「兄さん」
 呟くように小さな声で呼んでも、振り向いて目を細めてくれる。の兄の義勇は、優しいひとだ。優しくて、優しすぎて、息のしづらそうなひとだった。姉が殺されたとき、まだは物心つく前の幼子で。鬼が姉を殺したのだと口にした兄が諸共遠くの親戚にやられそうになったとき、兄は荷物でしかない自分を抱えて逃げてくれた。ただ重いばかりの、温もり。鱗滝に拾われたとき、にはひとつも傷が無かったのだそうだ。昔から兄はを姉の分も守り抜こうとしてくれて、だからこそあの日兄はの腕を折った。
 ――お前は戦うな。才能がない。
 剣士になったところで死ぬだけだと、兄に続いて剣士になるべく修行を始めたの腕を折った。帰って来なかった錆兎のことを思えば、理不尽だと恨むこともできなかった。あれは兄の優しさだった。が剣士を目指すことなどできないように、義勇はあらゆる煮詰まった感情を全ての腕を折るという行動で表してしまっただけなのだ。憔悴する鱗滝を支えたいという想いもあり、はしばらく狭霧山に留まることにした。やがて柱になり屋敷を与えられた義勇は、を鱗滝の元から引き取って。きょうだい二人で、静かに暮らしている。
(本当は、)
 義勇は、にいろんな習い事をさせてくれた。華も書も琴も好きなものをやれと言うし、道具も良いものを揃えてくれる。自分の身なりには無頓着なのに、の着物や化粧にはあれこれと気を遣って。まるで花嫁修業のようだと誰かにからかわれていたけれど、義勇はが兄の帰りを待つだけの日々に辟易としないか不安だっただけだろう。義勇は、を嫁に出す気などない。姉を包むはずだった白無垢が血錆の色に染まったあの日のことを、義勇は忘れていない。義勇は、ひとり残った肉親を失うことを恐れている。が白無垢を着た日に、姉のようにいなくなることに怯えている。
(何も要らないのに)
 小さな頃から、守ってくれた。どんなに辛いときだって、見捨てないで大切にしてくれた。兄が怖いと言うのなら、どこにも行かない。ただ生きているだけで、兄が安心するのなら。息を吸って吐くだけの生でも、身に余る贅沢だ。誰かに守られて生きているだけの生で、退屈だなどと言うわけもない。姉も友も守れなかった義勇が、唯一守れているものの象徴なのだろう。の生はそれでいい。兄に守られて繋がれている命だから、兄に使ってもらえるのならそれでよかった。
「兄さん、」
 が甘えるように抱き着くと、「お前はまだ子どもだな」と言って嬉しそうに笑ってくれる。義勇が喜ぶからずっと子どものままでいるのだと、は自覚もしていなかった。
 
200517
このシリーズのプロトタイプβ。
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