅ぐ犬を、どことなく和んだような目で見下ろしていた。
(まともな顔もするんじゃねェか)
その時実弥が抱いた気持ちは、不快、なのだと思う。個人とはさしたる関わりもないが、あの水柱の継子というだけで実弥の顔を顰めさせるには充分だった。
少しだけ掘り下げた話をするのなら、それは失望に近い嫌悪だったのだろう。実弥は、義勇の継子になる前のを時折任務で見かけていた。悲鳴も上げず、泣きもせず、怒りの声を上げることもない、一見大人しく静かな子ども。そのくせなりふり構わぬ太刀筋で鬼に喰らいつく様は匡近に出会う前の自分自身を思い起こさせて、否が応にも目についた。小さくて、見るからに弱そうで、それなのに顔と名前を覚えるくらいには生き残っている。追い詰められて自分よりも大きな熊の首に喰らいつく仔狼のような、怯えと烈しさの入り交じる目が印象的だった。可憐にして苛烈。使う呼吸こそ異なっていたものの、惹かれるものを感じていたのは事実だった。
「……間抜け面」
「……? 風柱様……」
ぼそりと吐き捨てた言葉を、耳ざとく拾い上げては顔を上げる。困ったような眉はこの子どもの常の表情だとは知っていたが、それすら気に障った。ご丁寧にも頭を下げて挨拶してきたに、「ずいぶんと殊勝だなァ」と嫌味が口を突く。元々、実弥は女子供には親切にする性質だ。粗暴な振る舞いに反して礼儀は弁えているし、守られるべき弱者には手を貸す。それがどうしてこの女に対してはそうできないのか、自身にもはっきりとした答えが出せないことが余計に実弥を苛立たせていた。
「飼い犬同士、仲良しこよしで呑気なこったなァ」
「……?」
何を言われているのか、わからないのだろう。戸惑うような色が、ほんの僅か瞳に浮かんだ。の足元に擦り寄る、黒い仔犬。その首には、誰かに大事に飼われているであろう証があった。まるで同じだ。数ヶ月前なら戸惑うどころか、ぼうっと聞いているのかいないのかわからないような顔を見せたであろうと。そう、はずいぶんと飼い犬くさくなった。主に従順で、よく躾られて、愛くるしい仕草でその脚に擦り寄る。その羽織だの簪だのは、まるで首輪のようだ。この生き物は、どこに牙を忘れてきたのだろう。ただ鬼の頸に喰らいつくためだけに生きていたようなあの仔は、どこへ行ってしまったのか。命令を聞いているのかもわからない、ぼうっとした顔。何を見ているのかわからない、深い淵のような目。それがひとたび鬼を前にすれば、恐慌という激流になって頸を獲るまで奔り続ける。崩れゆく鬼の体を前にしたときだけ、ふ、と息を緩めるように小さく笑う。生きるためだけに鬼を殺しているのか、鬼を殺すためだけに生きているのか。いっそ狂いの形にも見えるその太刀筋を、確かに好ましく思っていたはずだった。
「……わたし、犬ですか……?」
自分に向けられた比喩を、ようやく理解したらしい。大人しそうな外見のわりに、この女は案外頭が悪い。不思議そうに――どこか不安そうに首を傾げたに、実弥は舌打ちをした。
「蛇柱様もおっしゃいます……駄犬、って」
すっとろい、普段の実弥ならそう罵っているであろう鈍い響きの会話。は嫌味を向けられる理由がわからないから戸惑っているのではなく、嫌味を嫌味と理解していないから戸惑っているのだ。人間くさい皮肉や当てこすりを、この子どもは理解しない。自分に向けられる害意や悪意というものに、めっぽう鈍いのだ。そのくせ義勇に矛先が向けば真っ先に噛みつくのだから、本当に気に食わない。苛立ち混じりに実弥は、刀の柄に手をかけた。抜く気はさらさら無かったが、一瞬だけ殺気を飛ばす。その瞬間に目の前の子どもの目が据わって、びくりと手が動いて。今にも地面を蹴り出しそうに踏み込んで――ただ、それだけだった。
「……チッ」
ああ、すっかりつまらない犬になった。以前までのなら、既に実弥の首元に噛み付いていただろうに。自らを脅かす恐怖にすぐさま斬りかかり、斬れるまで斬るのがだった。実弥との殺気に怯えた黒い仔犬が、くぅんと鳴いて逃げ出していく。どこか寂しそうにそれを見送ったを、失望を込めて見下ろした。義勇にお行儀良く躾られて、反射的に恐怖の根源に飛びかかるのを抑えて。自ら
なまくらになることを選んだこの犬に、失望と怒りを抱いていた。水など。そんな重いものを後生大事に抱えるから、錆び付くのだ。研がれた刃の美しさを、失った。剣技も呼吸も、昔よりまともになっている。それでもあの烈しさを失ったは、ずいぶん弱々しい生き物に見えた。
「……冨岡の犬」
吐き捨てるように言うと、幼い瞳が戸惑いに揺らいだ。この女がそんな目をするところなど、見たくなかったというのに。全ての鬼を、殺すためだけに生きていたはずの女。たとえそれが使命感や誰かを守りたいという気持ちから来たものではなくとも、どこまでも純粋な殺意を美しいと思っていた。死にたくない、その一心で振るわれる刃は本当に美しかった。危ういまでに、目を惹かれた。それが今は、まるで真っ当な人間のツラをしている。義勇が、そうした。荒れ狂う波濤を、凪いだ水面にしてしまったのだ。それは望ましい変化なのかもしれなかったが、凪いだ海に実弥の惹かれた苛烈さはもはやなかった。もう、その呑気な顔を見ているだけで苛々する。胸が騒ぐ。その凪いだ水面に腕を突っ込んでかき回してやりたい気持ちをなんと呼ぶのかわからないまま、実弥はに背を向けたのだった。
「それ、嫉妬って言うんじゃないですか」
跳ね飛ばした鬼の首が崩れていくのを眺めながら、無一郎は淡々と言った。同じ任務にあたった実弥が苛立っているのを、「任務に支障が出る」と理由を聞くでもなく無一郎は指摘して。どうせ何事にも興味のない無一郎相手なら、少しばかり苛立ちの原因を吐露したとて構わないだろう。そう思ってへの苛立ちをこぼした実弥に返ってきたのは思いもかけなかった言葉で、「はァ?」とざらついた声が漏れた。
「なんで嫉妬なんざ、」
「さぁ。僕にはそう聞こえました」
なぜそんなふうに思ったのか、そんなことを無一郎に問うのは無意味だ。だから、さっさと踵を返した無一郎を追いかけて問い詰めるような真似はしなかったけれど。何事にも無関心で無感動な無一郎が、客観的に物事を見ることに長けているのは知っている。その無一郎が言うからには、ほんの一片でも嫉妬という感情は確かに実弥の中にあるのだろう。
(なんで、嫉妬なんざ)
無一郎からは答えを得られなかった問いを、自身に問い直す。それを深く考えようとすればするほど、胸の奥が引っかかれるような不快なざわめきが湧いてくる。喉の奥が焼け付くような不快感に、唸るような声が思わず漏れた。脳裏にちらつく、澄んだ青。あの青色を見ていると、苛々する。思考から追いやりたいのに、こびりついたように頭の中から離れない。きっと鬱陶しいのだ。瞼を閉じればちらつくあの天色が、鬱陶しい。嫉妬などするものか、これは苛立ちに決まっている。ああ、自分は苛立っているのだ。なぜならのことが、
(嫌いだ)
不死川実弥は、のことが嫌いだ。ただそれだけだ。そう結論づけて、脳裏に浮かぶ綺麗な天色を追い払う。嫌いだと、自分に言い聞かせるように呟いたのだった。
200216