帰りたい、と村田は強く思う。万年中尉と言われている彼だが、その分古株として周囲からの信頼は厚く。任務でしばらく基地を留守にするにも、不在の間の義勇の補佐を頼まれた。同期の出世頭とはいえ義勇に対して村田は悪い感情を持っておらず、が譲ってくれた良質の椿油のこともあり村田なりにしっかりと留守を守る気持ちはあったのだ。だが今この訓練場の空気は、誰もが帰りたいと思うだろう。
「…………」
「…………」
ぎしぎしと、空気が軋んでいる音さえ聞こえそうな錯覚に陥る。重い空気の中、いっそ健気なまでに虚しく響く新兵たちのかけ声。この世の虚無を煮詰めたような義勇の表情と、この世の憤怒を凝縮したかのような実弥の表情。同期の義勇はともかく、訓練場に着いて村田の顔を見るなり「あ゛?」と威嚇してきた実弥に、村田はすっかり怯えていた。佐官ともあろう者が二人も揃って尉官一人の不在に機嫌を左右されるなど、全く嘆かわしい事態である。正確に言えば二人ともの不在の理由を知っているし理解もしているが、普段が緩衝材になっている部分を自分たちでどうにかする気がないだけであった。本当に勘弁してほしい、と村田は思う。義勇は人間関係の構築に怠惰なくせに向けられた敵意には負けじと反発するし、実弥は端から義勇を嫌っている。日頃は臆病なを怯えさせまいとそれぞれへの威嚇を抑えているのを、がいないのなら我慢する必要もないと思う存分睨み合っているだけであった。これでいっそ訓練の視察がおざなりであれば諌めることもできたものを、二人ともそこはしっかりと隅々まで目を配っていて、指摘するべき箇所は的確に指摘している。仕事のできる馬鹿は本当にタチが悪いと、村田は内心で吐いた溜め息の回数を数えるのを止めた。まあ、些か気の緩んでいた今年の新兵にとっては良い薬なのだろうが。
(早く帰ってきてくれないかな、ちゃん……)
この訓練場にいる者、ほぼ全員の総意であった。
(複数の被害者が、いなくなる前に何度か目撃されていた場所……)
さてその頃はと言えば、当然の事ながらきっちりと職務に励んでいた。馬鹿正直に資料を見ながら歩くわけにはいかないので、昨夜必死に頭に叩き込んだ記憶が頼りである。そこは少し入り組んだ街並みで、もし誰かに何をしているのかと訊かれても堂々と迷子だと答えられる。今のは一応、「昔世話になった花の先生を頼りに家出してきた好奇心旺盛な娘」ということになっていた。その「花の先生」も、軍の協力者なのだが。炭治郎の解決した事件と今続いている事件の被害者の最大の違いは、今回の事件の行方不明者はほとんどが身寄りがなかったり家での居場所がなかったりするということだ。そのため、参謀科の時透の指示での身分もそれに近いものになっている。身寄りのない者を狙う組織の犯行、となればにとって思い出されるのは幼少期の苦い記憶だ。当然面白いはずもなく、苦々しい顔付きになってしまう。
「そんな顔して、どうしたんだい?」
「……ひあっ!?」
背後から突然顔を覗き込まれ、は軍人らしからぬ高い声を上げて仰け反る。職業柄気配には敏いつもりでいたから、声をかけられるまで全くその存在に気が付かなかったことに驚いてしまって。のあまりの驚きように暫し呆気にとられていたその男性は、口元を扇で隠してクスクスと笑った。
「ごめんね、驚かせちゃったみたいで」
「い、いえ……びっくりしすぎて、ごめんなさい……」
見上げると首が痛くなりそうなほど、背の高い男性だ。義勇より上背があるだろうか。白橡の髪に、あまり見ない形の帽子を被っている。にこやかに細められてを見下ろす瞳は虹色の虹彩で、物珍しさには思わずじっと見入ってしまう。美しいけれど、どこか背筋の凍えるような恐ろしさも感じさせる瞳だ。新しいものに興味を示す幼子のようなの反応に、男性は愉快そうに目を細めた。
「驚いたりじっと見つめてみたり、小さい子みたいで可愛いね」
「……えっ、あっ、すみません、不躾に……!」
「気にしないで。でも、さっきはすごい顔をしていたね。何かあったの?」
「そ、その……迷子になって、困って、いて……」
「……表だと話しにくいかな?」
迷子というにはあまりに険しい顔だったと、男性は苦笑する。怪しまれただろうかと内心身構えたをよそに、「見ず知らずの他人が相手じゃ話しにくいよね」と男性はひとり頷く。目を白黒とさせるに、男性はにこやかに笑いかけた。
「俺は怪しい人間じゃないよ。実を言うと、困っている人の話を聞いたり助けたりすることを生業としていてね。君があんまり難しい顔をしていたものだから、気になって声をかけたんだ」
「それは……奇特な趣味を、お持ちですね……?」
「あはは、趣味かあ。そういう風に言われたのは初めてだなあ」
扇をパチンと閉じて、男性はに手を差し出す。頭の片隅で、本能が警鐘を鳴らした。直感にすぎないけれど、いきなり「当たり」を引いてしまった気がする。おそるおそる、けれど躊躇わず。は、その大きな手に自らの手を重ねたのだった。
200409