姉は生きてさえいなければ、完全に美しい。生者であるということだけが、姉の唯一の欠点だとイソップは思っていた。イソップ、と笑みの形に動くその表情も、優しく澄んだ声色も、イソップに触れる体温も。姉を何よりも誰よりも美しいと思っているだけに、気持ちの悪い生の証が憎らしかった。
「姉さんは素晴らしい人です」
 したたかに酔ったイソップが何を言い出すかと思えば、屈折しすぎているために一周まわって純粋な愛の吐露だった。イソップがぶつぶつと語る内容は、酒の肴にするにはあまりに重い。鉛を飲み込んだような顔を隠さないナワーブとウィリアムを横目に、イライはイソップに水を差し出した。グラスの中身も確かめずにぐいっと男らしい仕草でひと息に呷ったイソップは、今頃はサバイバーに与えられた部屋で眠りに就いているであろう姉を思ってか頬を赤らめる。姉さんは素晴らしい人です、そう呻くようにイソップは繰り返した。
「昔からそうなんです、姉さんはいつだって……」
 姉は家族の自慢だった。頭も良く運動も得意で、何より天性の愛嬌があってよく人の目を惹き付けた。春の陽射しのように笑い、慈雨が降るように泣く。他人と上手く関係を築けず、問題のある子どもとして教師にも匙を投げられたイソップとは、まるで反対の存在。疎ましく思ったことも、羨ましく思ったこともない。ただ、そんな姉を愛しく思っていた。
 ――イソップ、あなたは素敵な人間だわ。ただ、みんながそれに気付かないだけ。
 姉は、些か困った善性の持ち主だった。性根が善良な者特有の、強引さと傍迷惑さを持ち合わせていた。イソップは別に女の子たちのお人形遊びに加わりたいわけでもなければ、男の子たちと川辺で泥遊びをしたいわけでもない。ただ一人遊びで満足しているイソップを「それじゃみんながイソップの素敵なところに気付けないわ!」と連れ出すのは、ありがた迷惑以外の何物でもなかったけれど。それでも、美しい姉が視界にいるから面倒なだけの時間でもなかった。
 ――あなたが愛さなければ、だれもあなたを愛してくれないわ。
 それはまったく余計なお世話だった。イソップが欲しかったのはただひとり、姉の愛だけだ。それは常にイソップの傍にあったし、或いは一生手に入らないとも言えた。少なくともイソップは、愛する姉に愛されている。こんなところまで弟を心配してやって来るほどには、姉はイソップを愛している。それだけで、イソップは満足していた。救うべき人間を救う、そのためにこの狂ったゲームに参加しているけれど。心残りがあるとすれば、帰れなければ姉をこの手で送れないということだけだった。姉は素晴らしい人だ。人間を愛し、善性を愛し、世界を愛し、生を愛し。この狂ったゲームでも、他人のために必死に駆け回る。そんなことをしても何の得にもなりはしないのに、他人に手を伸ばすことを躊躇わない。最初は「何が目的か」と疑う人間だって、すぐに気付く。姉は心底、「困っているひとは助けて当然」と考えて動いている馬鹿なのだと。そうしてまた、姉に信頼や好意を抱く人間は増える。そんな姉のことを、イソップは愛していた。困ったほどに人の悪意に無知で、迷惑なほど全ての命を平等に扱う。一秒後に命が消えるかも知れないような場所で、平然と明日を信じて生きている。
「はやく死んでしまえばいいのに、姉さん」
「お、おい……」
 机に突っ伏したイソップがぼそりと呟いた言葉に、さすがに剣呑だと感じたウィリアムが声を上げる。けれどその肩を掴んだナワーブは、「よく見ろ」と呆れたようにイソップを指した。
「恨みや憎しみで言ってる顔じゃねえ」
「……そう、かもしれねえけどよ」
 いつもは死人のような白さを保っている頬はほんのりと朱に染まり、その目元は紅を差したように赤い。まるで恋する乙女のような表情に、ナワーブもウィリアムも渋面を作る。イソップが語る姉への愛にはしばしばその愛を疑ってしまうような罵倒も含まれていた気がするのだが、姉の死を願う言葉だけは本当に心底それが姉の幸せだと思っている顔だった。恐ろしいまでの純愛をもって、イソップは愛する姉の死を希う。ふたりがイライの方を見遣ると、彼は黙って首を横に振った。
「幸せは人それぞれだからね」
「お前、面倒になってきてるだろ」
 肩を竦めたイライにため息を吐いて、ナワーブはそろそろ潰れそうなイソップの肩を掴む。「寝るなら部屋に戻れよ」と促すナワーブは、結局のところ面倒見が良かった。
「――あら? イソップがお友達と飲んでるなんて珍しいわ」
 軽やかな足音と鈴を転がすような声に、ナワーブたちは揃って顔を上げる。酒瓶が転がる部屋には似つかわしくない、小鳥のような愛らしさ。つい先程までイソップがひねくれた純愛を吐露していた本人の登場に、男たちは気まずそうに顔を見合わせた。
「こんばんは、ミセス。貴女がこんな時間にここに来るのも、珍しいですね」
「ええ、喉が乾いて目が覚めてしまったものだから……イソップ、寝てしまったの?」
「…………、」
「寝てはいなさそうだけど、時間の問題だな」
「それじゃあ、私が連れて帰るわ。ふふ、子どもみたいな顔をしてる」
 あまりにも颯爽とがイソップに肩を貸したものだから、そしてイソップも不明瞭に呻きながらも大人しく立ち上がったものだから、イライたちは「仮にも女性に男を送らせるわけには」と止める機会を失った。「あら、イソップ、少し大きくなったのね」などと呑気なことを言いながら歩いていくを、半ば呆然として見送る。
「そうだ。皆、イソップとお話してくれてありがとう」
 思い出したように振り向いたが、快活に笑ってナワーブたちに礼を言う。「これからも弟と仲良くしてね」と微笑む彼女が、あまりに無邪気なものだったから。
「俺たち、別にあいつの友達じゃないんだよな……」
 ウィリアムがそうこぼしたのは、彼女たちの足音が遠ざかってからのことだった。

「姉さん、姉さん……」
 無事イソップを部屋まで送り届けたが立ち去ろうとするのを、腕を掴んで引き止めた手。酒の回っているイソップの手のひらはぽかぽかと温かく、は「なあに? イソップ」と微笑んでベッドに横たわる弟に顔を寄せた。
「お水がほしい? 子守唄が聞きたい? 姉さんにできることなら、何でもしてあげる」
「なんでも……?」
「そう、なんでも。イソップに、お友達ができたんですもの」
 別に、友達ではないのだけれど。姉がそう思っているのなら、わざわざ訂正をする必要もない。陶器のように白い姉の頬に指を滑らせて、イソップは口を開く。なんでも願いを聞いてくれるというのなら、ひとつだけどうしても叶えたい願いがあった。
「ねえさん、」
「うん?」
「ぼくより先に、死んでくださいね」
「あら、」
 子どもが縋るように呟いたイソップの「お願い」に、はぱちりと目を瞬かせる。ふっと木漏れ日のように眉を下げて笑んだは、柔らかな眼差しを向けて「わかったわ」と呟いた。もイソップも、薄々とわかっている。もう、きっと誰もこの荘園から出られない。生きては、戻れない。わかっていて、ここに来た。イソップは、信念のために。は、弟をひとりにしないために。優しい姉が、全てのひとのために生きている姉が、愛する夫や我が子を置いてまでイソップを追ってきた。本当に馬鹿な姉に、もう十分なほど愛されている。だから。
「ぜったいですよ」
「ええ、私の可愛いイソップ。約束よ」
 遊びに連れ出してくれても、友だちひとり作れなかった。姉が心を砕いてくれたのに、学校も辞めてしまった。愛する姉のために何もできなかった自分が、唯一姉のためにできること。きっと、完璧に葬送するから。この世のだれよりも美しく、その終わりを飾るから。だから、もう笑ってくれなくてもいい。名前を呼んでくれなくてもいい。ただ、イソップが死ぬより先に死んでくれれば、それだけでいい。今姉が生きていることだけが、姉のどうしようもない欠点だ。本当は、今すぐ死んでほしい。最高の終わりを、イソップが用意できるように。だけど、イソップはいい子だから。その首に這わせた指に力を込めることは、結局しなかった。
 
200211
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