「冨岡の狗」
 ぼそりと吐き捨てられた言葉は、誰の口から発せられたものだろうか。自身に向けられたであろう嫌味に、一応は顔を上げるけれど。声の主は既に食堂の喧騒に紛れたようで、それらしき人物の姿は見当たらない。卵を投げつけられなかっただけ良い方かと、は大して気にした様子もなく食事に戻った。自分に向けられた罵声だけなら、別段気にする必要も無い。これが義勇に対するものだったら、即座に椅子から立ち上がっていただろうが。そういうところが狗と呼ばれる所以なのだと、は自覚していない。柔らかいパンをちぎって食べ、コンソメで煮込まれた野菜のスープを匙で掬う。そろそろ玉菜が旬かと、は馴染みの八百屋の店主が言っていたことを思い出す。今日の課外にでも玉菜を買いに出て、おかみさんにおすすめの食べ方も聞いておこう。義勇も普段は食堂で食事を済ませているが、夜食はに任せてくれている。最近は会議帰りに溜め息を吐いていることが多いから、胃に優しいものを作ってあげたかった。のようなほとんど雑用係と変わらない下っ端士官には、義勇の抱える職務のひとつだとて代わることはできない。せめて義勇の身の回りのことだけでも負担を減らせればと、は自分にできることを考えていた。乾燥させた果物を混ぜたヨーグルトをもくもくと食べていると、向かいの席の椅子が引かれてどかりと誰かが腰を下ろす。ヨーグルトから顔を上げると、そこには何とも不機嫌そうな顔をした実弥がいた。
「不死川中佐……おはようございます。ここ、一応尉官用の席ですが……」
「テメェに用があって来たんだよォ」
 どうにも今日は周りが騒がしいと思っていたら、佐官が訪れていたようで。それはざわめいて当然だと思いながら首を傾げると、実弥は不本意そうに唇を曲げた。
「テメェの上司が、受け持ちの訓練に顔を出そうとしやがらねェ。テメェが引き摺ってでも連れて来い」
「それは……その……」
 首を縦にも横にも振れない言葉を告げられ、はおろおろと眉を下げる。実弥の言っていることにも少しだけ困っていたからこそ、即座に断ることができなくて。この基地で白兵科を預かる義勇は、新兵の基礎訓練の一部も受け持っている。実際の指導はどの科も将校から指示を受けた下士官が行うとはいえ、兵の士気向上や視察も兼ねて月に何度かは担当の将校が顔を見せるのが常だ。砲科を受け持つ実弥などは熱心な方で、ほぼ毎週訓練に顔を出しては自ら兵を指導しているらしい。けれどの直属の上司にあたる義勇は実弥とは正反対で、今年の新兵に顔を見せたのは最初の一度きりだ。それもその一度すら当初は行かないつもりだったらしく、が半ば隊長室から追い出すようにして行ってもらったのだが。実弥もその顛末を覚えていたから、のところに来たのだろう。けれど、とはヨーグルトに沈む干し葡萄に視線を落としながら口を開く。
「その……大佐は、曹長の指導を信頼しているので、自分が顔を出す必要はないと……」
「合同訓練でそれはねェだろっつってんだよォ」
 一応言い訳をしようと思ったものの、実弥に正論で返されてぐうの音も出なかった。白兵科も砲科も新兵の訓練では主に体力面の養成や戦闘訓練を担当するが、訓練内容が互いの受け持ちに跨るときは合同で指導を行うこともある。その合同訓練で砲科の実弥は顔を出しているというのに隣の白兵科の椅子は空席となれば、新兵たちも何事かとひそひそ言葉を交わすことだろう。実際に銃火器を持っての演習で、兵たちの気の散る要素があるのは好ましくない。せめて合同訓練くらいは顔を見せた方がいいのではないかと思ってはいるが、義勇の心情を思えばそれもできない、というのがの実情で。けれど、実弥はそれを見透かしたかのように鼻を鳴らした。
「テメェはヤツの評判、落としたくねェんだろうが」
「は、はい……」
「だったら、首根っこ咥えてでも引き摺ってこい」
「う……」
 どのみち、中佐である実弥に命令されたら下っ端少尉のは従うしかない。まだそれが「命令」ではないのは、実弥の良心だろう。とはいえ、がいつまでも煮え切らないようであれば実弥はいつでも依頼を命令に変えるのだろうが。これ以上実弥の機嫌が悪くなると、ただでさえいつも「鬼の中佐」と実弥を呼んで畏れているほど厳しく扱かれている新兵たちが可哀想なことになる。何より、義勇があれこれと好き勝手陰口を言われるのはにとって耐え難い事態だ。致し方なく、「やれることはやってみます」とは頷いたのだった。
 
200403
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