恋人にどうだい、と声をかけられて実弥は眉を顰める。つい、目を留めてしまったのが間違いだった。険しい顔の実弥に物怖じもせず、露店の店主はあれやこれやと聞きもしない説明を繰り広げる。今流行りの紅だの、新しい色だの、評判の良い白粉だの。ただ、鮮やかな赤に目を惹かれただけだったのだ。あれの涼やかな目元や薄い唇に、映えそうな色だと。そんなことを思い浮かべてしまったことすら苛立ちの原因なのに、好い仲に贈ると勝手に勘違いした店主があれやこれやと「恋人さんの好みはどんな色だい」と聞いてくるのが鬱陶しい。恋人などではない。そんな仲では、到底。それでも立ち去る気にならないのは、何の色も塗られていない小さな唇を思い浮かべてしまったからだった。
(……あいつ、紅持ってんのかァ)
思い出せる限り、が紅をつけているところを見たことがない。記憶の中のの頬を彩るのは白粉ではなく泥で、唇を彩るのは紅ではなく返り血だ。義勇も羽織だの簪だのは与えるくせに、化粧にまで気が回らないのはやはり根本的に朴念仁なのだろう。けれど、と実弥はふと気付く。最近のからは、血錆の臭いはしない。実弥にも覚えのある、藤の匂いが時折する。義勇の元に保護されるようになって、泥と血に塗れた生活は水に洗い流されて。藤の君とあだ名されるほど与えられた藤色のひとつが、その香り袋なのだろう。の周りは、藤色に溢れている。けれどその色はどうにも、実弥にとってはしっくりこないものだった。
「…………」
店主の言葉は半ば聞き流しながら、ざっと品揃えに目を通す。やはり、はっきりとした紅色の方がには似合う。義勇ならばきっと、桜色だとか薄い桃色だとか可愛らしい色を選ぶのだろうが。淡い、曖昧な色はに似合わない。澄んだ色か、はっきりとした色調。そういう色の方があの女にはよく似合うと、実弥には思えた。浮かべる表情こそ幼いから可愛らしく見えるが、無表情のあの女はぞっとするほど綺麗だった。
「……これ、包んでくれ」
目の覚めるような、血のような、赤色。その紅を手に取って金を渡すと、「お兄さんの好い人はずいぶんなべっぴんさんなんだろうねえ」と紅の色から受け取る相手を勝手に想像したらしい店主が言う。色々と思い違いはあるものの、それを指摘するのも面倒なので実弥は曖昧に唸ったのだった。
(別嬪、か)
綺麗だと、思ってはいた。美しい、とも。けれど、それは野生の獣や荒ぶる自然に対する畏怖の混ざった感情だ。人間の基準に照らして美人だとか、別嬪だとか、そういうことは意識したことがなかった。だが、やはりあれは「綺麗」なのだろう。涼やかな目元に、すっとした鼻梁。小さな手のひらや体躯だから幼い子どものように思えるが、大人になればきっと美人だと言われるだろう。大人に、なれれば。
「…………」
は、生きたいのだろうか。否、はずっとそうだった。ずっと、死を厭うていた。死なないためだけに、他の何もかもを差し出していた。必死に、必死に、必死に、必死に、駆けて。星よりも速く、燃え尽きるように生きている。その速さで、死んでしまいそうなほどに。燃える星は、駆ける獣は、死など望んでいないのに。生きようと駆ければ駆けるほど、命を燃やして。だから義勇は、の足を止めさせた。燃え尽きないように、自らの走る速さで崩れてしまわないように。が大人に、なれるように。は星や獣であることを辞めて、人にならなければならなかった。人間、などに。
――必要なことだからだ。
義勇は、そう言った。ただ、それだけ。義勇はただ、を生かしたかったのか。あの美しい生き物を損なってでも。それに苛立ちを覚えていることに変わりはないが、今は比較的冷静に義勇の言葉を思い返すことができた。
――俺にとってもにとっても、必要なことだ。
「俺にとっても」、そう義勇は言った。あの男がをどうして生かしてやりたいと思ったのか、理由はわからない。同門だからなのか、それだけにしては義勇はに随分と干渉する。はただ、呑気に恩義を感じているようだが。は、賢くはないが鈍くはない。少なくとも、義勇のことに関しては。義勇が何かを言わないでいることを、知っていて何も問わずにいる。例えそれが義勇自身のためでもあれ、のためであることを解っているからだ。義勇には、理由があったのだろう。決して少なくない時間や労力を割いてでも、を生かしたい理由が。だが、本当にのことを生かしたいのなら剣士を辞めさせればいいものを、わざわざ回りくどい方法を取っている。回りくどいというよりも、中途半端なのだ。だから、あんなどっちつかずの生き物になる。は結局、自分のことを人間だと思っている犬のままなのではないか。弟に対する自らの態度に、思いを巡らす。意志を折ってでも生き方を曲げさせてでも生かしたいのなら、刀を取り上げて追い出すしかない。守ってやればいい、自分とは違う世界に生きるべき者だと。義勇が何をしたいのか、実弥には到底理解できない。迷っているのか、葛藤しているのか。自分の目の届くところならば安心などと、そんなわけがないことは義勇だとて嫌というほど理解しているはずだ。つまるところ、義勇は臆病なのだろう。あれだけに影響しておいて、未だにたった一つのことが言えないのだ。「俺が守るから、生きていてくれ」と。
(目の前の継子のツラも、まともに見ちゃいねェ)
義勇は、に土下座をしたという。勝手に命を懸けることを許してくれと、懇願した。それは負い目だ。という継子への責任を感じるからこその、負い目。それと同じなのだろう。義勇はずっとに負い目を感じていて、ずっと俯いていて、がどんな顔をしているのかさえまともに見ていない。の答えに、怯えている。の信頼に、甘えている。実弥は義勇の、そういうところが嫌いだった。そんな半端な真似をして、に許されている義勇のことが。
(嫉妬、か)
無一郎の言ったことは、やはり間違っていなかったのだろう。あの綺麗な生き物をめちゃくちゃにしておいて、それでも許されている。そんな関係をと築けている、義勇が恨めしい。実弥の惹かれた生き物を殺しておいて、信頼されている。その距離の近さが、羨ましいのか。実弥が遠くに眺めていた生き物に近付いておいてうだうだと悩み続ける、そんな贅沢なことをしている義勇が。妬ましいと、苛立ちを交えながらも認めることができた。ずっとずっと、好きだった。が人間になっても、まだ。未練がましく、好きでいる。義勇よりもずっと前から、あの生き物を見ていた。変わったから目を逸らそうにも、逸らせないままでいる。
(……ビビり野郎)
それは、自分自身への罵倒でもあった。
「おい、……」
「……実弥さま?」
別にわざわざ、渡しに出向いたわけではない。そんな暇があるなら、一体でも多く鬼を狩っている。だが、いつ会っても渡しそびれることのないように持ち歩いていたのは事実だ。それは別に、どうしてもに渡したかったからではない。実弥が持っていても仕方のないものだからだ。気まぐれで買ってしまったものを、後生大事に持っていても仕方ない。ただそれだけだと、言い訳のように思いながらずいとに包みを突き出した。
「……?」
当然と言うべきか鈍いと言うべきか、は実弥の手と顔を見比べてきょとんとしている。元よりに察しの良さなど期待していないが、理不尽だとは思いつつも苛立ちが湧き上がる。ぽすりとの頭に包みを乗せると、は目を白黒とさせてそっと包みを押さえた。
「あ、あの……?」
「……やる」
「えっと……?」
「やるって言ってんだろォ」
おろおろと頭の上の包みが落ちないように両手で押さえながら実弥を見上げるは、乏しい表情ながらもだいぶ混乱しているようだった。さして親しくもない実弥の意図など、この鈍感に読めるはずもない。自分で持っていても仕方のないものを渡しただけだから、受け取ったのならそれでいい。そのまま去ろうとした実弥を、は珍しく声を張り上げて呼び止めた。
「あ、の、実弥さま!」
「……ンだよ」
「ありがとう、ございます……?」
何か実弥がに与えたということくらいは、さすがのにも理解できたらしい。なぜ与えるのかということについては、さっぱりわからないらしいが。疑問形ではあるが律儀に礼を言ってきたに、意地の悪い笑みを浮かべる。
「中身が毒かもしれねェのに、礼を言うのかよォ」
「毒なんですか……!?」
「……毒じゃねェよ」
意地悪をした方が居心地の悪くなる、はそういう厄介な人間らしい。顔色を青くしたに悪いことをした気になってしまって、あっさりと揶揄うのは止めた。曖昧なまま帰して、紅を見たがそれを毒だと思わない保証もなかった。このくらいならわかるだろうと思うようなことも油断ならないのが、このという女なのだ。
「要らなかったら捨ててもいい」
「……? 捨て、ないです」
「そうかよ」
だから、まだ中身も見ていないというのに。当然のように、は捨てないと首を振る。タチの悪いことに、この女は根が純粋だった。言葉数が少ないからわかりにくいが、本心を隠すということを知らない。驚くまでに、心が動くままに行動する。感情が読めないように見えて、その実ひどくわかりやすいのだ。あれだけ一時は気まずそうにしていたくせに、今は平然と会話をする。先日の一件で懐かれたのだと、嫌でもわかった。にとって義勇より大切なものはないとわかっているのに、そんな風に接せられたら期待などを抱いてしまいそうになる。勘違いするなと自らに言い聞かせて、実弥はに背を向けた。
200429