「、おはよう」
「おはよう、カナヲちゃん」
親しい人間と話しているときのは、吃音があまり無い。短い髪をさらりと揺らして笑顔を浮かべたに、カナヲも微笑んだ。「前」は藤の君とあだ名されるほど藤色を纏っていたは、今も耳元に藤の髪飾りを揺らしている。は義勇のことも義勇から与えられたものも全て好きで大切にしていたから、の周りはまた藤色に溢れていた。今度は義勇が植えた藤の花は、町内でも有名になるほどの美しさを誇っている。義勇と一緒に藤の世話をするのが、の幸せのひとつらしかった。
「、今日の体育は球技だから気を付けてね」
「うん、ありがとう、カナヲちゃん」
には、生まれつき左腕が無い。それを知ったときの胸のざわめきを、カナヲは忘れられない。左腕を持たずに生まれ、疎まれ、施設に入れられたところを義勇が見つけ出した。ある程度の動作が可能な義手と、容赦のない義勇の訓練のおかげでは普通の学生として生活を送る分にはほとんど支障がないほどだ。けれど、カナヲはが心配だった。の腕は、あの鬼の腹に呑まれたまま。そんな想像が、頭を過ぎるのだ。くだらない想像だと、全身を喰われたしのぶは今ここで五体満足で生きているではないかと、否定をする自分はいる。それでも、あの鬼がの腕を抱えたまま離さないような、そんな怖気のする想像を抱いてしまうのだった。
――あなた、誰を食べたの。
カナヲの問いに、あの鬼は。
――大好きな子を食べたんだよ。
そう、恍惚とした顔をして答えたのだ。余さず喰らいたいほど愛していると。けれど、一緒にいたいからそれは我慢したのだとか。鬼にしてあげるからきっと腕は大丈夫だとか。そんな身勝手なことばかり、あれは言っていた。この世界ではまだ、あれには遭遇していない。けれどいつかあの男が現れるとしたら、この何も知らない友人にまた危害が加えられるかもしれない。最期までに執着を見せていたあの男にの幸せを壊させまいと、カナヲは密かに決意していた。
「、」
職員玄関から生徒玄関という僅かな距離でさえ、を一人にさせないようにと駆け付けてくれる義勇。を引き取って家族にしてくれた当初から、義勇はいつもを大切にしていてくれた。過保護ではないかと思ったことがないと言えば嘘になるが、実際に一度は連れ去りに遭いかけたことがあるのだそうだ。はもう覚えていないくらい昔のことだったけれど、義勇の心配を無下にするではなかった。にとっての一番はいつだって義勇だから、義勇の言うことを信じて従うし、心配されれば大切にされていると感じて嬉しいのだ。どうして縁もゆかりも無い子どもを見つけ出して助けてくれたのか、は知らない。義勇が語らないのなら、知る必要はないのだと思った。は義勇といられて幸せだ。義勇と家族になれたから、毎日笑って過ごすことができる。幸せな生活も義手も人並みの感情も、全部義勇が与えてくれた。こうして義勇に手を引かれて帰る時間が、自分でも不思議なほど愛おしく思えて。義勇と手を繋ぐのは、ひどく安心する。あの日の手を引いて外の世界に連れ出してくれた日から、義勇はの安心だった。
「義勇さん」
が呼べば、小さく首を傾けて視線を合わせてくれる。話すのが下手なの話を、目元を和らげて聞いてくれる。兄妹とも親子とも言い難い不思議な関係だったけれど、は義勇のことが大好きで、大切で。こんな日々がいつまでも続けばいいと、そう願ったのだった。
191008