、機嫌がいいの?」
「うん」
 カナヲのゆったりとした問いかけに、は静かに、けれどそれはもう幸せそうな満面の笑みで頷いた。珍しいな、とカナヲは思う。内気であまり感情を顔に出さない友人がこうしてずっとニコニコしているのも、それが「今日」であることも。終業式を控えた体育館のざわめきの一部は、今日もしっかりとたちの耳に届いていた。
「冨岡先生、スーツかっこいいね」
「今日みたいに式の日しかスーツじゃないから、ギャップがすごいよね」
 普段見慣れない義勇のスーツ姿に、高揚を隠しきれない女子生徒たちの囁き声。は大人しそうに見えて嫉妬深いから、こういう日は大抵ぷくっとヤキモチで頬を膨らませているのだ。無論カナヲはがむくれているより笑顔でいてくれた方が嬉しいから、その心底嬉しそうな笑顔は純粋に微笑ましく思うのだが。妬くことを忘れるほどの良いことがあったのだろうかと首を傾げるカナヲに、はニコニコと笑ったまま理由を話した。
「今日は義勇さんのネクタイ、私が締めたんだ」
「そうなの?」
「うん、私のネクタイも、義勇さんが締めてくれて」
 学校では表立って使わない『義勇さん』という呼び名が出てくるほど、それはにとって嬉しいことだったのだろう。こっそりと内緒話のようにカナヲの耳に口を寄せたの笑顔は、カナヲから見ても可憐だ。お互いのネクタイを結び合ったという嬉しい出来事があるから、はすっかりヤキモチを遥か彼方に追いやれたらしい。皆がかっこいいと持て囃す義勇のスーツ姿に対するの小さな優越感は、可愛らしくていじらしかった。

 カナヲにも内緒の、義勇との嬉しい秘密がもうひとつある。式典やら何やらでスーツを着る日の義勇は、家に帰ると「好きなようにしていい」と甘やかしてくれるのだ。が抱き着いても、膝の上に座っても、されるがままでいてくれる。それはいつものことではあるのだが、せっかくのスーツが皺になるのも構わないと。それを許してくれるのは、義勇がの子どもじみた嫉妬を理解して慰めようとしてくれるからで。義勇のスーツ姿にこっそりスマホを向けてカメラに収めた女子生徒のことも、こうして直接触れられるのは自分だけだと知っているから嫉妬を飲み下せる。どうしようもない独占欲と優越感。これはきっと「きたない」感情だと思うのに、そんなを義勇は「可愛い」と言ってくれる。それはとても幸せなことで。
「……がスーツの俺を好いているなら、もっと着た方がいいのか」
「ちがうんです、義勇さん」
「?」
「特別だから、嬉しいんです」
 義勇の特別な姿が嬉しい。義勇に特別に許されているのが嬉しい。二重の意味を込めて、カッチリとした襟元に頬を擦り寄せる。が嫉妬をすることさえも特別な睦み合いへの時間へと変えてしまう義勇の懐は、いったいどれだけ深いのだろう。自分が結んだネクタイをそっと撫でたの緩んだ頬を見下ろして、義勇はに気付かれないよう眉間に皺を寄せた。は自らの嫉妬を醜いと思っているらしいが、そんなものは可愛いくらいだ。の嫉妬にかこつけて、義勇は自らの独占欲を満たすためにその首に手を回した。白くて細い首に触れるために、その可愛らしいヤキモチを言い訳にした。に触れたいという欲求を満たすわけにはいかない「大人」だから、が触れていたいのだという逃げ道を作って触れさせている。どこまでも真っ直ぐで素直なの気持ちに応えるという形で自分の欲求を満たして囲い込んでいる義勇の方が、よほど。義勇の特別でいられることが何よりも幸せだと笑うこの綺麗な生きものの視界に、自分だけが映っているという優越感。装いを変えるだけで、それを独占させるだけでが自分のことを見ていてくれるのなら、いくらでも。そう思うほどに、義勇はを抱え込んで離さずにいたいと願っている。まだ、義勇から手を伸ばして捕まえることはできないから。に捕まえていてもらわなければ困るのだ。
「もう少し、こうしていてもいいですか?」
が望むのなら」
 が大人になって、義勇から手を伸ばすことが許されるまで。少なくともそれまでは、に望んで触れていてもらえるように。シャツに皺を寄せる小さな手に、そっと自分の手を重ねたのだった。
 
191130
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