「返してよ!」
実弥がその痛々しい叫び声を聞いたのは、応援に呼ばれた任務がちょうど到着と同時に終わったことを隠から報告されていたときのことだった。ぱしんと乾いた破裂音がして、隠が慌てて宥める声がする。剣呑な雰囲気にそちらを見遣ると、怪我をした少女が隊士に掴みかかっていて。隊士の羽織っている見慣れた藤色に、実弥はぴくりと片眉を上げた。実弥と話していた隠が「し、不死川様」と止めようとするが、顔を顰めたまま実弥は喧騒の中心へ近付いていく。隠が少女との間に割って入ろうとするものの、少女の剣幕は凄まじく。頬を叩かれたはどうせ、師範譲りの読めない表情で黙って見つめ返しているのだろう。そんな態度では相手を逆上させるだけだ、義勇のそれに一番と言っていいほど苛立っている実弥が思うのだから間違いない。案の定、赤くなった頬を押さえることもせずじっと黙っているの胸ぐらを少女は掴む。
「返してよ、父さんを返してよ……!! 鬼殺隊だの鬼だの、わけわかんないこと言って……なんで父さんを殺すのよ!?」
「……っ、」
息を呑んだのは、ではなく実弥だった。その言葉は、痛いほど覚えがある。のためなどではなく、実弥自身のためにその言葉を聞きたくなかった。けれど、割って入ろうとした実弥の手は、すんでのところで届かなくて。
「この……人殺し!!」
あの日の弟の叫びが、少女のそれと重なって響いた。
「……テメェの気にすることじゃねェ」
泣き崩れた少女から、を引き離して。少女の世話は隠に任せ、実弥は水で濡らした布をの頬にべちりと押し付ける。慰めるなどという柄ではないが、あれを見て放っておくほど無情ではなかった。例え相手が実弥の心を苛立ちに波立たせるでも、それは変わらない。あの少女の怪我は、鬼の爪による裂傷だった。が斬っていなければ、「父さん」は娘を手にかけていただろう。残念ながら、鬼殺隊ではありふれた話でもあった。「ありがとうございます」と俯いて布越しに頬を抑えたは、ぽつりと呟く。
「……鬼も、誰かの家族なんですよね」
「鬼を連れた隊士は、テメェの同門だろうがよォ」
今更思い出したようなの言葉が、ちくりと心の柔らかい部分に刺さる。鬼になった妹を連れて歩いている炭治郎のことを指摘すると、は目を伏せた。相変わらず何を考えているのかわからない表情に、実弥は舌打ちをする。
「テメェは、あいつらのことどう思ってんだ」
「……炭治郎さんたち、のことですか?」
実弥が鼻を鳴らすと、はしばし俯いて黙り込む。の会話の遅さはわかっていたから、実弥はその小さな唇が開くのを黙って待った。何せ義勇が腹を切るとまで言ったのだ、継子としては思うところもあるだろう。誰よりも鬼を恐れるこの子どもが、あの「善い鬼」とやらを許容できるのか。ほんの少しだけ、興味を抱いた。
「……最初は、」
頭がおかしいんだと思いました。ぽつりと呟かれた言葉は、実弥が思っていたより辛辣で。言葉を飾らない分鋭利なそれがそのまま飛び出してくるのは、義勇と同じだった。
「どうしてあんなに恐ろしい生き物を、連れて歩けるんだろうって……けど、義勇さまが生かして、鱗滝さんが育てて……それならきっと、おかしいのは私だと、思って……」
「…………」
「義勇さま、私なんかに土下座、したんです……。『お前の知らないところで勝手に命を懸ける約束をした』って……」
義勇を絶対的な存在として慕っているには、天地がひっくり返るほどの衝撃だっただろう。義勇が土下座までしてに謝り、師範と育手の命が鬼に懸けられた。それを告げられたが、弟弟子とはいえ炭治郎たちを恨んでも不思議はない。けれど、の天色にはただ、困惑と寂しさだけが映っていて。なりに、噛み砕いて飲み込もうとしたのだろう。義勇と鱗滝がそこまでするのなら、きっと意味のあることだろうと。それを理解できない自分の方が、きっとおかしいのだと。土下座程度で継子に対する責任を果たした気になっていると、実弥は眉を顰めた。それではは、何も問えない。許すしかない。どうして、なぜ、という言葉を呑み込んで、納得するべきだと自信に言い聞かせることしか。義勇には明かせない戸惑いを吐き出すように、は宙を見つめてぽつぽつと言葉を零した。
「禰豆子さんと初めて会ったとき、怖いの、なかったんです」
「……あ?」
「いつも、鬼を見ると、すごく怖くなって……でも、禰豆子さんにはそれがなくて……」
鬼という生き物に例外なく恐怖を覚えて斬り続けてきたの、戸惑い。あの特異な鬼の存在が、怯えだけで走り続けてきたの心を揺らがせた。
「こわいもの、なくさなきゃって……こわくない鬼がいるなんて、思ったことも、なくて」
善い鬼と悪い鬼の区別がつかないなら、柱など辞めてしまえ。あの子どもに叩き付けられた言葉が、実弥の脳裏に響く。そんなことを一々考えている間に、鬼は人を殺す。だから実弥はあの日母親を手にかけた。だって、躊躇すれば誰かの命が消えることはわかっている。だから、鬼を殺した。今日も、誰かの父親を。その娘を手にかける前に、斬り殺した。
「わたし、あの人のお父さん、殺して……、」
どこか呆然とした顔でが言いかけた言葉を、実弥は片手での口を塞いで遮った。そんなふうに考えると、疵になる。全ての鬼に対してそう考えていては、刃が鈍る。本当に守りたいたったひとつのものがある人間にとって、その迷いは致命傷になってしまう。
「テメェが斬ったのは、『鬼』だァ」
「……、」
「鬼を斬って、人間がひとり助かった」
肩だの脚だのに、残る裂傷。柱である実弥が応援に呼ばれるほどの鬼と、戦っていた。父親が鬼になったことを知らず行方を追っていた娘を、守りながら。深くはないとはいえ、決して浅くもない傷を負っている。鬼殺隊の戦いは、誰に称賛されるものでもない。それでも、この小さな体で誰かを守り抜いたことに対する報いが、平手打ちと罵倒だけではいけないと思った。
「……よくやった」
ぽすん、とその小さな頭を叩いてやる。どうせこの馬鹿は、義勇には今日のことを話さずに抱え込んでしまうだろうから。心に刺さった棘を自分で抜けもしないのに傷を隠そうとする馬鹿な子どもを知っているのは、実弥だけだ。慰めるだとか励ますだとかいう柄でもないが、自分にしかできないことがあるならしてやるべきだと思った。さらりと髪が揺れて、が驚いたように実弥を見上げる。おずおずと口を開いては閉じて実弥を見るの、天色がゆらゆらと揺れていた。
「あ……ありがとう、ございます、風柱様」
澄んで冷たい水面は、凍り付いてなどいない。あらゆるものを映して、揺れて、さざ波を立てて、周りが思うよりずっと表情豊かだ。暫しその天色に目を奪われていたことに気付いて、実弥はバッと顔を背けた。たかが少し声をかけてやったくらいで、そんなに意外そうにされると居心地が悪い。立ち上がってその場を去ろうとした実弥は、ふと引っかかりを覚えて足を止めた。
「……名前で呼んでもいい」
「えっ……?」
「嫌いじゃねェから、好きに呼べばいい」
実弥に嫌われていると思っていたは、名前で呼ばれたくないだろうと言っていたけれど。別に、呼ばれても構わない。嫌いだなどとは、思っていないのだから。義勇と同じようになどとは思わないが、しのぶや煉獄たちより距離を置かれるのはどうにも気に食わなかった。手当の道具を持った隠が、の治療をすべく駆けてくる。気まずそうにしながらも泣き腫らした顔を上げた少女がその後に続いてやって来るのを見て、実弥はもうここですべきことはないと場を後にしたのだった。
「……いい子だね、さねみ」
「そっちの話じゃねェんだよォ」
廃寺で犬に話しかけていたに、またもや勢いのままに言葉が口を突く。吃驚した顔で振り向いたの額を、びしっと指で弾いた。風柱渾身のデコピンはかなりの痛みだったようで、は蹲って額を押さえ声にならない悲鳴を上げている。白い犬がフンフンと心配そうに鼻を鳴らして、の周りをちょろちょろしていた。
「し、なずがわさま……」
「なンで犬は下の名前で呼んどいて人間の方はそう呼ばねェんだよォ」
蹲るの前にガラ悪くしゃがみ込み、赤くなっている額をぐりぐりと指先で押す。容赦のない追撃に呻き声を上げたは、泣きそうな顔で実弥を見上げて。
「さ、実弥さま……!」
自分が呼ばれたと思ったのか、白い犬がワンッと元気に吠える。「テメェじゃねェ、俺だァ」と訂正してやってから、実弥はの額から手を離した。しばらく痛みを堪えてじっとしていたがようやく顔を上げたかと思えば、深々と頭を下げて。
「先日は……ありがとうございました」
「……礼を言われることでもねェ」
「でも、その……嬉しかった、ので」
「そうかよォ」
ぷいっとそっぽを向くものの、満更でもない。のたどたどしい話によると、あの後少女はを叩いたことを謝ってくれたらしい。父親を斬られたことは許せないし受け入れるには時間がかかるが、にはそうしなければならなかった理由があるということは理解したと、そう告げて。あの少女は、親戚の家に引き取られるらしい。もう少女の人生に鬼が関わることがなければいいと、は思った。
「実弥さま、犬はお好きです、か?」
「……嫌いじゃあねェな」
唐突な問いに、律儀に答える実弥。嫌いじゃないという答えに顔を綻ばせたは、足元にじゃれつく白い犬を抱き上げ実弥に向かって腕を伸ばす。
「この子、実弥さまからお名前をいただきました」
「そうかよォ」
「ありがとうございます、実弥さま」
「……別に、そんなことで礼はいらねェ」
はふはふとに抱えられながら実弥を見上げる犬を、じっと見下ろす。「強く育てよォ」と言うと、白犬は元気に吠えて答えたのだった。
200401