「曹長、訓練を見学してもよろしいだろうか」
「少尉殿、もちろんです」
が訓練場に顔を出すと、新兵の指導官でありの養父でもある鱗滝は険しく作っていた表情を綻ばせて歓迎してくれた。優しい顔立ちを隠すために深く被っている帽子を押し上げて、敬礼をする。続いて軍曹たちや新兵たちにも敬礼をされて、は内心落ち着かないのを堪えて毅然と答礼をした。父に対して上官として接しなければならないのは、とても居心地が悪い。けれど、軍人という道を選んだ以上仕方のないことだと鱗滝はを諭した。義理の兄姉である錆兎と真菰も、営内ではきちんと階級に則って振舞っている。末っ子だからといってばかりが我儘を通すわけにもいかず、最近ようやくぎこちなさが消えてきたところだった。「貴様ら、少尉殿の前で無様は晒すなよ!」と鱗滝が新兵たちに檄を飛ばす。鱗滝の声に応えて、新兵たちの野太い返事の合唱が響いた。軍曹の号令に合わせて新兵たちが幾つかの動作を繰り返すのをしばらく並んで見守っていた鱗滝とは、彼らが休憩を与えられて水場に駆け出すのを見送ってから改めて向き直る。
「今年も新兵に落伍者が出ていないと、大佐が曹長に感謝しておいでだった」
「私の功績ではありません、彼らの努力の賜物です。ですが、お言葉はありがたく賜ります。大佐はお変わりありませんか」
「相変わらず、忙殺されていらっしゃる。だが、砲科との合同訓練はご覧になるとのことだ」
「それは気を引き締めねばなりませんな。大佐がお見えになると聞けば、兵たちも一層励むことでしょう」
鱗滝と話していると、新兵たちが数人駆け寄ってくる。水差しと湯呑みを盆に乗せて持ってきた彼らは、檸檬水をどうぞとと鱗滝に湯呑みを差し出した。
「気遣いはありがたいが、私はただ見ていただけだ。君たちの水分補給のために飲みなさい」
「受け取ってやってください、少尉殿」
隣で湯呑みを受け取った鱗滝が、呆れたように肩を竦める。つい素が出てきょとんと首を傾げたに、鱗滝は苦笑した。
「こやつらは、少尉殿がお見えになるとわかりやすく浮つくのです。普段は当番制にして水を持ってくるくせに、少尉がおいでの日は我も我もと競って盆の取り合いになる」
「それは……不思議なことだ」
嫌味や皮肉ではなく、本心から不思議がっているに鱗滝は目を細める。可愛い愛娘を目の保養にしている不埒な新米どもにじろりと視線を向ければ、それぞれバツが悪そうにしながらもその口元は照れくさそうにニヤついてる。悪い者たちではないが、現金というか何と言うか、欲求に素直な者たちである。一昨年配属された先輩のひとりが銃剣術でに叩きのめされた話は聞いているだろうに、可愛ければ苛烈な性情でも構わないのだろうか。もっとも、あれは明らかに新兵本人の口の悪さと邪推が招いた結果ではあるのだが。大佐のお手付きだの枕で得た側近の立場だの馬鹿げたことをヒソヒソと言わなければ、義勇に打たれた上に銃剣を持ったをけしかけられ、更には一ヶ月の便所掃除を言い渡されることもなかっただろうに。大佐直々に「便器並のお前の心だと思って磨け」と便所掃除を言い渡されたあの新兵は、色んな意味で語り種になっている。まあそれらはと言うよりも、義勇が恐ろしい話として広まっているのだろうが。翌年には参謀科の新兵が金髪だからと打たれたこともあり、「白兵科の冨岡大佐」の名はこの基地に配属された新兵がまず真っ先に畏怖すべきものとして教わるものになっている。今年は義勇が初めの挨拶以外顔を見せていない上、そうした事件もなかったために新兵たちは義勇の名を聞いただけで真っ青になって姿勢を正すこともないが。とはいえ、最近は気が緩み始めたのか「男の大佐よりも可愛い少尉殿がいらしてくださる方が嬉しい」とまでのたまう者までいたから、合同訓練を義勇が視察に来るのは鱗滝にとっても丁度いい機会であった。これを機に士官への畏敬を思い出してくれればいいが、と腕を組んだ鱗滝の隣で、は塩を少し混ぜた檸檬水に「おいしい」と目を細めていた。
「こんな気遣いのできる兵たちがいてくれて、きっと大佐もお喜びになる」
「た、大佐ですか?」
「ああ、今度砲科と白兵科が合同で訓練を受け持つだろう。その日は冨岡大佐もお見えになるから、それを励みに精進してほしい」
「は、……」
「君たちも、大佐にご覧いただけるのが楽しみだろう」
「え、ええ、まあ……」
「ハキハキと返事をせんか! 少尉殿直々の激励に対して、失礼だろう!」
が義勇の名を出した途端に青くなった新兵たちと、自分の来訪に喜んでこれだけ親切にしてくれるのなら義勇が来たら更に喜ぶだろうと勘違いしている。今年は恐怖の大佐の来訪が無いと安堵していた新兵たちに、どよどよと動揺が広がっていく。それをぴしゃりと一喝して鎮めた鱗滝は、「気が緩んでいる」と罰直の腕立て伏せ50回を言い渡していた。野太いかけ声が訓練場に響く中、きょとんとしているに鱗滝は内心苦笑する。はどうにも、義勇を慕うあまりに自分自身が他人からどう見られているかに無頓着なところがある。に好意を持っている者にはそこが魅力でもあるが、を疎ましく思う者にはそれもまた気に入らない要因として映るのだろう。もまた、下っ端少尉の立場に満足することなく士官として自覚を持っていければいいが、と鱗滝は合同訓練のことを思う。罰直が終わり整列した新兵たちが合同訓練に「白兵科の冨岡、砲科の不死川」が揃うことを知ったときの嘆きの雄叫びは、司令部まで届くほどのものだったらしかった。
200404