、と呼ぶことにした。
 ルシファーがその言葉を口にしたことに、特に深い意味は無い。黎明と仮に呼称をつけていたが、これ自身の持つ役割で呼ぶのも都合が悪いときもあるだろうと、強いて言うならば気まぐれのようなものだ。
黎明を司る星晶獣。夜明けや目覚めの役割を持つ天司を創った理由は、保険とでも言うべきか。仮に自身の研究結果が散逸し、力を封印されたとしてもそれらを呼び起こすことができるもの。マスターキーと、ベルゼバブは呼んでいた。
「ますたー」
「そのふざけた呼称は誰に吹き込まれた」
「ベリアル」
「そうか、忘れろ。くだらない言葉の記憶に容量を割くな」
「うん、ルシファー。わかった」
 とはいえ、現時点でルシファーを脅かすものは何もない。の今の仕事といえば、もっぱらルシファーの身の回りの世話と雑用だ。とはいえ疲れを知らず、睡眠も必要ないはなかなかに役に立った。時折妙なことを言い出すところや時間の感覚に疎いところは些か気に障ることもあるが、苛立ちに任せて手を挙げたところで鈍いはきょとんと目を瞬くだけだ。悦ぶベリアルよりは多少マシだが、どうしてこうも自分の手がけた天司はどこかネジが足りないのかと呟いたとき、狡智の彼はニヤッと笑って答えたものだ。
 ――だってほら、言うだろ? 子は親に似るってさ。
 誰が親だと、そのときは文字通り一蹴したものだが。耳障りなベリアルの笑い声が、耳の奥で響いた。奇妙な苛立ちを振り払うように、かぶりを振る。そんなルシファーの耳に届いたのは、単純な母音だけの旋律だった。
「……歌など、どこで覚えてきた?」
「え?」
「今お前が歌っているそれだ」
「……うた?」
 きょとんと首を傾げるに、まさか歌とも知らずに歌っていたのかとルシファーは目を瞬く。思えばそういった情操教育は一切していない。何となく耳についた旋律を、ただ再生しているだけなのだろう。に余計なことを吹き込むのはもっぱらベリアルだったが、ベリアルがこんな子守唄のような旋律を好んで聞かせるとも思えない。どこかで耳にした音程を、ただ口にしてみただけのようだった。
「ルシファー、これ嫌い? やめる?」
「……好きにしろ」
 どうしてか、耳障りだとは思わなかった。再び口を開いたの紡ぐ詩のない旋律は、不思議とルシファーを苛立たせることなく耳を通り抜けていく。悪くはない、だから構わない。透明な音程が、静かな研究所に響く。書類を整理するが繰り返し奏でる音は、ルシファーの二度目の気まぐれだった。

「ファーさんが鳴かせてるのかい?」
「お前は俺の神経を逆撫でるのが趣味なのか?」
「ひどいな、純粋な興味だよ」
 ある日ルシファーの研究室を訪れたベリアルは、開口一番にそう言った。コアを運びながら歌うを指しているのは明白だったが、何せ今は大掛かりな実験の真っ最中だ。手伝いもしないくせにニヤニヤと机の前に陣取るベリアルを無視しての持つ箱にコアを放り込むと、ベリアルは愉しげに目を細めた。
「なぁ、いい歌じゃないか。どこで覚えてきたんだ? ファーさんが君の枕元で歌ってくれたのか?」
「ルシファー、歌わないよ」
「当たり前だ」
「いやいや、わからないだろ? ファーさんだってピロートークで愛の詩の一つや二つ、」
、被検体はベリアルにしろ」
「わかったー」
「痛い愛も悪くはないが、そうカリカリするなよファーさん。それと、掴むなら襟なんかじゃなくてベルトに手をかけてくれると嬉しいね。ついでに下ろしてくれても」
「失せろ」
 何やらルシファーとの関係について馬鹿な想像を巡らせているらしいベリアルに、ルシファーは容赦なく電撃を浴びせた。「イイねぇ」などと宣ったベリアルを無視して、鎖に繋いだ星晶獣たちに視線を向ける。星晶獣のコアを繋ぎ合わせるには、それなりの危険が伴う。戯言に付き合っている暇はないと態度で示すルシファーだが、今日のベリアルは一段としつこかった。
「なぁファーさん、教えてくれよ。親娘でするのって、やっぱり具合が良いのかい?」
、こいつを閉め出せ。それか適当な者を呼んでこい」
「おいおい、つれないじゃないか。ああ、それともそういうプレイなのか? 昼間は研究者と助手で、夜は男と女に……」
「そうではないことをわかっていて、よくもまあベラベラと口が回ることだな。本当に被検体にされたいのか?」
「悪かったよ、ファーさん。ただちょっと、聞いてみたかっただけなんだよ」
「…………」
「姉弟でするときの参考にしたかったからさ」
 ぺらぺらな笑みを浮かべるベリアルを、今度こそ研究室から蹴り出す。最初からこうしていれば良かったと、ルシファーはため息を吐いた。ベリアルとルシファーの小競り合いなど見ていなかったような顔をして呑気に歌うの旋律には、相変わらず歌詞がない。だが、飽きることも疎ましく思うこともない。呑気で鈍いが歌うその音は、もうすっかりルシファーの耳に馴染んでいた。
 ――なあ、その理由は?
 くだらない問いかけが、脳裏をよぎる。追いやったはずの声が、愉悦を滲ませていた。けれどルシファーも、問いかけたベリアル自身も、その理由が愛だの恋だの甘ったるいものではないことを知っている。
(そんなもの、)
 ただの気まぐれだ。気まぐれでしかない。たまたま好ましく思った、ただそれだけの話だ。それ以上の理由など、必要ない。
「ルシファー、準備終わった」
「そうか、お前も外に出ていろ」
「うん」
 従順に頷いたが遠ざかっていく、その足音を聞き届ける。部屋を後にする小さな背中に視線は向けなかったが、扉の閉まる音を聞いてから被検体のコアに手をかける。見下ろした被造物たちの哀願も憎悪も、ルシファーの心を揺さぶりはしない。自我もコアも一緒くたに、繋ぎ合わせていく。世界を終わらせる鍵を、創り出すために。
そう、ルシファーは世界を終わらせる。残るものはきっと無い。だから保険など本来は不要であるべきなのだ。サンダルフォンと同じ、ただ存在を維持しているだけの不用品。いっそこの無数のコアの中に放り込んでしまおうかとも考えたが、それを実行に移す気は起きなかった。いつもルシファーの目線よりも低い位置にある瞳を、思い出す。優しく淡く、滲む東雲色。もう少し、手元に置いておいてもいい。少し前にサンダルフォンのことを「愛玩用」と哂ったではないか、似たようなことだ。捨てるのは容易いが、そのときあの東雲色は今視界に映るような苦痛や恐怖は浮かべまい。それではつまらないと、ルシファーは手にしたコアが映す自らの瞳と目を合わせる。
 ――世界が終わるときも、空は青い?
 幼気な問いを思い返して、ルシファーは口の端を吊り上げる。「その時になればわかることだ」と答えた自分は、あの東雲色に終わりを映してやる気でいるのか。あれが終わりの空を見たそのときにきっと、壊してやろう。お前など必要なかったと、そう言ったらどんな顔をするのだろうか。それを考えると、少しだけ胸のすくような思いだった。
 
181218
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