「桑島大尉が二重間諜?」
が報告と共に差し出した童磨からの封筒を受け取って、義勇は片眉を上げた。さすがに他科の人間が秘密裏に就いている職務については把握していないらしく、義勇は手にした封筒を見下ろして何事か思案している。余計な報告をしてしまっただろうかとオロオロするを見て、ふっと義勇は表情を和らげる。
「……お前のところで情報を止めようとは思わなかったんだな」
「えっ、と……?」
「我妻准尉の義兄で、桑島軍曹の養子だ。大尉が組織と通じていると判断された場合、当然二人にも累が及ぶ……多くの人間は、その可能性に躊躇って口を噤む」
「……その、私は……薄情な人間でしょうか」
「いや。俺はお前のそういうところを買っている、少尉」
どんなに忠義の厚い人間にも、主の他に大切な人間はいる。善逸はの可愛がっている後輩であるし、桑島はの養父の友人だ。普通の人間ならば、躊躇い、迷い、考え抜いた末に優先すべきものを決めるのだろう。だが、の優先順位は他人から見れば冷酷な程に一貫して定まっている。はいついかなる時でも、義勇と義勇のいる場所を優先して動く。情の無い人間だと、思われることもあるだろう。けれどがそういう人間だからこそ、義勇にはが必要なのだ。そして、は義勇が必要だと言ったことを躊躇うようなことはしない。こういうところこそが「狗」と蔑まれる所以ではあるが、まさしくは義勇の狗であった。そして、義勇は狗の名に恥じないの働きに支えられている。
「封筒の中身は見ていないんだな?」
「はい。危険な仕掛けが無いかだけ確認しております」
「それでいい」
あの、に妙な執着を見せていた童磨という男。もし接触があったら、一切返答せずに義勇にそのまま報告するようにと指示してあった。そしてできる限り、自身が童磨の言葉を聞いたり文を読んだりすることは避けるようにと。が絶対にその命令を守るから、義勇はを守ることができる。の疵を知っているという、あの男。言葉を弄するのが得意なようであったが、まだ精神的に稚いところのあるの脆いところを突こうとしているのか。を利用して軍に手を出そうとするのなら、反対に喰らってやるまでだ。東方鎮守府随一と恐れられる白兵科の訓練や規律の厳しさは伊達ではないと、組織にも示してやろう。愛しい狗が咥えてきた獲物の首を刎ねるのは、飼い主である義勇の役目だ。そう意気込んで封を切った義勇は、薫き染められていた香の甘い匂いに顔を顰め。そして、目の滑るような手紙の内容に眉間の皺を増やす羽目になった。
「大佐……その、おつかれさまです……」
「ああ……」
無花果の蜂蜜煮を夜食に差し出したに、義勇はこめかみを抑えて頷いた。控えめな匂いと優しい甘さに、童磨の手紙に疲れた心が落ち着くのを感じる。女学生の恋文の方がまだマシだ、と義勇は胸中で吐き捨てた。があれを読まなくて良かったと、別の意味で思う。あんな砂糖で脳みそを浸したような恋文をに読ませるなど、あまりにも教育に悪すぎる。砂糖を大量に煮詰めたような文章に何か意図を隠しているのかとも思ったが、何度読み返してもそれはおぞましいほどに甘ったるい求愛の文章でしかなくて。たった一言で済む用件のためだけに、便箋数枚に書き綴られた思いの丈。せっかくの夜食の時間に噎せ返るほどの蓮の香など不要だと、義勇は手紙を便箋に戻した。
「……お前を交流会に誘っている」
「それは……今度大佐とご一緒する予定の……?」
「ああ。前回の件で行方不明のままだった内の、幾人かの行方が判ったと。その情報を教えるから酒に付き合えと要求している」
義勇からに伝えるにはたったこれだけで済む内容を、なぜああも長ったらしく書く必要があるのか。のことを可愛い仔犬ちゃんだの花のように愛らしい笑みだの水宝玉のような瞳だの、歯の浮くような修飾語がつらつらと並んでいる。義勇もも職業柄と生来の気質から言葉は端的に済ませる方だから、ここまで回りくどいと一種の暗号にすら思えてくる。今にも頭を抱えかねない義勇に、がオロオロと心配そうに眉を下げた。
「……お代わりをもらってもいいか」
「はっ、はい、すぐにお持ちします……!」
ひとまず甘味を食べて気持ちを落ち着けようと、給湯室に向かったを見送って溜め息を吐く。元々次の交流会にはを連れて行くつもりだったが、取り止めにしてあの男に待ちぼうけでも食らわせてやろうかと思うほどだ。とはいえ行方不明者の所在が交換材料である以上、あからさまに怪しくとも無視はできない。はああ見えて酒には強い方だが、当然一人で対面させるつもりはなかった。軍人以前にはうら若き乙女だ。酒の入る場で年頃の女を、本心か否かはわからないとはいえあそこまで開けっぴろげに好意を露わにする男の前に置いていけるものか。の養父である鱗滝にも申し訳が立たない。当日童磨が何を言おうと同席しようと、義勇は固く決意した。
「大佐、どうぞ」
「……ああ、ありがとう」
錆兎と真菰が白兵科の大隊長だったときは、の作る夜食は三人で争奪戦になったものだ。今二人は司令部にいるから、時折営内で会ったときに冗談半分に「羨ましいやつめ」と罵られる。とはいえ、二人は家での手料理が食べられるわけだからそれはそれで羨ましくもあるのだが。ほとんど毎日に夜食を作ってもらっているのに、それでも羨ましいなどと贅沢すぎる不満だろう。そこまで考えてふと、自分はの手料理を毎食でも食べたいのかと気付いて。いくら副官とはいえそれは甘え過ぎだろうと首を横に振った義勇は、今思い浮かんだことの底にある感情に気付いていなかった。ただ、どうしてかそう悪い心持ちではなかったと思う。
「……そうだ、少尉。竈門准尉が司令部勤務から白兵科に戻ってくることになった」
「! それは嬉しいです、いつ辞令が出ますか?」
「今月の末には間に合わせると副司令……悲鳴嶼准将がおっしゃっていた。竈門もこの秋には昇進が決まっているから、小隊を任せようと思っている」
元々白兵科だった炭治郎は、司令交代の以前から一時的に司令部付きとして白兵科から出向していて。交代後の忙しさで臨時勤務の期間が何度も延ばされていたものの、炭治郎とがそれぞれ直近の事件を解決したこともあり炭治郎や白兵科の希望が通る形になった。の功績でもあると言えば、は少しだけ複雑そうにしながらも照れたように俯く。はやはりあの事件を自分の手柄だと認められないようだが、義勇の言った通り結果は結果だと思うことに努めているようだった。
「お前のおかげで、竈門が戻ってくる」
「う……」
赤くなるを見て、自分で認められるようになるまで何度でも言おうと義勇は密かに決意する。部下の成長を促したい親心もあるが、半分以上は義勇の言葉に赤くなったり照れたりするが面白いと思う私情だった。の反応を見て遊んでいると、組織の面倒な男に関わる疲労など些末なことに思えてくる。しばらくあの面倒な男を口実にしてで遊ぼうと、小さな笑みを浮かべたのだった。
200510