「紅茶は好き? 帝都で今流行っている茶葉があるんだ」
「えっと、お構いなく……」
「遠慮しないで、それとも甘いものは苦手?」
「い、いえ……」
「そう? よかった」
職業柄、あまり外で出されたものに口をつけないようにはしているのだが。童磨と名乗ったその男性はが止める間もなくお茶の用意を進めていくものだから、あまり強く遠慮するのも不自然だろうとは椅子に座り直した。品のいい調度で整えられた部屋は、白兵科の隊長室や鱗滝たちと住む家より華美な印象があってどうにも落ち着かない。そわそわと居心地が悪そうにしているにくすりと笑い、童磨はカチャリと紅茶のカップを置いた。小さな可愛らしい白の皿に、クッキーというらしいお菓子を乗せて出してくれる。蜜璃に呼ばれたお茶会に少し似ているなと、は繊細な紋様の入ったカップをおそるおそる持ち上げた。
「い、いただきます」
「うん、どうぞ」
一応、が見ていた限りでは何か混入させるような動作はなく。仮に何か混ぜられていたとしても、は薬や毒が効きにくい体質なので多少は大丈夫だろう。おっかなびっくりカップを手に取るを、童磨は可笑しそうに見守る。ふわりと広がった花の香りに、は驚いて目を見開いた。
「お花の匂いがします……!」
「あはは、気に入ってくれたなら嬉しいよ」
これは蜜璃やカナヲたちが好きそうだと、は目を輝かせる。帰ったら取り寄せられるか調べておこうと、密かに決意した。花の香りのお茶に思わずはしゃぐを、ニコニコと童磨は見つめる。「それで、軍人さんがどんな御用だったの?」と穏やかな声のまま問われ、は「……え?」と喉の奥が凍り付いたような感覚に襲われた。
「大丈夫、君が何かボロを出したわけじゃないよ。ただ、俺が個人的に君のことを知ってたんだ。そうじゃなかったら、普通の女の子に見えてたよ」
「……あなたが、私を?」
「そう。東方鎮守府白兵科連隊長補佐、鱗滝少尉。もうすぐ中尉に昇進するんだよね? おめでとう」
穏やかな笑みを絶やさない童磨の前で、は静かにカップを卓に戻す。「気に入ったならお店も後で教えてあげる」という言葉も、右から左へとすり抜けて行った。所属も名前も、昇任予定まで知っている。ただのハッタリではないと理解して、背筋に冷たい汗が伝った。何かあると思ってついてきたが、まさかが軍人と知った上でのことだったとはさすがに想定しておらず体が緊張に強ばる。ぎゅっと拳を握り締めて、は童磨を真っ直ぐ見据えた。
「……間諜、ですか?」
「うん、そうだね」
が真っ先に心配しなければならないのは、我が身ではなく東方鎮守府の安全だった。どこから、情報が伝わっていたのか。配属や名前はともかく昇任予定まで知っているとなると、軍内部の人間が情報を流しているのは確実だ。あっさりとそれを認めた童磨に、は重ねて問うた。
「あなたは、『組織』の人間ですか?」
「そうだよ。それで、ちゃんが聞きたいのは、行方不明の女の子たちについてだよね?」
「……そうですが、もし、あなたの仕業ならば」
「俺のしたことといえばそうだけど、犯罪みたいに言われるのは心外だなあ。言っただろう? 俺は困った人の話を聞いたり助けたりするのが生業だって」
ついておいで、と手招かれ、は童磨の後について部屋を出て廊下を歩いていく。とある一室の前で足を止めた童磨は、「ご覧」と中の様子を指した。
「……手習い?」
「そう、学のある子が読み書きのできない子たちに文字を教えてるんだ」
和気藹々と、筆と紙を手にして書いた文字を見せ合う女性たち。その表情に無理やり連れ去られたような怯えや悲しみは一切なく、むしろ希望に輝いた目をしていて。皆何かしら錠や枷に囚われているということもなく、自由に過ごしているようだった。
「女の子に限らず、救いを求める人は受け入れてきたんだけどね。南の内乱の後、身寄りのなくなった女の子が身売りされる前に駆け込んでくることが増えたんだ。そうしたら女の子のための駆け込み寺みたいな噂が広まって、この辺りの子もここを頼りに集まるようになったんだよ」
夫に暴力を振るわれている妻、姑に虐められている嫁、両親にいないものとして扱われている娘、無理やり決められた結婚に反発した少女。いろんな事情のある女性が、ここを頼りに訪れているらしい。他の部屋では、裁縫をしていたり。はたまた、庭で体を動かしていたり。誰もが笑顔で、生き生きとしている。そういえば組織は非合法な生業に手を染める一方で、慈善活動じみたこともしていたのだったとは苦々しく思った。軍がこうした女性たちの拠り所になれるかといえば、その答えは否だ。けれど、組織に頼るというのはいつどんな形で対価を求められるかもわからないということでもある。資料に載っていた顔も幾人かは見当たらず、身売りでもさせられたのではないかという危惧を抱いて尋ねれば、「良縁があって他所へ嫁いでいったよ」というどうとでも言い訳ができるような答えだった。
「ちゃんも、ここにいたかもしれないんだよ」
「ちゃん付けはやめてください。 ……どういうことですか?」
「ちゃんの名前とか階級とかは、軍の協力者に教えてもらったけどね。君を知ったのは、もっと前」
「……?」
「十三年前の、東の内乱。組織の男を殺しちゃって、軍人さんに保護されてた君を見たよ」
童磨の言葉に、はピタリと凍り付く。軍人であることを指摘されたとき以上の動揺が、の心臓をぎゅっと掴んだ。あの日のを知っているのは、ほんの一部の人間だけだ。の胸の奥に、未だ残る疵。事切れた男を、呆然と見下ろす子ども。あの場に、この男もいたというのか。身構えたに、童磨は眉を下げた。
「君のことも、保護してあげたかったんだけどね。俺を知らない粗忽な人買いの使い走りが、制止も聞かずに先走ってしまって。止めるべきだったんだろうけど、見惚れてしまったんだ」
「……見惚れた?」
「あの男を滅多打ちにして殺した君に、一目惚れしたんだよ」
童磨の口から飛び出してきた言葉に、はぽかんと呆気に取られた。あの、醜い血と泥に塗れた子どもに。一目惚れしたのだと、この男は言う。一目惚れ、という言葉の意味を一瞬真剣に考えてしまった。それは確か、伊黒が蜜璃に対して抱いている感情だ。優しい目で相手を見つめて、可能な限り傍にいたくて、危険から遠ざけて守りたい。の知る限り、恋とはそういう感情であるはずだった。
「理解できません」
人を殺した自分の何を見て、そんな優しい感情を抱けるというのか。到底信用できるわけもなく、は童磨を真っ直ぐ見上げた。その言葉が嘘であるならまだ理解できる。本当であるならば、あまりに理解し難い。死ぬまで人を殴った姿に惹かれたなど、そう言ったのが本心ならばよほど相容れない生き物だろう。警戒心を露にするを見て、童磨は苦笑する。
「今はわからなくても、その内きっとわかるよ」
「一生かけても理解できないもののために、あなたに付き合う時間はありません」
「付き合ってもらうとも。一生でも」
「……?」
「まさか、俺が君を帰すと思っているのかい? ここは『組織』の管轄だぜ?」
「……あなたは、人を連れ去ったり閉じ込めたりしているわけではないのでしょう」
「それができないわけでも、する気がないわけでもないんだけどなあ。あの子たちのためにも、君を自由にしてあげるわけにはいかないよ」
スッと、首筋に扇を当てられる。薄い金属でできているらしいその扇は鋭利な刃になっていて、の首などストンと落としてしまえるだろう。
「軍が介入したところで、あの子たちを引き取ったり世話してやったりすることはできないだろう? 行方不明者として届けられている以上、家に帰して終わりだ。君はそれでいいの? 彼女たちに言える? 地獄に帰れ、って」
「……詭弁です」
「うん?」
「本心から『彼女たちのため』など、思っていないでしょう」
言葉こそ、本当に彼女たちを思いやっているかのようだったけれど。行動こそ、まるで生き仏のように見えるだろうけれど。例えばもし、今ここで彼女たちが突然死んだとしてもこの男は泣いて、ただそれだけだという確信があった。彼女たちのために怒ったり、悲しんだり――しているような表情や言動は、するかもしれない。それでも、彼女たちのために復讐しようだとか、次は死なせようにしようだとか、そもそも死なせないように守ろうだとか、そういう行動は一切起こさない。童磨の笑みは、そういう類のものだった。は腹の探り合いは不得手だが、そうしたものを嗅ぎ分ける嗅覚については義勇のお墨付きだ。この男からは、例えば鱗滝がを慈しんでくれているときのような匂いは全くしない。親愛も哀れみも、何も無い。それでもいいと、きっと彼女たちに問うても言うだろう。どんな思惑があろうとも、真に哀れんでのことではなくても、何もしてくれない軍よりはマシだと。だが、組織がただの慈善活動などするはずがないとは知っている。学をつけさせ、手に職を持たせ、そうして育てた女性をどう使うつもりなのか。ここにいる女性たちが組織にどう使われようと、この男は眉一つ動かすまい。だからは、真っ直ぐに童磨を睨み付けた。
「私は、軍人です。軍に不利益をもたらす可能性があるならば、それを排除するのが務めです。例え、彼女たちに恨まれて、石を投げられても」
「へえ?」
「……ここにいない女性は、どこに行きましたか」
首筋に押し当てられた扇を、ガッと掴んで問う。少し刃が掠ったかもしれないが、そんなことは気にしていられなかった。
「……残念だけど、俺は『後』のことは知らないな」
扇を退けて、童磨は笑う。の指にできた切り傷をなぞられ、ピリッとした痛みが走った。
「でも、そうだね。軍にとってはあんまり面白いことじゃないと思うよ」
「……ここの女性は、軍が保護します」
「させると思う?」
「あなたが『させる』かどうかを、聞いていません。私は『保護する』と言ったんです」
やけに強気だな、と童磨はを観察する。例えば監禁してでも、をこの屋敷から出す気が無かったのは事実だ。けれどの様子を見ていると、自身が動けずとも問題ないと言っているかのようで。
「現時点で、軍はあなたを拘束できません。彼女たちは皆自分の意思でここに来て、あなたはそれを保護しただけです」
「……軍による保護を妨害するなら、俺を拘束すると?」
「ご理解いただけて何よりです」
むしろ軍としては、その方が都合が良いはずだ。ただ市民を保護するよりも、組織の人間というおまけがついてくる方が良い。例えばをここに監禁しようものなら、それも『公務の妨害』として口実にできる。最大の問題はそれをどうやって軍に知らせるのかということだが、の表情はただ漠然と希望を抱いている愚か者のそれではない。何かしら、連絡手段を確保しているのだろう。少しの間の不自由と、組織の人間の身柄の拘束を天秤にかければそれは容易に後者に傾く。軍人とは、そういう生き物だ。個としてではなく、全体でひとつの意思を持った生き物のように動く。
「俺が、無抵抗で捕まってあげる理由もないよね」
「逃げるのも、抵抗するのも、あなたの『上』が許すのなら」
ただでさえ先月の事件で「軍に目を付けられるな」と無惨に言われている。街中で軍を相手に大立ち回りなどしようものなら、確実に無惨は激怒するだろう。捕まらないよう逃げるのであれば、軍と衝突を起こすよりマシといった程度だ。軍にこの屋敷を押収され、童磨の『業務』から組織の他の者が辿られる可能性もある。理想は今ここでを協力者として取り込んでしまうことだが、それはほとんど不可能だろう。殺して始末してしまえば、監禁と同じ結果になる。少なくとも今はまだ、童磨は「身寄りのない女性を匿っていた善良な市民」に過ぎない。軍の要請に従って大人しく彼女たちを引き渡せば、組織の人間として行動を制限されることも私財を押収されることもなく、ただの市民としてここから撤退することができる。一番傷が浅く済むのがどの道かなど、火を見るより明らかだった。
「君は、俺を捕まえなくてもいいの?」
「私が一番に優先するのは、行方不明者の保護です。捕まってくれるのでしたら、それでも構いませんが」
「うーん、捕まるのは困るかな」
「そうですか」
窓の外で待機していた鴉に、指文字で指示を出す。行方不明者の発見の報告と、応援要請だ。が定時報告の時間までに屋敷から出られなければ、鴉が緊急の応援要請を義勇の元に伝えに行くよう指示を出していた。
「一刻ほどで、保護のための人員が到着します」
「意外とそつがないね、ちゃん」
「ちゃん付けはやめてください」
「人が来るまで、お茶の続きをしていよう? もっとちゃんのことが知りたいんだ」
のちょっとした抗議を再び聞き流して、童磨はの手を引く。むっと顔を顰めただったが、応援が到着するまでに何か余計な真似をされても面倒だと大人しくついていった。無事引き渡しが終わるといいが、とは緩みかけた気を引き締める。ここで童磨ともし戦いになっていれば、到底勝てる気がしなかった。まともに装備を整えても埋まらない実力差を感じて、実のところ首に刃を当てられたときは心臓が怯えに激しく脈打っていた。周りには表情が読みにくいと言われる顔面と、虚勢でどうにか乗り切ったようなものだ。一目惚れがどうとか言っておきながら、童磨は必要になればあっさりとの首を落とすだろう。けれど同時に、殺す必要がなくなれば柔らかい笑みを浮かべて口説く。面倒な人間に関わってしまったと、苦く思う気持ちしかない。この男は、少し怖い。危険だと、本能が警鐘を鳴らす。童磨が淹れ直してくれたお茶は、いい匂いがしておいしかったけれど。取り寄せるお茶は今日飲んだものとは別のものにしようと、は密かに溜め息を吐いたのだった。
200412