(この頑なさが、爆豪をイラつかせるんだろうな)
轟の事情や決意を知った上でなお、全力で臨めと叫ぶ。折れた指を更に折ってまで訴えるその姿に、背筋が冷えるほどの純粋な狂気が見えた。
――お前には、本当に左を使いたくねぇんだよ。
ただでさえ忌避している、左の熱の力。男に暴力を振るわれて泣いていた女に向けて放つなど、憎んだ父親の姿そのもので嫌だった。もう諦めてほしい。頼むから。両手をそんなにしてまで、自分に何を求めているのか。ボロボロのだが、轟につけられた傷は一つもない。轟のために、どうしてそこまで身を削れるのか。だって真っ直ぐに一番を目指しているのに、どうして目の前の轟の心を優先するのか。このまま熱の力を使わず渡り合えば、流れはに傾くだろう。殴られた腹がじんじんと痛くて熱い。追撃も可能なはずだ。それなのには、左を使えと、全力を出せと。数日前、踏み込みすぎるまいと距離を保った轟とはまるで正反対だった。容赦なく、遠慮なく、躊躇いなく、轟の心の柔らかいところに手を伸ばしてくる。それが痛くて疎ましくて、もう放っておいてほしいのに。
――オールマイト、
――彼のように「なりたい」
君に勝つと、は繰り返す。それなのに、の見据えているものは勝利ではなかった。ただ、轟を救けようとしている。望まれなくても、拒絶されても。
――なりたい自分に、なっていいんだよ。
母が、手を伸ばしてくれた気がした。
「俺にも使えや、そっち側」
完全に吹っ切ることはできなかった。決勝で、爆豪を前にしてなお轟はどこか上の空で。あの時鮮やかに広がった炎に、一瞬父親への憎悪を忘れた。全力でぶつかり合って、勝ったのは轟だった。それでも、自分ひとりが吹っ切れて終わりではない。ちらりと見えた、の背中。焼けたような手形を残したのは爆豪だと、何故か轟には確信があった。
――かっちゃんは、違うよ。
に、いろんな感情を重ねてしまう。熱の傷がどんなに痛いか、何年経っても疼くように痛むのか、轟は知っている。幼馴染の少女に、そんな痕を残して。それでもまだ爆豪には足りないらしい。全力のを打ち負かす機会は、この体育祭ではなくなった。ならばに勝った轟の全力を踏み越えて、自分が完膚無きまでの一位になるのだと。半端な轟に勝ったところで、そんなものは勝利ではないのだと。あの試合で、が勝敗より轟を優先したことも面白くないようだった。救けるというの本質は、いつも爆豪の心を波立たせる。に救けられた結果轟が全力を出せるようになったのなら、それをねじ伏せればへの意趣返しになると思ったのだろう。轟だけではない、轟を救けたの心すら爆豪は踏み越えたいのだ。何がそこまで爆豪をそうさせるのか、轟にはわからなかった。
――幼馴染なんだってな。
――昔からあんななのか、は。
そう問うたときの爆豪は、今にも人を殺しそうな顔をしていた。どうでもいいと言いながら、轟の向こうにの姿だけを見ていた。轟はに救けられた。救けられてしまった。今まで燃えたぎっていた憎悪と、凍り付いていた夢がぐちゃぐちゃに混ざってどうしたらいいのかわからない。無茶苦茶で、強引で。けれどには、ただ「ありがとう」と伝えたかった。
「――負けるな頑張れ!!」
の声が聞こえた。ごちゃごちゃと色んな感情で煮詰まっていた頭の中に、すっと溶けていくの声。試合中であることも、一瞬頭から抜け落ちた。右手にギプスを巻いた、の姿。本当にボロボロで、それもほとんどが自壊なのだから笑えない。涙腺が脆いのか、ほとんど泣いてるような顔をして轟を見ている。
(綺麗だ)
今にもこぼれ落ちそうな緑色が、とても綺麗に見えた。ゆらりと、ほとんど無意識に炎が燃え上がる。爆炎と共に突っ込んでくる爆豪が、轟の炎を見て凶悪な笑みを浮かべて。
――時折とても醜く思えてしまうの。
シュンッと、気付けば炎を収めてしまっていた。あんな綺麗なものを目にして、今の自分は醜いままだと思った。母への罪悪感と、父への憎悪と。向き合わないままでは、あの綺麗な目に「なりたい自分」など到底見せられない。突っ込んでくる爆豪の向こうに、あの緑が垣間見えた気がした。
「今度は、」
体育祭の帰り道、轟はを捕まえて話しかける。包帯でぐるぐる巻きになった腕で着替えるのは一苦労だったのだろう、今日もネクタイは不格好だった。首を傾げたの前で、深く息を吸う。ほとんど無意識に、そのネクタイを解いて結び直していた。
「今度は、俺が余計なお世話をする番だと思う」
「……うん?」
ネクタイのことだろうか、とわかりやすくの顔には書いてある。これはわかっていないなと思いつつキュッと締め直したネクタイに、横から伸びてくる手。何となく嫌な予感がして振り払ったその手の主は、面白くなさそうな顔をした爆豪で。「ンだよ舐めプ野郎」と決勝の苛立ち混じりに睨み付けてくる爆豪を、轟は黙って見返した。昨日までの轟なら、ここで黙って「何でもない」とでも言ってさっさと帰っているだろう。爆豪とここで争うことに何の意味も無い。けれど、にはきっと助けが必要だった。望まれなくても、拒まれてもいい。は「助けて」と言うことすら忘れてしまっている。それでも、なりたい自分で在るために。が思い出させてくれた大切なことを、忘れないために。救けたいから勝手に救けるだけだと、轟は爆豪との間に割って入った。
「俺はそこのまな板ブスに用があんだよ、舐めプ野郎はすっこんでろ」
「『まな板ブス』なんて名前の人間はここにいねぇだろ。俺が話してたのはだ」
「ハッ、揚げ足取りでいい子ぶりてぇなら他所を当たれや」
「と、轟くん……? かっちゃんがそう呼ぶの、いつものことだし、別に、」
「お前が良くても俺が良くねえ」
轟の硬い声に、が息を呑んだ。轟が許せないだけだ。轟を救った綺麗な緑が、貶められることをすっかり諦めて受け入れてしまっていることが腹立たしいだけだ。勝手に諦めるなと、見下されることを当たり前になどするなと、そう怒りたくなる。思えば宣戦布告をした時もそうだった。当然のように「自分は轟くんより下だ」と口にした。自尊心もプライドもまるでない。それなのに、自分も勝ちたいと見上げてくる。にとって爆豪に貶められるのは当たり前の日常で、見下されることが自然なことだったのだろう。騎馬戦で狙われる側になったときの緊張や、飯田に「挑戦する」と言われたときの表情を見ればわかる。は、今までずっと「一番下にいることが当たり前」だったのだ。爆豪はきっと、いつだってクラスの中心で王様でいるようなタイプだったのだろう。典型的なガキ大将だ。そんな爆豪に息をするように罵られているが、小中学生のとき周りにどんな目で見られていたのかなと想像に難くない。容姿を貶され、能力を貶され、自分を否定されることが当たり前だった。貶められるのが当たり前など、そんなことがあっていいはずがない。は、自分が誰かと対等になれる人間であるわけがないとすっかり思い込んでしまっている。そうさせたのは、爆豪だった。
「なぁオイ、」
轟の後ろで、びくりとが震える。「わかってんだろうな」と唸った爆豪に、はこくこくと頷いた。
「ならいい」
いやにあっさりと引き下がった爆豪に、轟は眉を寄せる。胸のざわつきは収まらなかったが、玄関から駆けてきた麗日が追いついての鞄を持った。「一緒に帰ろ、ちゃん」と笑う麗日に、は強ばっていた表情を和らげて。麗日がついているなら大丈夫だろう、と轟は踵を返す。「じゃあな」と手を振った轟にぱちりと目を瞬いたが、「じゃあね」と手を振り返して。そんな些細なことが嬉しいと思ったのは、随分と久しぶりな気がした。
191023