ラモラックは妹のことが嫌いだ。
ラモラックは妹のことが好きだ。
好きだけれど嫌いで、愛しているからこそ憎んでいる。傍にいると落ち着かなくて、でも姿が見えないと不安になる。こんなにも他人に心を振り回されるのが苛立たしくて、けれどそれが心地よいという自覚もあった。
「ラモラックお兄さま! お戻りだったのですね」
「……転ぶよ、」
歩くことも儘ならないくせに、ラモラックの姿を目にして駆け寄ろうとする。普段あれだけ飛び回っているくせになぜこういう時だけそれを忘れて走ろうとするのかと、腹立たしさすらあった。けれどそれすら結局は心配の裏返しにしかならなくて、ラモラックは舌打ちしたい気持ちを胸の奥に押し込めて躓いたを抱きとめる。だから言ったのにと妹を見下ろせば呑気ににこにこと笑ってなどいるものだから、ラモラックはすぐにを風の魔法でその場に浮かせた。このままアグロヴァルのところまで連れて行こう。近頃会うたびに小言の出る長兄に会うのは面倒だが、この子犬のような妹にずっとまとわりつかれているよりはいい。きっとずっとマシなはずなのだ、お互いにとって。ラモラックは感情を掻き回されることもないし、アグロヴァルの方がを大切にしてやるのが上手い。
「もう、少しはお嬢様らしくしようよ。アグ兄がいつまで経っても過保護なわけだ」
「ラモラックお兄さまが心配してくださるなら、善処します!」
「今は僕の話じゃないでしょー?」
たいした抵抗もせずにラモラックに運ばれるがままのに、思わずため息が出る。ラモラックはに対して良い兄でいようとした記憶はない。むしろ、それとなく突き放してきたつもりだった。魔法を教えてほしいと言われれば「アグ兄の方が向いてるから」と断り、遊んでほしいと言われれば「パーシィに言ったら喜ぶよ」とさり気なく遠ざけた。それでも懲りることなく繰り返し繰り返しラモラックのところにやってくる妹を、疎ましく思ったといえば嘘になる。どうしたってラモラックは、この愚かしい妹に手を伸ばさずにはいられないのだ。
「せっかく綺麗な顔してるんだから、おしとやかになりなよ」
「? ラモラックお兄さまも、綺麗なお顔ですよ?」
「え、それ僕が粗野だって言ってる?」
「粗野というか、やんちゃというか、問題児というか……?」
「そんなふうに思ったことをすぐ口に出すから、はおばかさんなんだよ」
「むが」
「よくこれでアグ兄とやっていけるなあ……」
頬をぐにっと摘むと、可愛らしい顔が奇妙に歪む。ラモラックとは別の意味で問題児であるがアグロヴァルと衝突を起こさないのは、文字通り「母の顔」のおかげなのだろうか。ああ、そもそもラモラックはの顔が気に入らないのだ。母親と同じ顔で笑うくせに、母親とは似ても似つかない。何もできないくせに、自分にはできないことなどないと信じている。たいした魔法も使えないくせに、誰かの役に立ってみせると胸を張る。本当に――本当に、腹が立つのだ。あの日母親の傷を治すこともできなかったラモラック自身を、見ているようで。突き付けられて、腹が立つ。ラモラックはこんな脆弱な傲慢を許してはいけないのだ。守られているくせにその檻から抜け出したがる愚かしさを、憎まなくてはならない。母親の顔をして、その中身はまるでラモラックと変わりないのだ。本当に愚かな、末の妹。凍てつくような激情に足を焼かれたことも知らず、雛鳥のようにアグロヴァルを慕って。ラモラックが抱く愛憎に見向きもせず、無垢の権化のように振舞って。パーシヴァルの夢のような理想を、無邪気に肯定してしまって。
「はおばかさんだよね」
「に、二回もおっしゃいます?」
「……どこにだって行けるのにさ」
「?」
聞こえないように呟いた言葉に、はきょとんと首を傾げる。僕と一緒に来ればいいのに、その言葉は思ってはいても口にはできなかった。はどうせ首を振る。ウェールズの役に立ちたいだとか言って、この国に残るのだろう。本当に馬鹿な妹だ、自分が誰の役に立ちたいのかも自覚せずにいる。それでもやっぱり、本当に馬鹿なのはラモラック自身なのだ。そうやって、がアグロヴァルを選ぶ答えを恐れて何も言い出せず、その手も取れず、視線を合わせることさえできない。これを愚かと呼ばずして何と呼ぶのか。
「、行くよ」
「はい!」
このままラモラックに攫われてしまうかもしれない可能性など、妹の頭にはないのだろう。行き先も尋ねずに頷いたの笑顔の下にあるのは、ラモラックへの信頼か。はラモラックが自分の幸せを奪わないことを、無自覚であれ解っているのだ。ラモラックにはそれが、ひどく腹立たしくてたまらなかった。
(本当に、どこかに連れて行ってやろうか)
甘ったれで世間知らずで、他人の善意に頼らなければ生きていけない妹。こんな生き物を守ってあげなさいと、母は言い残したのだ。
――あの子をお願いね……お兄ちゃんたち。
今となってはその言葉は、呪いのようにラモラックを縛る。結局ラモラックは、を悲しませることなどできはしないのだ。鮮やかな赤が翻るたびに、ラモラックはそれをむざむざと思い知らされた。
「ところでラモラックお兄さま」
「うん?」
「どちらへ向かわれてるのですか?」
「え、それ今更訊くの? 普通、最初に訊かない?」
「だって、お兄さまと久々にお話できたのが嬉しくて」
「まったくこの子は……!」
にこにこと、こんなにも生温い笑みを浮かべて。なんと憎らしいことだろう。ラモラックはきっと、未来永劫この無垢で無邪気で可憐な笑顔に支配され続けるのだ。
「……アグ兄のとこ」
「アグロヴァルお兄さまのところですか?」
「そ。僕ひとりでの面倒なんて見切れないよ」
「な、なんてことをおっしゃるんですか……!」
ラモラックの言い草にぷりぷりと怒るには目もくれず、すたすたとアグロヴァルの部屋を目指して歩く。きゃんきゃんとラモラックに噛み付こうとする妹など、さっさと兄のところに放り込んでしまおう。だってラモラックはのことが嫌いだ。ラモラックのことを選ばないなど、大嫌いだった。
「……そのみっともない膨れっ面をどうにかするべきだな、ラモラック」
「何さ、アグ兄のくせに」
「意味のわからぬ八つ当たりをするな」
「意味がわかる八つ当たりなんてどこにあるのさ」
「? いかがなさったのですか?」
「いや、お前の気にすることではない……仕立て屋が待っている、隣の部屋に行け」
「はい!」
行けと言いながら、軽々と妹を抱きかかえて隣室へと向かう。は小柄とはいえもうそれなりの身長のある少女であるというのに、その足取りには僅かたりとも揺らぎがなかった。
そも、出だしから気に入らないのだ。アグロヴァルの部屋までやって来てを下ろせば、即座に「待て」と声が飛んできて。よく躾られた仔犬のようにぴしっと立ち止まったの元へと歩み寄ったアグロヴァルは、が駆け出してしまう可能性を見透かしていたのだろう。何の他意もないことは解ってはいたが、ラモラックよりもアグロヴァルの方がの行動を把握しているのだと言外に告げられたようで不愉快だった。そんな一方的な劣等感は、時折ラモラックを鬱屈とさせた。「ちょうど良かった、お前を呼びに行かせようとしていたところだ」との手を取ったアグロヴァルは、仕立て屋が来ているのだと告げた。何のことかと首を傾げるに、もう忘れたのかとアグロヴァルが口の端を持ち上げるように笑って。あっと声を上げて、そして嬉しそうにほころぶ笑顔を浮かべたを見て、ラモラックは疎外感を覚えたのだった。
「……家族で夜会の真似事でも、と思うてな」
「夜会?」
を仕立て屋たちに預けてきたアグロヴァルは、音もなく扉を閉めて口を開いた。なかなかアグロヴァルとラモラックの間では話題に上らない単語に、ラモラックは怪訝そうに眉を顰める。淡々とした声音でオウム返しの問いを肯定した兄は、先ほどと話していた青年と同一人物には思えなかった。
「あれは、社交界に出るのも儘ならぬ身だろう。息抜きも必要と思うてな」
「……息抜き、要るの? に?」
「要らぬと思うか?」
「それを僕に訊くなら、アグ兄の言われたくないこと言うけど。いいの?」
「構わん」
「……やっぱやめとく。ケンカしたくないし」
そしてまた、逃げを打つ。アグロヴァルと争いたくないのも本音だったが、何よりも隣の部屋にいるに聞かれたくなかった。息抜きの必要性の疑うからではない、むしろその必要性を解っているからだった。
――アグ兄が、あんな足にしたくせに。
氷漬けにして、包帯でぐるぐる巻きにして。普通の令嬢として生きる道を奪っておいて。それなのに、今更与えようとする。それも、陰湿な社交界そのものではなく、華やかな上っ面だけ切り取った綺麗な模型を。馬鹿馬鹿しいと、ラモラックは鼻を鳴らした。がありふれたお嬢様にならなかったのは、アグロヴァルのせいなのに。それなのに『風変わりなおひいさま』を、アグロヴァルが憐れむのだ。決められた人生を生きていけずに悩みながら道を探している妹に安息は要らぬのかと、ラモラックに問うのだ。
「そうだ、ラモラック。お前も採寸を受けておけ。この機会に、まともな礼服のひとつくらい持て」
「えー……僕も出るの、その夜会。アグ兄とだけで楽しんでよ」
「そうするつもりではあったがな、パーシヴァルも帰ってきていることだ。父上もお呼びして、家族全員いた方がは喜ぶであろう?」
「はいはい、晩餐会にダンスがつくんだね。ただでさえ堅苦しいけど、我慢するよ」
独占欲が薄いのか、それとも絶対的な自信の表れか。あっさりとふたりきりの夜を放棄したアグロヴァルに、ラモラックは肩を竦めてみせる。前者ということはあるまい。アグロヴァルがに抱く執着がもう少しでも軽かったら、は今頃鷹揚な貴族に嫁いで幸せにやっていたことだろう。これは余裕なのだ。アグロヴァルはいつだって、の手を取ることができるのだから。
「アグ兄ってさ」
「何だ」
「……嫌なやつだよね」
目も合わさずに吐き捨てる卑怯さに、けれど意外にもアグロヴァルは淡々と答えた。「そうだな」とあっさり肯定されて、ラモラックはますます面白くない気持ちになる。例えアグロヴァルの悪行を全てに暴露したとて、ふたりの関係はまるで変わるまい。ラモラックは苛立ちのままに、「そういうところだよ」と吐き捨てた。
(そういうところだよ)
むしろ自分に突き刺さる言葉を、胸の内で繰り返す。ちくりと痛んだ棘は、きっと綺麗な赤色をしているのだろう。なんとはなしに、そんなことを考えた。
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