「誰彼構わず、優しくするな」
 長兄は眉間に皺を寄せて言った。
の好きにするのがいちばんだよ」
 次兄はこちらを見もせずに苦笑した。
「誰にでも優しくできる強さを持て」
 三兄は、静かに笑っての髪を撫でた。

 思えばは物心ついたときから、ほとんどアグロヴァルの傍を離れたことがない。幼い頃から神童と謳われ今は未来の名君と期待される長兄は、けれどから見ればとてもちぐはぐな人物だった。「強くあれ」とに攻撃の魔法ばかりを覚えさせるのに、「我の目の届かないところへ行くな」とを守れないことを恐れる。果てにはの足を包帯でぐるぐるときつく巻いてしまったものだから、は外を自由に駆け回ることもできなかった。
「アグ兄はこわがりなんだよ」
 ウェールズの城で一番背の高い木。見晴らしの良い枝にを連れてきてくれたラモラックは、けれどの顔を見ようともしない。顔を背けたまま、それでもが落ちないようにと魔法の風で支えてくれている。の兄たちは皆、を前にするとどうにもちぐはぐになってしまうようだった。
「こわがり?」
「そう。アグ兄はこわがりで、ボクは卑怯者。それで、パーシィは夢見がち」
「? おにいさまたち、みんなかっこいいですよ?」
「……は少しおばかさんかな」
 ちらりと、ラモラックがの足を見下ろす。小さな靴に押し込められた、包帯でぐるぐる巻きの年齢以上に小さな足。あんなにしてしまっては、の足は自らの体重を支えられるほど大きくなれないだろう。それでもラモラックは、その戒めを解いてやれなかった。
 ――何してんのさ、アグ兄。
 あの日、小さな妹の足を一心不乱に包帯で縛り付けていたアグロヴァル。ラモラックの声に顔を上げたその、ぽっかりと開いた赤い虚ろ。あの瞳が恐ろしくて、ラモラックはの足について見て見ぬふりをしている。
「良いお兄ちゃんじゃないよ」
「でも……」
「良いお兄ちゃんじゃない」
 吐き捨てるように、ラモラックは言う。その言葉の意味が理解できないはやはり、愚かなのかもしれなかった。

「まるで、ヘルツェロイデ様がお戻りになられたよう」
 が少女と呼ばれる年頃に差しかかると、年長の侍女や家臣たちは口々にそう言った。今は亡きヘルツェロイデが、子供の頃の姿で戻ってきたようだと。そう言って、喜んだ。
「きっと様は、ヘルツェロイデ様によく似たお美しい方になります」
 年配の侍女に連れられて、亡母の肖像画を見に行った。よく磨かれた額縁の内側で慈愛を湛えた笑みを浮かべる、儚げな女性。少々お転婆のきらいがあるには、その舞い散る花のようなたおやかな美しさは親近感よりむしろ憧憬の対象だった。似ていると言われても、いまいちピンとこない。それでも、の後ろ姿を見た父が息を呑む音だとか。の髪型をこの肖像画のそれと揃えてみては幸せそうで辛そうな顔をする長兄だとか。には実感を持てずとも、母を知る人の目にはは母によく似て映るらしい。それを煩わしく思ったことなどなかったが、母の面影を求められることがの人格形成に少なくはない影響を与えたのは否定できなかった。
「おかあさまは、どのようなお方だったのですか?」
「あら様、鏡をお持ちいたしましょうか? 中を覗けば、小さい頃のお母様にお会いできますよ」
 ころころと朗らかに笑う古株の侍女に、はぷうっと頬をふくらませる。には母親の記憶がない。ウェールズが戦乱に巻き込まれる少し前に生まれたは、乳母と共に先んじて疎開させられていた。だから母の為人は誰かに聞いて知るほかなく、父や兄たちを深く悩ませる母の死についても、伝聞でしか知らなかった。
「お優しい方でした。誰にでも分け隔てなく接して、公平で、高潔で、穏やかで」
 母の愛を知らないを、兄たちは憐れむ。けれどは、自分は母の愛を知っていると思う。ウェールズを愛し、人を愛し、家族を愛したヘルツェロイデ。母が愛した人たちは、皆を愛してくれる。ヘルツェロイデの愛した娘だからと、優しい愛を与えてくれる。母の生きた証が、母の愛が、人を巡ってを慈しんでくれている。だからきっと、は母の愛を知っているのだ。ヘルツェロイデの体はもうどこにも無くとも、を撫でるパーシヴァルの手にも、を抱き上げるラモラックの腕にも、と繋がれたアグロヴァルの手にも、ヘルツェロイデの愛は息づいている。だからはきっと愛そう。亡き母の愛した全てを。ウェールズを愛し、人を愛し、家族を愛そう。亡き母を想う気持ちはきっと、空の彼方にも届くはずだ。
、ここにいたのか」
「おにいさま、」
「あら、アグロヴァル様」
 侍女の膝に乗せてもらっていたを見て、アグロヴァルは些か呆れたような顔を見せる。「お前はどうにも甘えたなところがあるな」と言いながらひょいっとを抱き上げたアグロヴァルに、侍女はふふっと笑った。
「アグロヴァル様たちがたいへんに可愛がっていらっしゃいますから、様も自然と愛嬌のある御方になるのではないかと」
「……知らず甘やかしていたか」
「甘やかすくらいで、今はちょうどいいのではないでしょうか。様はまだお小さいですし……おみ足も不自由ですから」
「ふじゆう?」
「大丈夫ですよ、様。私たちウェールズの民は皆、様の足にも腕にもなりますから」
「……そうだな。我が妹が世話になった」
「いえ、またいらしてくださいな。様の健やかなお姿が、この婆の唯一の楽しみですから」
 皺の刻まれた手をひらひらと振って、侍女はに別れを告げる。手を振り返したを仕方なさそうに見下ろすアグロヴァルの表情は、葛藤を抱いているようにも見えた。
アグロヴァルとラモラック以外は皆、の足は「制御できない魔力が溢れ出しているせいで凍り付いている」と、そう思っている。実際アグロヴァルが氷で固めてしまったのだから、それを疑う者もいない。自身ですら、アグロヴァルのその言葉を信じていた。アグロヴァルはの魔法の教導者であったし、も事実氷の魔法を得手としていたからだ。
 ――どうして、こんなことするのさ、
 弟の言葉に答えるすべを、アグロヴァルは持たない。アグロヴァルすら、自分が何をしたいのかよくわからないままに小さな妹の健常な足を奪った。許されることではないと、知っていた。けれど、そうせずにはいられなかった。いつか本当のことを知ったとき、この可愛い妹から向けられるであろう憎悪を恐れながら、それでもアグロヴァルはを狭い世界に閉じ込めている。赤い髪が翻るたび、そのままいなくなりそうだと思えてしまって仕方なかった。
「……あまり、民に心を傾けるな」
「?」
 母譲りの優しい心を持っていると知っていて、どうしてもそう言わずにはいられない。はアグロヴァルに残された、人の善性の唯一の在処だ。あの日と同じ結果がにまで訪れれば、その時こそアグロヴァルは人の全てに絶望するのだろう。
、人は弱い。愚かで醜く、その本質はどうしようもなく悪だ。お前がどんなに人を愛しても、いつか誰かはお前を裏切る」
「……? おにいさま、ごめんなさい、おっしゃることがむずかしいです」
「愛する者は選ぶべきだ、ということだ」
「でも、みんなすきです」
「何故、」
「おかあさまがすきだったみんなが、わたしをすきでいてくれます」
 どうして末の妹は、こんなにも愚かで。弱くて脆くて、それなのに愛しくて。悲しいほど、母に似ていて。だから余計に不安になる。この妹は、きっと母と同じ道を歩む。人を愛し、人に愛され、そして最期は、愛したはずの人間にその命を奪われる。
「……そのようなことは、あってはならない」
「おにいさま?」
「あってはならぬのだ、もう二度と」
 小さな妹を、ぎゅっと抱き締める。あの日温度を失くした母が、世界が、残したぬくもり。かつて人の醜さを目の当たりにしたアグロヴァルにとって、に見える世界は認めがたいほどに眩しすぎたのだった。
 
181025
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