「時に殿は、社交界には出られないのですか?」
 ふとそんな声が窓の外から聞こえてきて、は筆を動かしていた手を止める。異国の騎士団へ修行に出ているパーシヴァルに宛てた手紙にインクがつかないように万年筆を置くと、そっと外の様子を窺った。
「母君に生き写しの、お美しい方であると噂になっていますよ。きっと引く手あまたでしょうに」
 にこやかにアグロヴァルに語りかけているのは、古くからウェールズ家と付き合いのある貴族だった。そういえば今日は客人が来るからあまり出歩かないようにアグロヴァルに言われていたのだったと思い出して、はアグロヴァルに見つからないようにとさっと窓枠の下に身を隠した。別段何か叱られるというわけでもないのだが、客人に向けられたアグロヴァルの笑みがあまりにも冷ややかだったのだ。
「そのように噂になっているのであれば耳にしていると思うのだがな、我が妹は足が不自由なのだ。社交の場に出ることはあるまい」
「そうですか……それは惜しいことですね。ところで、妹君に縁談のご予定は?」
「あれはまだ幼い。社交界に出るとしても早いほどだ」
 兄と客人の声は、次第に遠ざかっていく。は、包帯に包まれた自分の足をそっと撫でた。幼い頃氷に覆われて大きくなれなかった足は、今でも白い布の下に凍傷の痕が残っている。年頃の娘の足としては、あまり美しくないだろう。アグロヴァルはきっと、が傷つかないようにと守ってくれているのだ。社交界にも縁談にもさほど興味はなかったが、容姿への関心はとて人並みにある。兄や父の元で魔法の研究に励む毎日に不満などなかったが、のことでああして兄を煩わせるのは本意ではなかった。ひとりではうまく歩けず、時折転んでしまうこともある。舞踏会や社交場など、夢のような話だろう。アグロヴァルがのために誂えさせてくれた靴に指先を滑らせて、は自分の未来に思いを馳せた。
足が悪くとも、には魔法がある。だからきっと、どこにだって行ける。できることだって、きっとたくさんある。ラモラックのように、あちこちを旅をするのだっていい。もっと勉強をして、ウェールズに尽くせる人間になるという道もある。ただちょっと、一般的な貴族の子女のようにはいられないというだけだ。それだって、特別強い憧れがあるわけではない。だから別に悲しいとは思っていないはずだった。ほんの少し、眉を顰めたアグロヴァルの表情が寂しかっただけだ。アグロヴァルは、を大切にしてくれている。だからこそ、重荷に思われていたらなんて馬鹿な不安だとわかっていても、兄の邪魔になることが怖かった。
「…………」
 ぺち、と自分の頬を軽く叩く。自分自身の足を重荷だと思っているから、きっとこんなことを考えてしまうのだ。父も兄も、ウェールズの誰も、を疎んだことはない。勝手に不安に囚われていては、大好きな人たちが悲しんでしまうだろう。
しっかりと足に力を入れて立ち上がり、書きかけの手紙を引き出しに仕舞う。今日は庭師の仕事を見せてもらいに行こうと、はスカートの裾を翻した。

「……何をしている、
「あっ、お兄様!」
 妹が部屋にいないことを訝しみ城内を探し回っていたアグロヴァルは、土埃に塗れて草木の世話をする妹を見つけて眉間に皺を寄せた。慕う兄の声にぱあっと顔を輝かせて振り向いただったが、アグロヴァルの表情を見てハッと頬についた土を落とす。今更な隠蔽工作にアグロヴァルが黙って腕を組むと、はバツが悪そうにもじもじと指の先を合わせた。
「そ、その、お兄さま……」
「なんだ」
「こ、今年は薬草の質が良いそうなんです」
「言いたいことはそれか」
「ご、ごめんなさい!」
「……まあ良い。愚妹が世話になったな、爺や」
「滅相もございません、アグロヴァル様。この殺風景な薬草園に、可愛らしい花が咲いてくださったのです。草木も浮かれるというもの」
「わあ、おじいちゃんお上手、」
「軽口を叩いている場合か、愚妹よ。我が何と言ったか、忘れたか」
「えー、えーと……その、お外を、出歩くなと……」
「具体的には部屋から出るなと、言ったはずであったが?」
「……申し訳ありません」
 すっかり忘れて庭師の手伝いに没頭していたは、しゅんと肩を落としてアグロヴァルに頭を下げる。のことをあのように噂していた貴族の目についたら、アグロヴァルは更に面倒な話に煩わされていただろう。考えなしだった、としょんぼり俯くの赤い髪が、さらりと揺れて。思わずその髪に手を伸ばしたアグロヴァルは、妹の髪に影がかかる前に手を止めた。頭を撫でる代わりに、小さな体をひょいっと抱き上げる。半ば這うようにして薬草畑で動き回っていたのであろう、掌も膝も見事に土に塗れている。アグロヴァルの視線を追ったはわたわたと手や膝の土を払い落とすが、やはり今更である。幼い故の愚かしさが、しかし唾棄できない。庭師を改めて労ったアグロヴァルは、を抱えて踵を返す。アグロヴァルの腕の中から元気に庭師に手を振って礼を告げるは、相も変わらず人を愛していた。

「……あの、アグロヴァルお兄さま、」
「どうした?」
「これ……私が子どもみたいです」
「子どものくせに、何を言う」
 の足を、自らの足の上に置いて。腰に手を回し、手を取って踊るアグロヴァル。さながら幼児に舞踏を教えるような格好に頬を赤くして抗議するだったが、アグロヴァルは鼻で笑った。ぷうっと頬を膨らませるを見下ろし、「やはり子どもではないか」と愉しそうにまた笑う。自分の振る舞いが子どもっぽいのも、兄に子ども扱いされるのも仕方ないとも解っていたが、なんだか釈然としない。それでも、兄に手を取られ踊るのは楽しかったし嬉しかった。てっきり叱られるのかと思ったが、アグロヴァルはがあの会話を聞いていたことを知っていたのだろうか。窺うようなの視線に気付かないのか気付いていないふりをしているのか、アグロヴァルはの腰に手を添えてくるりと回った。
「……我もこうして、母上に手ほどきを受けたものだ」
「お兄さまが、お母さまに、ですか?」
「ああ。立派な紳士になって……パートナーに恥をかかせない男になれと言われた」
「お兄さまがパートナーに恥をかかせるなんて、想像もできないですね?」
「なんだ、もう拗ねるのは良いのか?」
「……あっ」
「お前は時々、少し足りぬな。抜けていると言うべきか」
「うう……」
 さらりと翻る赤い髪と、くるくると変わる表情。ラモラックに散々聞かされた忠告が頭をよぎる。「は母上じゃないよ」、そんなこと言われずとも解っている。だからこそアグロヴァルは、を守ってやりたいのだ。人は醜く愚かで、その根本は悪しきものだから、アグロヴァルはを守らなければならないのだ。この世で一番醜悪で悪辣な者になってこそ、きっとの綺麗な未来を守れる。誰かのための世界など存在しないことを知っているからこそ、のために優しい世界を作ろうと思える。強い国を、平和な国を。悪しき性を抑えることのできる、強い心をもった民たちが育つ国を。こんなちっぽけで弱い生き物が笑って生きられる場所を築けたならきっと、アグロヴァルは自分自身を許せる気がするのだ。あの日何も救えなかった、ただ弱かっただけの自分を。
、お前は……」
 そっとを引き寄せた兄は、何かを言いかけて黙り込む。首を傾げたの手を引いて、小さな妹をリードしたまま優雅にステップを刻む。説教を覚悟していたは兄の戯れにきょとんと間の抜けた顔をしていたが、それでも楽しそうに頬を緩めて身を委ねていた。
「お前は、社交界に出たいか」
「いいえ、そんなに」
「……貴族の子女として、そこに即答するのはどうなのだ」
「あっ」
 しまったという顔を隠さないに、そうは言ったもののこんなにもわかりやすくては社交界など向いていまい、とアグロヴァルは微妙な顔をする。元より片っ端から民の仕事を見て回っている変わった令嬢なのだ、そしての答えに安堵している自分もいた。
(もし、足が不自由でなければ)
 は『風変わりなおひいさま』にはならなかったのだろうか。必死に自分にできることを探すこともなく、生きる道に悩むこともなく、ありふれた幸せな生を歩んで。母のように優雅でたおやかに成長して、貴族らしくも優しく慈しみに溢れて、そして、
(死ぬのか)
 ぞわりと、背筋を氷が伝い落ちたような錯覚が襲った。母親の面影を求めながら、母親とは違う存在になることを願っていた。あんな不条理な死に見舞われることのないように、そう願っていただけのはずだったのに。アグロヴァルは今でも、あの日の足を凍り付かせた自分を正当化できる理由を探している。
の真っ当な幸せを願うなら、さっさと嫁に出してしまえばいいのだ。の令嬢らしからぬ行動力を個性と認め慈しみ、その足のことも受け入れて幸せにできる男はきっと、どこにだっている。ヘルツェロイデとは異なる形ではあるが、はきっと良き妻にも良き母にもなるだろう。明朗快活で聡明で、才知に長ける努力家だ。お淑やかな深窓の令嬢を押し付けるような愚鈍な夫でさえなければ、きっとは上手く家を盛り立てていくだろう。ウェールズで何かにつけ亡き人に重ねられるより、遠い地で自らの役目を見つけた方がきっと幸せだと。アグロヴァルがその最善を選べないのは、ただの我儘だった。
「……お兄さま?」
「なんだ」
「悲しそうなお顔をされてます」
「……お前の物言いは少し、直裁的過ぎる」
 単純が故の、遠慮のなさ。思慮が浅いわけでもないのに、躊躇いなく心に触れる真っ直ぐな幼さ。アグロヴァルはより遥かに自身の感情の制御に長けている。それなのにアグロヴァルの隠した感情の一片を掴んだを、思わず抱き締めそうになった。誤魔化すように、くるりと回る。きっとにとってもアグロヴァルが特別だからだなどと、そんな期待を抱いてはいけないと自戒した。特別に決まっている、アグロヴァルはにとって大切な兄なのだから。パーシヴァルやラモラックと同じように、特別に大切なのだ。そこに、アグロヴァルと同じ熱はない。
「社交界より、お兄さまとこうして踊っていたいです」
「……そうか」
 はにかんで笑った妹の言葉に、アグロヴァルはふっと笑みを浮かべた。同じ意味ではないと、知ってはいても愛おしかった。
アグロヴァルは、に恋をしている。道ならぬ恋情を抱き、必死に家族愛の下に隠している。どうしてこんな愚かな感情を捨て切れないのかと、悩みながらも手放せずに。氷のようだと評される表情はむしろ都合が良く、けれどその厳格な兄の心情に容易く触れてしまうのことが恐ろしくもあった。こんな歪な恋情を知ったら、はどんな表情をするのか。それを考えるほどに、何故という疑問ばかりが自身を苛んだ。何故、恋だなどという感情にこの家族愛を貶めてしまったのか。どうして、綺麗な心のままでいられなかったのか。きっとアグロヴァルは良き兄でいられたはずだった。母の面影を残す少女を、真っ当に愛してやれたはずだった。それなのに、何故。
 ――が、笑ったから。
あの日アグロヴァルは苛立ちに任せて、まだ言葉もわからない小さな妹の足を凍らせたのだ。そんなつもりはなかった、そんなことは言い訳にもならなかった。母親が死んだことも知らずに、安全な場所でかしましく泣く赤子を見下ろして、ふつふつと苛立ちが湧き上がってきて。それはあまりにも理不尽な苛立ちだった。ただの八つ当たりだった。母が死にゆくときに何もできなかった自分を許せない怒りを、何も知らない妹にぶつけた。最低の、行為だった。
衝動に任せて乱暴に掴んだ足は見る見るうちに凍てつき、赤みさえ差していたはずの頬が真っ青になって。そうしてアグロヴァルは、やっと我に返ったのだ。動かなくなった妹を必死に暖めて、肌を摩り、抱き締めて。ようやく瞼を動かした赤子は、アグロヴァルの指を掴んでふにゃりと笑ったのだ。その無垢な笑みは今も変わらず、アグロヴァルの胸を突き刺す。間抜けな笑顔を浮かべて、アグロヴァルに頬を擦り寄せるその生き物に縋ってしまった。その執着は今も、の足を掴み続ける。アグロヴァルが凍りつかせた、小さな足。あの日からずっと、アグロヴァルはの足を凍らせ続けた。死なないように、腐り落ちないように、それでも、駆けることのできないように。離れていかないように。アグロヴァルの心を掴んだその笑顔が、どこにも行かないように。祈るような気持ちで縛り付けた足を見たラモラックは、アグロヴァルを責めながらもその罪を晒さなかった。健常に成長できなかった足は、アグロヴァルの残した傷に覆われていて。馬鹿なことをしてしまった、取り返しのつかない罪を犯した。それなのに、贖い続けることに満たされる愚かで醜い自分がいる。
(どうか許してくれるな)
 はきっと、本当のことを知ってもアグロヴァルを許してしまう気がする。贖えと、償えと、責め立てられたい身勝手な気持ちがずっとそれを恐れていた。憎んで、恨んで、アグロヴァルだけをその瞳に映してくれたなら。きっとこの気持ちは救われる。つまらない欲で肥大化してしまった愛を、裁いてほしかった。
、お前に夜会のドレスを仕立てよう。それに、ヒールのない靴も」
「……? お兄さま、私には要らないのでは、」
「我とふたりの夜会だ、お前はまたこうして踊ればよい」
 アグロヴァルの言葉に、がぱあっと顔を輝かせる。この笑顔を独占したくて、尽くしたくて、優しくしたくて、贖いたくて、償いたくて。ただアグロヴァルの元で幸せになって欲しいという、我儘。母親に償いたかった気持ちの受け皿にするような、馬鹿な想いだ。それでも、はアグロヴァルの贖いに報う。愚かな善性が、皮肉にもアグロヴァルを救う。愛恋の情がある限り、きっとこんなにも無垢に美しくは笑えまい。アグロヴァルに向けられた表情はそう思ってしまうほどの、優しい笑顔だった。
 
181130
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