「パーシヴァルお兄さま! おかえりなさい」
「……ただいま、」
黒竜騎士団から与えられた休暇でウェールズに帰ってきたパーシヴァルを真っ先に出迎えたのは、パーシヴァルと同じ色の髪をふわりと翻した妹だった。国境近くまで勝手に出歩いて長兄に叱られはしないかと心配したのは昨年の夏の話で、ちらりと視線を向けた木立の影では案の定近衛兵がパーシヴァルに敬礼をしていた。どうにもマイペースなところが一番強く母親から遺伝したらしい末妹に対し、あれやこれやと行動を縛り付けるのは愚策だと解り切っているが故のアグロヴァルの命令だろう。足の不自由さなど感じさせない身軽さで文字通り飛び回る末の姫の、監視兼護衛だ。とはいえもアグロヴァルの庇護の元での自由ということは理解しているようで、護衛の目を欺こうとしたり目的もなく城外に出歩いたりはしない。文字通り箱入り娘であるの、たまの息抜きであるようだった。
「お前は年々、よくわからない方向に器用になっていくな」
「色々と便利ですよ? それにきっと、お兄さまが走るよりも速いです」
風の魔法を使いこなしパーシヴァルの荷物をふよふよと浮かせる妹は、そのまま宙を泳ぐようにパーシヴァルの隣に並ぶ。城まで魔法で飛んで行くかと訊かれたが、道中を見て回りたい気持ちもあり断りの言葉を返す。小さい妹に抱えられて帰るというのも、単純に情けない気がした。
「兄上には許可をいただいて出てきたのだろうな」
「えっ? 護衛の騎士さんに言伝を頼みました」
「まったくお前は……」
「だって、先日お兄さまからのお手紙が来たときに、迎えに行ってきますって言いましたよ? それにアグロヴァルお兄さまの許可がなければ、護衛の騎士さんがだめって言います」
「それでも直接許可は取れ!」
「あいたっ」
ぴしっと額を弾くと、重心を崩したの体が大きく傾いだ。内心焦ったが、すぐにくるりと体勢を立て直したことに安堵する。は兄弟のうち誰に最も似ているかといえば、性格や振る舞いの点ではラモラックに違いなかった。お気楽で呑気に振舞っているようでいて、胸の奥には譲れぬ意志や信念を秘めている。ただ少し、形式や儀礼的なものを疎んでしまうのだ。は、アグロヴァルが本当に禁ずれば窓枠に手をかけることすら許されないであろうことを知っている。アグロヴァルが許していなければ、城を抜け出そうとした瞬間に近衛兵たちに拘束されているだろう。にどんな魔法があろうと、兄の命令で動く騎士たちをが傷付けられるわけもない。それにウェールズの近衛兵たちは、小娘の魔法だけで圧倒されるような弱兵ではない。許されているからこそ自由に振舞っていられるのだと、はよく解っていた。その上で監視の兵に言伝など頼むのだから、図太く育ったと言うべきか。守られているということを理解しながらも奔放に振舞ってみせるの腹の底には、どのような感情があるのだろう。ラモラックなら、それを解ってやれるのだろうか。何となくだがアグロヴァルは、の感情の底を知っていないような気がした。そしてそれはきっと、自身ですら解っていない。
「パーシィお兄さま、また騎士団のお話を聞かせてください!」
無邪気に笑う妹が母親に似ているのはきっと、容姿だけだ。ぞっとするほど似ているけれど、中身はまるで別人だ。それでいいと、それがいいと思う。パーシヴァルは母としてのヘルツェロイデしか知らず、妹としてのしか知らない。だから二人を、重ねることはない。きっとそれでいいはずなのだ。
「私もいつか、フェードラッヘやダルモアをこの目で見てみたいんです。お兄さまみたいに、修行に出してもらえればいいなって」
「お前は走り込みができないから、無理だろうな」
「でもアグロヴァルお兄さま、強くなれっておっしゃるんです。最近はますます容赦がなくて」
「マナリア学院にでも行ったらどうだ? 確か一度あの学院から、兄上が講師を呼んだことがあっただろう」
「私もそう思って、遊学のお願いをしたんですよ? でも、お父さまのお許しが出なくて」
「父上はに対しては心配性だからな。残念だが、仕方ないとしか言いようがあるまい」
二人並んで街道を進みながら、ふとパーシヴァルは思う。父の反対で話が流れてしまった遊学に、アグロヴァルは賛成していたのだろうか。それを問おうにも、の話はもう既にウェールズでの魔法研究の話に移っていた。アグロヴァルが様々な研究者を招聘してくれたおかげで魔法を学ぶことには困らないと、とても生き生きとした表情で語る。楽しげな妹の様子に、パーシヴァルの口元も知らず綻ぶ。物心ついた時には既に母は亡く、足も不自由で歩くことも儘ならなかった小さな妹。けれどはきっと、胸を張って幸せだと言うだろう。それがパーシヴァルには、とても喜ばしいことだった。境遇に負けることなく、自分の歩める道を懸命に探し進む強さ。支えられ守られることに感謝を忘れず、自分もまた支え守る側に成長しようとする想いの眩しさ。幼いが真っ直ぐな志を抱く妹を、パーシヴァルは誇りに思っている。贅沢を言うならもう少しばかりお淑やかであれば良かったとも思うが、健やかに育つことが何よりだろう。何しろは、あまりに亡母に似すぎているのだ。
(既に縁談が山と押し寄せているらしいが)
知らぬのはばかりだ。美しく気品に溢れ、人格者で、多くの人を愛し愛されたヘルツェロイデ。その面影を強く残すは、ヘルツェロイデを知る者にとっては唯一残された宝物のように思えるのだろう。けれどそれは、家族である自分たちにとっても同じことだ。はウェールズの愛し子だが、同時にアグロヴァルやパーシヴァルたちにとってもかけがえのない妹だ。特にアグロヴァルは、をとても大切にしている。小さな妹の凍り付いた足を炎で温めようと馬鹿なことをしでかした幼い時分、珍しく語気を強めてアグロヴァルはパーシヴァルを叱ったものだ。成長したはそのことを覚えておらず、とある折にその話を聞いたときですらあっけらかんと笑った。
『だってパーシィお兄さまは、私の足を温めようとしてくださったのでしょう?』
動機が善意であれば何でも許されるわけではないと、三兄弟に揃って言い聞かされたはそれでもにこにこと呑気に笑っていたのだ。あんなにも危機感の薄い無邪気な妹がいれば、アグロヴァルや父が心配するのも道理と言えよう。おもむろにパーシヴァルは、の手を掴んだ。きょとんとするがふらふらとどこかへ行ってしまわぬように、しっかりと手を繋ぐ。
「パーシヴァルお兄さまの手、あたたかいです!」
突然のパーシヴァルの行動を訝しむこともなく無邪気に笑うその幼さが、怖かった。
「戻ったか、パーシヴァル。の子守、ご苦労であった」
「ただ今戻りました、兄上。子守もそう悪いものではありません、俺の知らない間に変わっていくこの国を案内してもらえますので」
「い、異議ありですお兄さま方! 私はパーシヴァルお兄さまをお迎えに行ったのです! お守りをされるような子どもでは……」
「事後承諾の伝言で外出許可を求める愚妹など、子どもと呼ぶのが妥当ぞ」
「だから言っただろう、。迎えに来てくれたのは嬉しいが、然るべき手順は踏むべきだ」
「う……」
「それと、窓枠を乗り越えて飛んで行くのは早々に改めるべきであろうな」
「、お前はまったく……」
「な、なぜお兄さまがそれをご存知なのですか!?」
「このウェールズにおいて、我の目を逃れられると思うな。民の目すべてが、我の目と思うが良い」
つかつかと歩み寄ってきたアグロヴァルは、軽々とを抱き上げる。小動物のように縮こまったに、アグロヴァルはふっと口元を緩めた。
「無論お前も我の目だ、。国内視察の報告如何では、此度の無断外出を不問にしようぞ」
アグロヴァルの言葉に、がぱあっと顔を輝かせる。やったー、と呑気に笑う妹の頬を、パーシヴァルは少し強めに抓んだのだった。
「……それでですね、パーシィお兄さまがあっという間に盗賊を倒してしまったんです! すっごくお強くなられたんですよ、パーシィお兄さま」
「そうか、パーシヴァルには後で褒美を取らせねばな……それにしても、あの峠にはやはり賊が居着いていたか。早々に討伐隊を組むとしよう」
「他にも盗賊がいたら、大変ですしね」
身振り手振りを交えて、顔を輝かせて。とても楽しそうにはパーシヴァルとの道中を語る。アグロヴァルの膝の上でにこにこと無垢な笑顔を浮かべるに口元を緩め、アグロヴァルはの話を静かに聞いていた。
「ウェールズは安心して暮らせるって、みんな喜んでました。お兄さまたちの政策が好意的に受け入れられてるのが、嬉しくて」
「……お前も、安心して暮らせているのか。」
「はい、もちろんです! この国のおかげで私、とっても幸せに生きています」
「そうか……ならば良い。パーシヴァルの出迎えと報告、ご苦労であった」
褒美だ、と頭を撫でるとはふわふわとした笑みを浮かべて喜ぶ。この国が、ウェールズが、を脅かさないのなら。が健やかに幸せに生きていける場所であるのなら、それでいい。きっとこんなに弱くて世間知らずで無邪気な生き物は、悪しき世界では生きてゆかれない。悪に害されないために、正しき世界を作らなければ。弱い善人を虐げる不条理を、ウェールズから排して。そして世界の全てが『ウェールズ』になれば、はどこにでも行ける。どこを目指して歩むことになっても、害されることなく生きていける。昔は王城が籠だった。今はこの国が箱庭だ。けれどいつの日か、この世界のどこにだって、が行きたいと思う場所に行けるように。結局は、アグロヴァルの作った玻璃の箱で守り通してやりたいだけだ。どこまで枠を広げたところで、手の内に収めているからこそアグロヴァルが安堵できるのだ。
「アグロヴァルお兄さまの手、大きくて好きです」
「そうか」
ふにゃふにゃと締まりのない笑みを浮かべるの頭を、優しく撫で続ける。奔放なようでいて、誰かに頼って生きていることを強く自覚している妹。もしも、とアグロヴァルは思う。もしがひとりでも生きていける人間だったなら、アグロヴァルはに恋をしただろうか。その先を考えてしまえば最低の結論に辿り着きそうで、意図的に思考を断ち切る。膝の上のぬくもり抱き締めて、アグロヴァルは縋るように小さな肩に頭を押し付けた。
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