「おい、誰だテメェにノート運ばせた馬鹿は」
「え、えっと、自主的に……」
「馬鹿はテメェか」
スパン、と小気味良い音が職員室に響く。片腕が義手のくせにそれなりの重さのノートをひとりで運んできた馬鹿な生徒に、実弥は深々とため息を吐いた。いくら誰もやりたがらない(担当教諭が実弥だから)数学係を善意で引き受けたからと言って、ノートを運ぶことくらい他の生徒の手を借りればいいだろう。普段つるんでいる胡蝶の一番下の妹はどうしたのかと尋ねると、他の先生に呼ばれていなかったのだと答えた。
「テメェのクラスメートは薄情だなァ」
「ち、ちがいます、不死川先生がこわいから、みんなに無理に頼むのも申し訳なくて……あっ」
「……相変わらず馬鹿正直だなテメェはよォ」
職員室に再び、スパァンと響いた平手の音。それだけ図太ければ確かに片腕のハンデもものともしないのだろうと、実弥は鼻を鳴らした。
「こ、これでも鍛えてますので、ノートくらいはひとりで運べます……! 冨岡先生だってきっと、」
「冨岡が何だってェ……?」
義勇もきっと、必要以上に甘やかす必要はないと言うだろう。そう言おうとしたが、ギロリと睨まれて「ひぇっ」と小さな悲鳴をあげる。そういえば実弥は義勇と仲が良くないのだったと慌てて口を抑えたの前で、実弥は黙ってパラパラと提出物の山からのノートを探し出して捲り始めた。
「……おい、また間違えてんじゃねェか」
「えっ」
「授業で聞いたことをプールに流すンじゃねェっつったよなァ、俺はよォ」
「ぅ……は、はい」
「補習だ、放課後教室に残ってろォ」
実弥が告げた言葉にショックを受けたような顔で、それでも大人しくは頷いて職員室を後にする。義勇が顧問を務めている水泳部の活動に参加できないことが残念なのだろう。それでも自分の頭が悪いのが原因だとわかっていて大人しく補習を受けるだけ、この学園では充分良識的な部類に入るのだが。ふと視線を感じて顔を上げると、義勇が物言いたげな顔で実弥を見ていた。
「文句あんのかァ」
「……いや、助かる」
「…………」
「不審者の件の懸念もあるんだろう」
生徒には未だ周知されていないが、ここ最近学園周辺で不審な人影が目撃されている。特に義勇が顧問の水泳部は不人気で部員が少ない分、施設の広さに対して人の目が少ない。近々教師たちで見回りのチームを組む話も上がっているが、それまで何と言ってを人気のないプールから遠ざけるか悩んでいたのだろう。
「……勝手に都合良く解釈してんじゃねェ」
「俺にとっては都合が良かった」
それはともかくあの馬鹿の頭の悪さをどうにかしろと舌打ちをして、実弥は義勇から目を逸らす。本当に、腹が立つ。実弥の目の前で死んでおいて、何事もなかったかのように相変わらず義勇に尻尾を振って生きているあの女にも。何もあの女に教えずにいるくせに、過保護を拗らせているこの男にも。絶対に文句のひとつでも言ってやると決めた実弥のあの苦い気持ちは、どこにやればいいのか。それでも確かに目の届く場所で無事でいてほしい気持ちだけは本当で、それを義勇が見抜いているのが腹立たしい。他の補習対象もリストアップしなければと、が運んできたノートに手を伸ばしたのだった。
200131