「あの、義勇さま」
任務の報告を済ませたは、いつもならそのまま下がって家事なり鍛錬なりを始めるのだが。その日は少し困ったような顔をして何事か訊きたそうな様子のに、義勇は首を傾げて用を問うた。
「その、これが何か、ご存知でしょうか」
「……紅だな」
「べに……?」
「
化粧の道具だ」
が自分で買ったわけではないのかと、可愛らしい意匠の紅入れを開けて義勇は再び首を傾げた。独特の玉虫色は、遠い日の姉との記憶を思い出させる。水に溶かすと紅色となって唇を彩ることができるのだと教えると、は「本当に毒なのかと思いました」とよくわからないことを言って安堵の表情を見せた。
「これはどうしたんだ」
「実弥さまが……くださったんです」
「不死川が?」
は実弥から紅をもらうような仲だったのだろうか。時折任務ですれ違うように会うことがあるとは、聞いていたが。しかし、の様子を見る限り色めいた話のようには思えない。もっとも、義勇とてそういった話が得意なわけではないのだが。
「不死川と仲が良いのか」
「仲……良いのでしょうか」
「親しくもない相手に、こういったものは渡さないだろう」
「……?」
どうにも本人も、ピンと来ていない様子で。手の中の紅入れを眺めて、ぼうっとした表情で思案する。まだ情緒の成長は見込めないかと思いかけたとき、の表情がふっと和らいで。
「……仲、良かったら……うれしいです」
固い蕾が綻ぶように、の乏しい表情筋が柔らかい笑みを描く。その表情に、義勇はぽかんと口を開ける。がこんなふうに笑うところは、初めて見たような気がした。
「……紅筆を買いに行くか」
「紅筆、ですか?」
「紅を水で溶いて、筆で唇に塗るんだ」
「……これ、塗るんですか……?」
「水に溶かすと赤くなる」
「不思議、ですね」
恐る恐る紅入れを見下ろしたが、義勇の言葉に驚いて改めて玉虫色を見下ろす。この色が、例えば蜜璃やしのぶの唇を彩るような赤に変わるのが不思議なのだろう。傍から見ているだけでは、わからないものもある。
(不死川は、のことが嫌いなのかと思っていた)
いつも噛み付くような視線を向けていた。激しい怒りの混ざった、失望の視線。けれど、義勇の前との前では、実弥の色はずいぶん違うらしい。の水に溶けた実弥の色を、義勇は知らなかった。
「……不死川、話がある」
「あ?」
任務帰りに実弥を引き留めたのは、義勇の静かな声だった。今にも人を殺しそうな顔で振り向いた実弥に、義勇は少し俯いて。「のことだ」と切り出した義勇に、実弥は苦虫を噛み潰したような顔をした。この男と仲良く会話をするような仲ではないが、の名が出た以上無視はできない。ダラダラと時間を浪費して、新しい任務やらで半端に話を途切れさせることになっても面倒だ。威圧するように目を吊り上げて、実弥は口を開いた。
「ンだよ」
「不死川は、を好いてくれているのか」
「…………は?」
一瞬、何を言われたのか頭が理解を拒んだ。実弥が、を好いているのかと。そう、義勇は言ったのか。その上、その言葉にはまるで実弥に縋るような――そうであってくれと、願っているような。そんな響きすら込められていて。あまりにも、予想だにしていない言葉だった。義勇は、を害しかねない者として実弥を警戒していたはずで。まるでに執着しているように思えた義勇が、を好いていてくれと願ってすらいるようなことを言う。意味が、わからなかった。
「不死川は、が好きか」
「…………」
「もし、不死川がを好きなら……」
「……許さねえってか?」
「逆だ。その気があるなら、を貰ってほしい」
は、と乾いた音が喉から漏れた。あまりにも突飛な発言に、頭が真っ白になる。ふざけているのかと思ったが、義勇の表情はいつもの虚無のように見えてどこまでも真剣だ。のために、ここまで感情を露わにしているらしかった。
「……テメェは何が言いてェんだ。何考えてやがる」
「を嫁にもらってくれと言っている。に幸せになってほしい」
「ふざけんなよォ、あいつが俺んとこ行けって言われて、納得するわけ……」
「が笑ったんだ」
「……あ?」
「が笑った。お前と、仲が良かったら嬉しいと。があんなふうに笑ったのは……初めてだ」
だからきっと。は実弥の元でなら幸せになると義勇は思ったのだ。まだ、恋ともつかぬ感情だろうが。それでも、いつかは花開く。の笑顔を咲かせた相手がいるなら、その人間と結ばれてほしいと思う。
「お前が迷惑なら……をそういう風に思っていないのなら、俺の勘違いを笑えばいい」
「……勘違いじゃねェよ」
「なら、」
「いきなり何なんだ、テメェは」
義勇はまるで、焦っているように思えた。けれど義勇の事情などどうでもよく、実弥には困惑と苛立ちが募るばかりで。勝手にを継子にして、玻璃の箱にでも収めたように大切に大切にして。そのくせ、突然手放そうとする。が実弥を好きになりそうだからと、実弥に頭を下げようとして。意味がわからない、何がしたいのだこの男は。に幸せになってほしいと言う、それが本心なのだろうから不可解だった。惚れた腫れたの話を気安くするような間柄ではない、そんな話をしたいわけではない。だが、そんな話をされるのならひとつ確かめておかなければならなかった。
「テメェは、が好きなんじゃねぇのかよ」
「……俺は、」
「兄妹でもねェ、ただの同門なんだろ。いくら育手の頼みだって言っても、あれだけ過保護にしてんのはテメェの感情だろ」
実弥の言葉に、義勇は俯く。「そうだ」と消え入りそうな声で義勇は実弥の言葉を肯定した。
「を、憎からず思っている。大切にしたい気持ちはある……だが、それ以前に俺はを大切にしなければならない。が幸せになるために、手を尽くさなければならない」
「テメェで幸せにするんじゃねぇのかよ」
「が幸せになるのなら、それが俺の元である必要はない。俺が幸せにしたいわけではない、に幸せになってほしい」
今日はよくもまあペラペラと喋るものだと、実弥は現実逃避のように空を仰ぐ。どういうわけかは知らないが、義勇はと想いを通じ合わせたいというよりただただに幸せになってほしいと思っているようで。が大切なのも、庇護欲の延長に淡い恋情を抱いたのも本当だと認めておきながら、それでもの笑顔を花開かせた実弥にを預けようとする。なぜ、そこまで己の感情を足蹴にしての幸せを願うのか。意味がわからないと言うよりいっそ気味が悪くて、実弥は義勇を睨めつけた。義勇が執着しているのは、の存在ではなくの幸せだ。その理由が、わからなかった。
「何を隠してやがる」
「…………」
「テメェがなんで、あいつの『幸せ』にこだわるんだよォ」
「……長い、話になる」
「手短に済ませろ」
舌打ちをしたところで、義勇の鴉が新しい任務を告げに来る。一瞬躊躇った様子を見せた義勇は、「文を出す」と一方的に言い残して去っていった。
「……何だってんだよォ」
その場に残された実弥は、すぐに帰る気にもなれずどっかりと倒木に腰を下ろす。実弥も義勇も、勝手だ。当人のいないところで、の人生を左右するような話をして。続きの話とて、本人に関わらせるつもりがない。少なくとも義勇はそれがの幸せのためだと、思っている。軽々な思い込みではなく。おそらく、血反吐を吐くような葛藤の末に。
――実弥さま。
あの女、笑ったのか。そう、実弥は空をぼんやり見上げながら思った。どうにも、義勇を今回の奇行に駆り立てたのはあの女の笑顔らしい。実弥が。実弥がを、笑顔にしたのだという。どんな顔をして笑ったのだろうと、想像を描きそうになる。戸惑いや苛立ちでそれどころではなかったが、実弥は認めてしまったのだ。が笑って嬉しいと、そう思う感情の名前を。何が何やらさっぱりだが、その笑顔を見て義勇は実弥にを託そうとしたのだ。あの女が愛だの恋だのをわかっているとは、到底思えないが。ましてや、実弥にそんな情を向けているなど。
「……やめだ」
義勇が去ってしまった以上、ここでいくら考えを巡らせていても仕方がない。ただ、チリッと鈍い痛みが走る。どうしてその笑みを見たのが自分ではなく義勇なのだとは、口が裂けても言えなかった。
200511