「お疲れさまです、さん!」
「炭治郎くんも、お疲れさま」
白兵科の裏にある小さな畑に、美化班の一人である炭治郎が来ていた。この畑は半ばの趣味のようなものだから、美化班の仕事ではないと言ってあるのだけれど。体を動かしたいと言って、炭治郎たちは手伝ってくれている。お礼にとこっそりお菓子をあげたり訓練に付き合ってたりしている内に懐かれたようで、大勢の前でもなければこうして気安い会話も交わすようになった。けれど、いつも朗らかな炭治郎の笑みが翳っているのを見て、は心配から眉を下げる。突如がばりと頭を下げた炭治郎に、びくりと肩が跳ねた。
「この間は俺の失敗を押し付けたようになってしまって、すみませんでした」
「この、間……?」
「俺が犯人を一人見つけて解決した気になっていたせいで、さんが大変だったと聞いて……」
「あ、その事件……炭治郎くんのせいじゃないよ。むしろ炭治郎くんが一件目の犯人を見つけてくれたから、そうじゃない事件もわかったんだよ」
「ですが……」
やはり炭治郎は自らの担当した事件のことを気にしていたようで、その表情は暗い。けれど、が口にしたのは本心だ。確かに童磨との会話は思い出すだけで頭痛がするが、前の事件の犯人と命懸けの大立ち回りを繰り広げた炭治郎に比べればさしたる苦労ではない。炭治郎を責める気持ちなど、微塵もあるはずがなかった。を任務に出すのを渋った義勇だとて、同じ気持ちだろう。
「私の方は……その、運良く、一日で終わったし……ありがとう、炭治郎くん」
「さん……」
「――俺のいない間に何さんとイチャイチャしてるんだよ、炭治郎!!」
「わっ……」
「うわっ、善逸」
ほのぼのとした空気が漂う裏庭に、雷のような悲鳴じみた声がぴしゃりと落ちる。イチャイチャ、という形容詞に炭治郎もも揃って首を傾げるが、善逸が手元に持っている如雨露を見てそれぞれに善逸に駆け寄った。
「ごめんね善逸くん、お水持って来てくれたんだね」
「重かっただろう、ありがとう善逸」
「……そういうところだよな……」
「?」
「どういう意味だ?」
首を傾げつつも善逸が両手に持っていた如雨露を受け取り、畑に水を撒いていく。毒気も抜ける天然二人に、善逸はげんなりと肩を落とした。今日は水をやらない区画の方にしゃがみこんで、ぷちぷちと雑草を抜いていく。やがて水遣りを終えたと炭治郎が加わって、三人は和気藹々と他愛のない話に花を咲かせながら雑草取りや摘芯をしていた。
「――おい、お嬢ちゃん少尉」
ざり、という地面を擦る音と共にその空気を裂いたのは、揶揄と悪意を含んだ鋭い声だった。どこかで聞いた覚えがある声だ、と思いつつ立ち上がって振り向くと、そこには大尉の階級章をつけた青年が立っていて。隣で「げっ」と嫌そうな声を上げた善逸に内心首を傾げながらも、上官に対する礼儀として敬礼をする。それを当然とばかりにふんと鼻を鳴らした青年は、善逸と炭治郎に向かって顎をしゃくった。
「そいつに用がある。新米准尉どもの聞く話じゃねえから、どっかに行け」
「……言い方ってもんがあるだろ」
「善逸?」
「お前こそ口の利き方がなってねぇぞ、カス」
「っ、」
善逸と顔見知り、と言うには何やら剣呑な空気である。何か言い募ろうとした善逸を制して、は一歩前に出た。
「ご用件をお伺いいたします、大尉殿」
「あぁ?」
「竈門准尉、我妻准尉、本日の職務はここまで。わかれ」
青年の物言いは傲慢だが、軍の道理として階級の低い善逸たちに退去を言い渡すのは間違ってはいない。何やら青年と因縁のあるらしい善逸は、自らよりも炭治郎やに向けられた嘲りに怒っている。他人のために怒り、傷付くことを厭わないのは善逸の美点ではあるが、今はが彼らを守るべき場面だ。日頃大人しく従順なが強引に割って入った理由も、敢えて固い命令口調を選んだ理由も賢い二人は即座に理解し承諾してくれる。心配そうに振り返りながらも如雨露やら鋏やらを抱えて去っていく二人を見送って、は青年大尉に向き直った。
「……カス共を守ったつもりかよ」
「……食堂のときの方ですか?」
「あ?」
棘のある声と、そこに滲む誰かへの悪意。その声にはやはり聞き覚えがあって、向けられた揶揄に対して全く頓珍漢な答えを返してしまった。当たり前だが意味がわからないという顔をする青年をじっと見据えて、は言葉を続ける。
「以前、朝食の場で『冨岡の狗』と。あれは、あなたの声だったかと」
「……は、耳聡い嬢ちゃんだな。反論でもあるのかよ?」
「いえ、特には」
「澄ました面しやがって……気に食わねぇんだよ。お前も、あのカスも」
「失礼ながら、私は鱗滝少尉と申します。彼は我妻善逸准尉です」
「うざってぇ鈍感だな。箱入り娘かよ、お前は……わざとやってんのか?」
「? いえ」
奇しくも先程の善逸と似たような肩の落とし方をした青年に、は再び首を傾げることになる。全体的に言葉が荒っぽい実弥と表面上は似た印象を受けるが、この青年には実弥には無いハッキリとした悪意がある。けれどそれは個人に向けられたものというよりは、誰も彼もに向けられたものに思えた。善逸とのやり取りだけは、特別にも思えたが。は臆病だが、その臆病さの根本には「自分に危害を加えるか否か」という価値基準がある。初対面の言葉の荒い他人に対する恐れはあったが、悪意はあっても害意のない青年には比較的普通に接することができそうだった。
「……桑島獪岳大尉だ」
「桑島大尉……工兵科の、連隊長補佐官殿……」
「知ってんのかよ」
「お噂は。大佐が……冨岡大佐が、工兵科との演習の後に大尉のお名前を口にしていらっしゃいました」
「白兵科の大佐サマが?」
「群を抜いて手際の良い工兵がいた、と」
義勇の言葉を思い返しながら言うと、獪岳は鼻を鳴らす。態度こそツンケンとしているがどこか満更でもなさそうな様子に、ほっと内心胸を撫で下ろした。獪岳は確か、善逸同様桑島の養子だったはずだ。桑島の知己である鱗滝から義勇もそれを聞いていたため、獪岳の顔は知っていたようで。他愛のない会話だったが、執務室に帰ってきた義勇に演習のことを尋ねたときそう言っていた。
――ただ、あまり良くないものを抱えている目をしているが。
付け加えられた一言は、言わない方が無難だろう。さすがのにも、そのくらいの分別はあった。桑島は優しい人で、が軍に入る前から親交があった。時折鱗滝の家を訪れては、囲碁や将棋を楽しんで。養父が友人と楽しそうに過ごしている時間はにとっても喜ばしいものだったし、桑島はにも朗らかに構ってくれた。その桑島にも養子がいるというのは聞いていたが、善逸だけでなく獪岳とも話す機会を得られたのは決して嫌なことではない。桑島の息子なら多少ひねたところがあろうと悪人ではあるまいと、は思ったのだが。
「桑島軍曹には、父共々お世話になっております……大尉殿も、お父上と同じ科に入られたのですね」
「……別に、入りたくて入ったわけじゃねえよ」
ビリッと、切り裂くような威圧感が獪岳から膨れ上がった。が白兵科を選んだのは、もちろん義勇を追いかけたい気持ちもあったが養父への尊敬も大きい。きっと獪岳もそうなのではないかと思って、つい饒舌に話してしまったのだが。何か触れてはいけないものに思い切り触れてしまったようで、獪岳は昏く冷たい目をしてを見下す。僅かに感じていた親しみなど、一瞬で吹き飛んだ。
「俺は上に行くんだよ……工兵科なんかじゃなく、参謀科に入って司令部の椅子を獲るはずが……」
「大尉、殿」
「なんであのカスが参謀科に入れた? あのカス、どんな手を使いやがった……俺が、工兵科の小間使い止まりだと……?」
「あの、大尉殿……?」
「……チッ」
口が滑った、といった様子で我に返った獪岳は舌打ちをする。ドロリと張り詰めていた器の中身が溢れたような言葉に、危ういものを感じはしたが。の口の出せる領分ではなく、黙りこくった獪岳を恐る恐る見上げる。ややあって溜め息を吐いた獪岳が、ゴソゴソとポケットから封筒を取り出してに突き付けた。
「童磨様からの手紙だ」
「……え?」
「あの人に目を付けられて、お前も災難だな」
ハッと鼻で笑う獪岳から、反射的に封筒を受け取ってしまうけれど。組織の人間からどうして獪岳が手紙を預かっているのかと、の背に緊張が走った。
「……あなたが協力者ですか?」
「勘違いすんなよ、二重間諜だ」
嘲るような表情を取り戻した獪岳は、の手に渡った封筒を見下ろしてつまらなさそうに肩を竦めた。確かにこれは、炭治郎や善逸の前では渡せまい。二重間諜だという言葉は義勇なり誰かに確認を取るつもりだが、獪岳もそんなことは承知しているだろう。用は済んだとばかりに背を向けて歩き出す獪岳を、は静かに見送ったのだった。
200429