「ぎっ、大佐……!?」
「ご苦労だった、少尉」
 まさか義勇が直々に保護班を編成して駆け付けるとは思っておらず、は驚いてうっかり家での呼び方をしそうになったのを慌てて堪えた。帽子がないため十度の敬礼をしようとしたを、「その格好では目立つ」と義勇が制止する。忙しい白兵科を抜けてきて大丈夫なのかと思ったが、屋敷の中に入りながら義勇は小声で「問題ない」と告げた。
「事件が白兵科の管轄になった以上、報告を聞くより自分で見た方が早い。 ……それに」
「?」
「今日の合同訓練で、不死川と勝負をした。勝ったから、砲科に少し雑務を回した」
「え、ええと……大佐の勝利を、喜ばしく思います」
「ああ」
 どこか満足気に頷いた義勇に、珍しい、とは思う。義勇は誰かと見世物や娯楽のように手合わせすることを好まないし、勝負に賭け事を持ち込むのもいい顔をしない。そういったことで勝っても普段は嬉しくなさそうにしているから、少し嬉しそうにさえしている義勇の姿は本当に珍しくて。義勇は実弥のことを好敵手として認めて勝負を楽しんでいるのだろうか、と本人たちが聞けば盛大に顔を顰めそうなことをは呑気に思う。実のところ実弥が持ち出した賭けの内容が「の砲科への異動」だったことなど、は知らない。訓練で賭けなどくだらないと一蹴するつもりでいた義勇は、実弥と匡近によるへの餌付けの件を思い出して血相を変えて。を渡さない意思を一度しっかり見せつけなければならない、と異常なまでに気合を入れて模擬戦に臨んだのである。当然賭けのことなど知らない新兵たちだが、それぞれの部隊を率いる実弥と義勇の気迫に引き摺られて中々良い模擬戦を行ったのだった。鱗滝たちは「さすが連隊長が率いると動きが見違える」と感心していたが、その背景にあった賭けを知らないことは幸せであろう。そうして義勇は実弥の部隊より多い得点を奪取し、大事な補佐官の防衛に成功した。ついでに、賭けの対価として「少し」どころではない量の雑務を砲科に押し付けて。今頃砲科では、大量の雑務を抱えて帰ってきた連隊長代理に匡近が笑顔で理由を問い質しているところだろう。そうして身軽になった義勇は、何も知らないに勝利を祝われて珍しく口元を綻ばせている。合同訓練当初の義勇の表情を見ていた村田が今の義勇の顔を見れば、我が目を疑うであろうことは間違いない。ちなみに彼は、義勇に留守番を任されて白兵科の隊長室に缶詰になっている。
「やあ、君が『保護』の責任者でいいのかな?」
「……ああ。保護班班長兼、東方鎮守府白兵科連隊長、冨岡義勇大佐だ。善意による市民の保護に、鎮守府を代表して感謝する」
「大佐さんがわざわざ来てくれたんだ、優しいね。俺は童磨、この屋敷の主だよ」
 保護班の到着の少し前に集められた女性たちに、班員たちが『保護』の説明をしている。ざわめく座敷の隅で義勇の傍に控えていると、童磨が現れて義勇と挨拶を交わしていた。童磨が組織の人間だという発言は、しか聞いていないため言質にはできない。今は「善良な市民」として振る舞う童磨をそう扱うしかない義勇は、愛想など欠片もない表情で童磨の差し出した手を見下ろす。童磨は童磨で、薄っぺらい笑みを顔に貼り付けて。冷え切った空気のまま、童磨と義勇は引き渡しについて話し合うことがあるとかで別室に移動していく。それを内心不安に思いながら見送ったは、保護班の者に呼ばれてそちらに向かったのだった。

「――大佐さんのところの仔犬は、可愛いね」
「……犬は飼っていない」
「健気で、従順で、鼻が利いて。手元に置いて眺めていたら楽しそうだよね、羨ましいなあ」
 にも出した茶を人に淹れさせた童磨だったが、義勇は手を付けようともしない。童磨もそれを気にした様子はなく、喋りたいことだけを喋っていた。
「ねえ。あの可愛い仔犬ちゃんをくれたら、情報をあげてもいいよ」
「断る」
「あはは、大佐さんもやっぱりあの子が可愛いんだ? 手放したくないよね」
 どうしてはこうも面倒な人間ばかりに好かれるのかと、義勇は内心ため息を吐く。書面から顔を上げた義勇の表情は、刃よりも鋭く冷たかった。
「あれは俺の狗だ」
「……ふうん?」
「忠実さや情だけで俺が傍に置くと思っているなら、組織もそう長くは保たないな」
「やだなあ、俺は善良な市民だとも」
「……あれが仔犬などに見えるか? 俺の狗だと、そう蔑まれ、嘲られることを恥とも思わない。一度喉元に噛み付けば離さず、必ず俺の元まで引き摺り出してくる……得難い、『可愛い』狗だろう」
 軍帽の下から、挑戦的にさえ思える冷たい青が見上げてくる。深淵が、童磨を覗き込んでいた。
「観賞用の仔犬程度に思っている者が、扱える代物ではない。貴様ではあれの飼い主に役不足だ」
「……へぇ」
 お互いに据わった目で、暫し睨み合う。あわよくば保護に来た人員を取り込もうと思っていた童磨だが、既に童磨は義勇の逆鱗に触れていたようで。童磨は何一つのことを理解していないと断言する義勇に、童磨も面白くない気持ちになる。二人の間に流れる空気は、氷点下よりもなお冷えきっていたのだった。
 
200413
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