「なんだよ、これ」
 のポケットから転がったものを拾い上げ、焦凍は眉を寄せた。何かとは問うたものの、それがおもちゃの指輪であることは見てとれる。焦凍の顔を険しくさせたのは、その内側に刻まれている名前だった。
「『かつき』って誰だ」
「かつきはかっちゃんだよ?」
「この指輪、そいつのか」
「ううん、もらったの」
 の返答に、焦凍の機嫌は下降の一途を辿る。焦凍自身はそういったことに疎いとはいえ、断片的な情報から察しのつく事実はある。自分がもし同じものをに贈るとしたら、そこにある感情は「かっちゃん」と同じに違いないと。そんなものが他の男から好きな女の子に、それもかつてその腕を焼いた張本人が贈り主となれば、焦凍にとっては面白くなくて当然の話だった。
「くれたのはずっと前なんだけどね、かっちゃんが失くすなって」
「……へぇ」
 中学生が持つには、あまりに子供っぽいおもちゃの指輪。ところどころ塗装の剥げたそれは、それなりに年季の入ったものなのだろう。お守り代わりにしているのだと、は笑う。大事そうにそれを握りしめたに、つい「縁起悪ぃな」という憎まれ口が転がり出た。
「えんぎわる?」
 何を指して縁起悪いと焦凍が言うのかわかっていなさそうなは、それでも黙って指輪をポケットに仕舞った。わからないなりに、焦凍がそれを快く思わないということを理解している。わからないけれど焦凍が嫌なら仕舞っておこう、はそうやって他人との摩擦を柔らかく避ける人間だった。焦凍の一人称が「僕」から「俺」になり、からの呼び名が「しょうちゃん」から「しょーと」へと変わる程度には長い付き合い。細く長く保たれてきた関係は、父親への憎悪でいっぱいになった胸を少しだけ軽くしていた。
「お前、高校はどこに行くんだ」
「ゆーえい」
「……ヒーローになんのか?」
「ううん、ふつーかに行くよ」
「おお」
 正直なところ、が志望校をちゃんと決めているとは思っていなかった焦凍は少し驚いたように肩を竦める。まさかがヒーロー科に行くとも思っていなかったが、天下に名だたる雄英に初めから普通科志望というのもこのご時世には珍しい。
「何かやりたいことでもあんのか?」
「ううん、ない!」
「おお」
「びっくりするほど何もない……」
「そうか」
「ので、ゆーえいに行きます」
「そこ、順接なのか」
 確かに、は頭は悪くない。否、頭の螺子があるべき場所に花が咲いているような抜けっぷりだが、これがどうして勉強はできるのだ。教える適性は微塵も無いので、こうして一緒に顔を突き合わせて教科書を広げていても互いの助けにはならないのだが。
「かっちゃんがね、」
「……おう」
「『とりあえず上行けば何か見えんだろ』って」
「間違っちゃいねえな。選択肢は多い方がいいだろ」
「うん。デクくんもね、そう思うって」
 受動的で流されやすいだが、低きに流れるというわけでもないらしい。誰かに言われてのこととはいえ、国内トップレベルの難関を目指すにはそれなりの素地と覚悟が要る。認めたくはないが、「かっちゃん」が隣にいることでが引っ張り上げられた部分も大きいのだろう。隣にいる幼馴染がいつも上を向いているから、も上を見上げている。そこに崇高な志や確固たる目標がなくとも、ただ俯かずにいられるというだけで焦凍には眩しく思えた。
「しょーともゆーえいだから」
「?」
「好きな人がみんないるの、うれしいなって」
「……そうか」
「うん、そうなの」
 単純だな、と我ながら思う。いつもの傍には「かっちゃん」がいて、を傷付けたくせに傍にいることが許されていて。それが面白くなくて不機嫌になる理由を知っているわけでもないのに、その不満ごと肯定されたように思えてしまう。子どもの頃から、は焦凍の特別だった。にとっては誰しもが愛する隣人で、そこに貴賎も無い代わりに唯一も無い。特別にしてくれないくせに、まるで焦凍が特別であるかのように笑ってくれる。父親から嫌な意味での特別扱いを散々受けて、それでいて望むものは得られなかった焦凍の凹凸を、の歪みはあまりに綺麗に埋めてしまった。といる居心地の良さは、受容され満たされることの幸福でもあった。くるしい、と感じるときにの気の抜けた笑顔を思い浮かべると、少し楽になる。雪解けの向こうに春が来るように、焼け落ちた灰を糧に花が咲くように、の存在は焦凍の胸の奥に希望として息づいている。へ縋っているような慕情があまり良いものではないことは自覚していたが、焦凍がただの焦凍として在ることができるのはの隣だけだということも事実で。同じ火の傷を抱えているはずなのに、焦凍との見るものはあまりにも違っていた。

「うん?」
「お前の花、もらってもいいか」
「うん、いいよ!」
 別に許可なんて取らなくてもいいと、はきっと言うのだろう。いつもが掃いて捨ててしまう花を拾い上げたいと思ったのは、焦凍の我が儘だ。焦凍はの幼馴染と違って、常に傍にいられるわけではない。会いたいと思っても、簡単には会えない距離にいる。幼馴染とは部屋の窓を開けてすぐの距離だと聞いて焦凍がどんな思いで頭を抱えたか、にはわからないだろう。だからせめて、の花だけでも。そう、思ってしまった。
「お母さんに、昔教わったんだ。押し花の作り方」
 母と一緒に作った栞は、どこにやってしまったのか。ろくに遊んだこともないおもちゃと一緒に、片付けられてしまったのかもしれなかった。
「押し花にして、お前の花を持っててもいいか」
「うん!」
「お守りにする」
「えんぎある?」
「ご利益な。あるだろ」
 お前の花なんだから。そう言った焦凍の慕情を理解しているわけでもあるまいに、は本当に嬉しそうに笑う。の笑顔と共にまた咲いた花を、手に取って。当たり前のようにの隣にいられる未来を願った。

「おじさま」
「……む」
 ひょこっと襖から顔を覗かせたに、炎司は常に身に纏っている炎を収めた。妻の姪にあたるは、どうにも近くにいると気を遣う。の個性や腕に残る火傷も相俟って、うっかり燃やしてしまわないかひやひやさせられるのだ。幼い頃から焦凍が懐いているということもあり、邪険にできない相手だった。炎司が追い詰め病ませてしまった冷が、今でも気を許している数少ない存在。何か用かと問いかけた炎司に、はにこにこと小さな紙片を差し出した。
「これ、しょーとが作ってくれたんです」
「……栞か?」
「はい、おすそわけです」
「君が貰ったものではないのか」
「わたしの分はいっぱいあるので!」
 そうか、と炎司は小さな手から栞を受け取る。渡しただけで満足したのか、は花をぽんぽんと咲かせながらくるりと踵を返した。栞に使われている押し花は、が落ちた先から拾い上げていく「お花」と同じものだ。焦凍が炎司に渡してくれと頼んだわけではないだろう。あれは炎司を憎み、拒んで遠ざけている。轟家の父子関係に気を遣ったわけでもあるまい。あの娘がそういった気を回すことのできる人間なら、焦凍の長年の恋煩いはとうに解決しているはずだった。
「なぜ俺にこれを寄越す」
「しょーとのお父さんなので!」
 用は済んだとばかりにあっさりと去ったの真意は、よくわからない。栞などろくに使う機会も無いが、このところ声をかけてもまともに返事すらしない末の息子との繋がりである。『エンデヴァー』としては市民から贈り物を受け取ることなど一切しないが、は自分で言ったように『焦凍のお父さん』にこれを渡しに来たのだ。やはり、どうにも無下にはできなかった。
「……小さいな」
 大柄な炎司の手の中にあると、あまりに小さく思えてしまう。白い花弁は、どことなく雪を――そこから連想される冷の姿を思い起こさせた。似ているようで全く異なる、伯母と姪。しかしどうして、炎司と焦凍の好みは似通っているらしい。もっとも、炎司のそれは好みだどうだという話ではなく、同列に語られれば焦凍は嫌悪を剥き出しにするのだろうが。見れば、栞は二枚ある。の考えていることは常々読めないが(焦凍ならばあけすけに「は何も考えてねえだろ」と言うのだろうが)、きっと一枚は冷に贈られたものなのだろう。は何も言わないから、炎司も勝手にそう受け取るだけだ。冬美に持たせる見舞いの品に入れておくかと、手の中で簡単に潰れてしまいそうな栞をそっと握ったのだった。
 
191029
BACK