ああ、このひとは恋を知らないのだ。
ちゃん、うん、『がんばれ!』って感じで好きだな! 私!」
 麗日がそう、両の拳を握り締めて言ったとき。子どものように輝いた瞳を見て、麗日はそう思ったのだ。
「うららかさん、」
 試験会場で自分を助けてくれた少女と同じクラスになり、麗日はあっという間に彼女に夢中になった。泣くほど怖いのに、助けるべき人を見つければ一も二もなく飛び出していく姿。恐ろしいまでの集中力。ひたむきにヒーローに憧れ、上り詰めていこうとする向上心。「はじめての友達」と麗日に笑いかけてくれたの笑顔は、本当に本当に愛らしかった。大きな丸い緑の瞳。白い頬に散らばるそばかす。愛嬌のある幼い顔立ち。緩く内巻きにうねる癖っ毛。麗日の可愛い友人はとても内気で人見知りで、けれど控えめな笑顔が愛らしい。自分などが友達一号だと言うけれど、友達どころか彼氏だっていくらでもできるだろうに。そう首を傾げた麗日の疑問は、すぐに解消されてしまった。
「クソのくせに調子に乗んな、ブス」
 幼馴染。爆豪勝己という存在が、をこんなにもすり減らした。初めての戦闘訓練でに向けられた拳には、殺意すら篭っていた。はどうして自分がそこまで爆豪に敵意を向けられるのか理解できない様子だったが、麗日から見れば理由は明白だった。爆豪はに恋をしているのだ。幼稚な初恋を拗らせに拗らせて、もう元の純情も忘れてしまっている。着替えの時にできるだけ肌を隠そうとするの火傷に気付いてから、麗日はさり気なくが肌を隠すことに協力するようになった。他の女子生徒の目に入らないよう、壁になったり。着替え中のに意識が向かないよう、の近くの人間とおしゃべりをしたり。の背に残る独占欲の塊のようなその痕は、薄ら寒いほどだった。
(片想いやん)
 食堂で、遠くの席からを睨むように見ていた爆豪。さり気なく視線を遮るように間に入ると、眼光は麗日を射殺さんばかりに強くなった。素知らぬ顔で、と他愛ない話をしながら飯田を待つ。同性の気安さでとおかずの一口交換をすると、わかりやすく殺意じみた敵意を向けられた。稚い片想い。こんな小学生のような拙い捻くれた恋心のせいで、はどれだけ傷付いて生きてきたのだろう。
ちゃんは可愛いなあ」
「えっ、あっ……!?」
 そんなことないよ、と吃りながらは俯いてしまうけれど、その頬はほんのりと桜色に色付いている。可愛い可愛いと、そばかすの散る頬を撫でた。「食事中に遊ぶのは良くないぞ」と言いながら席に着いた飯田に、「ちゃんは可愛いよね?」と同意を求める。脈絡も無い麗日の言葉を訝しむこともなく、「ああ。くんは可愛らしい女子だと思う」と飯田は大真面目に頷いた。
「ほら、可愛い可愛い」
「ぅ……あ、りがとう、」
「あーもー本当に可愛いなあ!」
「麗日くん、くん、遊ぶのは食べ終えてからにしたまえ」
 可愛い可愛い。麗日は、の心を少しずつでも浮かせてあげたかった。日頃の爆豪の態度を見ていれば、どうしてこんなにの自己評価が低いのか嫌でも理解できてしまう。この優しくて可愛い女の子の心を、爆豪はずっと押し潰してひしゃげさせていたのだ。呪いのような爆豪の言葉は、瓦礫のようにの心を埋もれさせている。重くて痛い塊を、ひとつひとつ取り除いてあげたかった。この可愛い人の心に恋が芽生えたとき、どんな顔をするのか見てみたかった。麗日の個性は心には触れてあげられないし、重力をゼロにしてあげられない。だから、本心からの言葉でを包み込んだ。柔らかい手のひらで、大事に大事に抱え込むように。
「麗日さん、その、あげる」
 真っ赤な顔でが差し出した、マスカット味の飴玉。「」という蔑称を前向きにさせてくれてありがとうと、は本当に可愛い笑顔を浮かべた。

 飯田から見てと爆豪は、ひどく危うい関係に思えた。ボタンをかけ違えた服を乱暴に脱ぎ捨てて引き回した後のような拗れ具合。ぐちゃぐちゃに絡まって縺れてしまって、もう解きようのない糸。委員長を決める際の投票でに他人からの票が入ったとき、そして食堂の一件を受けてが飯田に委員長の座を譲ったとき。爆豪の目には他人を殺しかねないほどの鋭い光が宿っていた。「が委員長に相応しいと選んだ」人間である飯田に突き刺さった眼光は、まさしく敵のそれで。常日頃ヒーローらしからぬ顔付きだと言われてこそいるが、あの時は心からそう感じた。
くん、先ほどの授業について君の見解を問いたいのだが」
「うん、私も飯田くんと話したかったんだ」
 面白くなさそうに舌打ちする、の前の席の爆豪。今の会話の何が爆豪の琴線に触れたのかわからない飯田は、内心首を傾げつつもと話し始めた。は飯田にとって敬愛に値する友人だ。四角四面の飯田とは異なる柔軟な思考を有していて、考える前に誰かを助けようと動くナチュラルボーンヒーロー。恐ろしいまでのパワーを有する個性で自壊してしまったり、我が身を顧みず誰かを救おうとする姿は時折背筋に冷たいものを走らせたが、どこまでも「ヒーロー」らしい友人は飯田の誇りでもあった。どんなに追い詰められた局面でも、が一緒なら何とかなりそうな気がする。根拠の無いそんな気持ちは、論理的な飯田にとっては縁遠いものであったはずだが。危機に瀕しても、ボロボロの泣き顔でも、「絶対大丈夫」と不器用に笑うはまさしくヒーローだった。
「おい、クソ
 突然振り向いた爆豪が、のネクタイをぐいっと引っ張る。首を絞めかねないその行為に、飯田は眉を顰めた。
「爆豪くん、手を離せ。くんが窒息しかねない」
「あァ? テメェに関係あんのかクソメガネ」
 あいつ勇気あんなァ、と上鳴が飯田を指して痛ましげな顔をした。口出しするなとわかりやすく敵意を露わにする爆豪を前に、の顔色は悪い。首が締まって苦しいのだと勘違いした飯田は、「委員長としてクラス内の暴力は見過ごせない」と一歩も引かなかった。

「なァ、ずいぶんと楽しそうじゃねぇか
「お友達ができて良かったなァ?」と酷薄に笑う爆豪に、は俯いたまま唇を噛み締める。爆豪から話しかけられたのは本当に久しぶりだった。戦闘訓練の日、が追いかけたのが最後だった気がする。の胸ぐらを掴んで壁に押し付ける爆豪は今にも噛み付いてきそうで、は早鐘を打つ心臓をどうにか宥めて爆豪を見上げた。突き刺さりそうなほど鋭い視線を浴びせる、赤い瞳。灼けそうなほど熱くて、切れそうなほど冷たかった。
「テメェみてぇな貧相なブスに、あいつらが『可愛い』だの『尊敬する』だの本気で言ってると思ってんのか? なあ?」
「……麗日さんも、飯田くんも、嘘なんて言わない」
「ハッ、随分とエラくなったなあチャン」
 下手くそに結ばれたネクタイを、乱雑にほどいて投げ捨てる。無駄に広い雄英の空き教室だ、邪魔が入ることもないだろう。色々と問い質したいことはあったが、真っ先に必要なのは躾直しだと爆豪は口元を歪めた。
「忘れたんかよ」
 スカートの中に手を突っ込んで、焼けた手形の残る太腿に指を這わせる。途端にびくっと震えて怯える様子を見せたに、やっと溜飲が下がった。それでいい。はそうでなくてはならない。自分の下で泣いて、その綺麗な目を曇らせていればいい。麗日が可愛い可愛いと撫でていた頬を叩いてやろうか、飯田が努力家のそれだと褒めたたえていた手を踏んでやろうか。凶暴な衝動のままにブラウスに手をかけたとき、ガラリと躊躇いなくドアが開けられた。
「……相澤先生が呼んでたぞ、
 赤と白の、どこに行っても目立ちそうな頭。爆豪とのただならない様子に首を傾げつつも、どうでも良さそうに用件を伝えてきた。何を考えているのかわからない目を睨めつけた爆豪だったが、轟は感情の読めない目のまま言葉を重ねた。
「急いだ方がいいんじゃねぇのか」
「うっ、うん、ありがとう、轟くん」
 するりと爆豪の横を通って、が小走りに教室を出ていく。教室の入口からそれを見送るようにしていた轟は、ふと視線を教室の中に戻した。未だに轟を睨んでいる爆豪に首を傾げ、視線を床に落とす。
「それ、のか」
「知るかよ」
「届けてくる」
 問いかけたくせにろくに返事も聞かず、轟は身を屈めてのネクタイを拾い上げる。「触んなや」と唸った爆豪に怪訝そうな顔をしつつも、特に何も言わずに轟はを追って行った。ひとり教室に残された爆豪は、苛立たしげに舌打ちをして机を蹴り飛ばす。がらんとした教室に、乱暴な音だけが響いたのだった。
 
191022
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