またか、と実弥は舌打ちをする。このところ、やたらとの姿が目につく。どうにもあの過保護な男は、最近ようやくを一人で任務に出すようになったらしい。水柱の継子であるをどうしてこうも風柱の担当地区で見かけるのかと苛ついたが、実弥と義勇の不仲を気遣って担当地区の境界付近にはできるだけを向かわせるよう指示が出ていることなど実弥は知る由もない。水柱とやたら鉢合わせるよりはマシであるが、と自分の思考の意味するところも知らず実弥は舌打ちをした。はといえば実弥がよく休憩地点にしている廃寺の境内にしゃがみこんで、白い犬などに構っている。この間見たときは黒犬だったが、今度はまた別の犬であった。犬女とよく揶揄するものの、実のところ本当に犬にでも育てられたのではなかろうか。そう思ってしまうほど、は犬に縁が深い。何やら犬に話しかけているらしいから「風柱様」とかいう単語が聞こえて、反射的に耳がぴくりと動く。自分の陰口や愚痴でも言っているのかと思ったが、の犬を見つめる目は穏やかで。
「……お前は風柱様に似てるから、風さまだね」
「わふ」
「えっ、それは名前じゃないからいや……? で、でも、風柱様、私がお名前呼んだら怒ると思うんだ……」
「……ンでだよォ」
「風柱様は私のことがお嫌い、だから……!?」
白い犬に勝手に人の名前をつけて話しかけているに、思わず口を挟む。深く考えずに返事をしただったが、自分が誰に返事をしたのか気付いてバッと振り向いた。
「あ……」
「…………」
どうやらにも、気まずさを覚える程度の感情は備わっていたらしい。とはいえ実弥も本当は声をかける気などなく、口を挟んでしまったもののそれ以上言うべきことも見当たらず腕を組んで目を逸らした。
「……なんで、嫌われてると思った」
そんな問いが、口をついて。のことが嫌いだと結論づけたのは自分自身のはずなのに、どうしてかがそれを事実のように口にするのが面白くない。実弥の問いにはおろおろと視線をさ迷わせて、ばつが悪そうに口を開いた。
「な、なんとなく……です」
「…………」
あれだけ嫌な態度をとったのだから、嫌われていると思われて当然のはずなのに。それなのにどうしてか、釈然としない思いでいる自分がいる。関係ない、はずだ。のことをどう思っていようが。にどう思われていようが。関係ない、はずなのだ。
「……てねェよ」
「え……?」
「……嫌ってねェよ」
それだけ言い捨てて、その場を去る。逃げるようで気に食わなかったが、残されたがどんな顔をしているのか見たくなかった。の顔は表情に乏しい、けれど、確かにその瞳に映る感情の色があることを知っている。
――ぎゆうさま、おかえりなさい。
あの日、実弥はまるで頭を殴られたような衝撃を受けたのだ。とある藤の家紋の家で、満面の笑みを浮かべて義勇を出迎えていた包帯だらけの子ども。一瞬、誰なのかわからなかった。実弥の知っているとは、まるで別人のようだった。
『あまり動き回るな、』
『でも、お戻りがうれしくて』
言葉を知らないのかと思うほどものを言わないはずの子どもが、ぺらぺらと口を動かしていた。時透と並んでも遜色ないほど常にぼうっとしていた顔は、喜びの笑顔に綻んでいた。いつも何を見ているのかわからない瞳には、ただ義勇だけが映っていて。
『……不死川? こんなところで、どうした』
実弥の存在に気付いた義勇が、無意識なのだろうがを背中に庇った。意識もせずにそんなことをするほど、義勇にとっては大切なものであるらしかった。何故か無性に腹が立って、舌打ちをする。実弥は、義勇に文句を言うために追いかけたはずだったのだ。いくら日頃から協調性のない男だといっても、その日の義勇の動きは目に余った。実弥を含む他の隊員と一切の連携を放棄し、単身鬼の棲家に突撃して。挙句追いついた実弥たちを前に、「この方が早かった」と首を刎ねた鬼の体を指差した。確かに義勇は速やかに鬼を倒したが、何のために合同討伐の指令が出ていたと思っているのか。柱に置いていかれた隊員たちの狼狽を、誰が鎮めることになったと思っている。事後処理もそこそこにさっさと帰り出した義勇に、堪忍袋の緒も切れるというものだ。同じ柱として、一言言ってやらねば気が済まないと。可能ならその澄ました顔に、一発拳でも入れてやりたいと。
『風柱、様、こんにちは』
義勇の陰からおずおずと顔を出して、は口を開いた。(誰だ、)と実弥は思ったのだ。(この子どもは、誰だ)と。実弥の知るは、こんなふうにまともに喋れる人間ではなかった。言葉の通じない獣のように、生きていたしか知らなかった。これではまるで、人間だ。挨拶ができたことを褒めるように、義勇が目元を和らげる。「俺の継子の、だ」と言う義勇の言葉が、耳をすり抜けていった。
義勇が自分勝手に、それでも迅速に鬼を討伐したのは、一刻も早くの元へ帰りたかったから。起きていることを窘めるほどの怪我を包帯でぐるぐるに覆った継子の容態が、心配だったから。
(いつからだ)
一体いつ、は義勇の継子になったのか。いつから、あんなふうに笑うようになったのか。どうして、庇護と愛玩に安らいでいるのか。同じ生き物では、なかったのか。鬼を殺すことしかできない、鬼の死にしか安堵を得られない生き物では、なかったのか。どうして、そんなふうに笑っていられるのか。その手には、鬼を殺す刀すら持っていないのに。
義勇は、実弥がのことを知らないと思っているらしい。先に中に入っていろと、比較的傷の少ない背中を押す。そうやって誰かを気遣えるくせに、どうして周りを顧みない。それとも、が特別だというのか。今まで実弥がを見てきた中に、義勇の影などなかった。あの子どもが命を削りながら必死に生きてきた日々も目にしていないくせに、同じ呼吸の使い手というだけで保護者面をして攫っていくのか。鬼を殺す瞬間だけに安堵を覚えていた子どもが、そんな男に安息を得たというのか。
『それで、不死川は何の用なんだ』
『……あの、ガキ』
『……のことか?』
ガキ呼ばわりが気に障ったのか、それとも実弥がに興味を示したことが不可解だったのか。眉を顰めた義勇に、実弥は問うた。
『なんで、テメェの継子になってやがる』
『……不死川に、関係があるのか』
『あるから訊いてんだろうがァ』
問いを問いで返す義勇に苛立ちを感じて舌打ちをすると、義勇は目を伏せて黙り込む。ややあって、実弥を見据えた義勇は『必要なことだからだ』と答えた。
『俺にとってもにとっても、必要なことだ』
『……そうかよォ』
もう、どうでもよくなった。義勇に言いたかったはずの文句も、殴りたいと思っていたことも。結局答えを誤魔化されたことに、怒りも呆れもなくただ虚しさだけが募った。元より器用に誤魔化しを言える義勇ではない、今言える範囲での誠実を示されたのだと、わかっている。それでも、実弥の求めた答えは拒まれた。一度人に懐いた生き物は、野生には戻れない。はもう、あの美しい生き物には戻れないのだ。今のの姿こそが正しいというのなら、あのに惹かれた自分は間違いだというのか。なぜ、が人間などにならなければならなかったのか。あの美しい生き物を殺した理由が得られれば、理解はできずとも納得できたかもしれない。それでも、義勇はその答えを拒んだ。それだけが、事実だった。だから、実弥は踵を返した。もう、実弥の惹かれたあの生き物と見えることはない。まだ名前もつけていなかった感情に、別れを告げた、はずだった。
(嫌いだ)
嫌いじゃない。嫌いなんかじゃ、ない。それでも、嫌いだ。実弥はあの日まで、の名前も知らなかった。それでよかった。唯一の生き物に、個体を見分けるための名前など必要ない。けれどあの日、あの生き物は死んでという人間になった。だから「」という人間に抱いた苛立ちは失望と嫌悪なのだと、そう思っていた。
(嫌いじゃねェ)
腹が立つ。腹が立つけれど、嫌いだと言ったら「」は、あの天色を曇らせるのだろう。鈍い、それでも傷付くことは知っている。負の感情を向けられて傷付くくらいには、の心の中に実弥の存在があるということを知ってしまった。の目には、実弥はどう映っていたのだろう。実弥がを犬と揶揄するように、が白い犬に実弥を重ねるのなら。もしかしたら、も実弥に近しいものを感じているのかもしれないと。その感情が、願望が、期待だと気付いてしまえば胸をかきむしりたくなる。醜い、浅ましい、恥ずかしい。自分はあの天色の目に映りたいと、未だに思っているのか。あの生き物は死んだのに。「」はあの美しい生き物ではないのに。それでも映りたいと願うなら、自分が見ていたものは何だったのか。あの生き物ではなくともよかったということに、なってしまうのではないか。だから、認めたくなかった。が嫌いだと、言い聞かせていた。結局自分も、人間だ。あの生き物には、なれない。
「…………」
振り向いて、木立の向こうに目を凝らす。翻る藤色は、遠くからでもよく目立った。近頃あの子どもは、藤の君とあだ名されているらしい。それほどまでに、の周りには藤色が溢れている。けれど今でも実弥にとっては、あの子どもの色は天色だ。晴れ渡る空の青だ。義勇に与えられた色ではない、あの生き物の色を、憶えていた。白と戯れる、藤色。義勇が殺して命を与えた、生き物の色だった。
200301