ナワーブの姉は、生まれつき体が弱かった。彼の記憶にある限り、姉が三日と続けてベッドから離れられた試しはない。すぐに思い浮かぶ姉の姿といえば、粗末な寝床に横たわってナワーブに微笑みかける姉の白い顔だった。
「ごめんね、ナワーブ」
 あまりにも弱い生き物だ。水を一口飲むのにすら咳込み、自分の力では満足に上体を起こすことさえできない。姉の背中を支えて起き上がらせ、その口元でコップを傾けてやるのはいつもナワーブの役目だった。毎日、彼は姉を起こして水を含ませる。毎日、姉は目を伏せて彼に謝った。
「いつもごめんね、ナワーブ。お友達が、呼んでるのに」
「別に」
 毎日毎日陰鬱な顔で謝られては、こちらの気分まで滅入ってしまう。素っ気ない返事を、どうせこの姉は聞いてはいまい。ただ姉は、謝りたいだけだ。謝って、卑屈な表情をしている自分に満足しているだけだ。そんな生き物に、いちいち寄り添って付き合ってやる必要などない。ナワーブが慰めようが、励まそうが、無視をしようが、生返事をしようが。姉の口から零れる言葉は、ひとつも変わりやしないのだから。「ごめんね、ナワーブ。お友達と遊びたいよね」「ごめんね、ナワーブ。お勉強したいよね」「ごめんね、ナワーブ。お外を走りたいよね」ごめんね、ごめんね、ごめんね。姉はいつもそればかりだ、うんざりするほどに。ナワーブの姉は病弱で、同じ言葉ばかり繰り返して、周りの手を煩わせるばかりで。それでも、ナワーブの先に生まれてしまった生き物だ。仕方がないので、大切にしていた。

「ナワーブ、今までごめんね、ありがとう」
 ナワーブの仕官が決まった頃、姉が結婚することになった。そのことを話すためにナワーブの部屋に来たの第一声は相変わらず「ごめんね」なのだから、本当に姉は徹頭徹尾こういう生き物なのだなと、呆れるでも怒るでもなく淡々と思う。骨の髄まで、卑屈と諦観に浸かって生きている。昔より多少マシになったのは、体質だけだ。どうしようもない姉の気質は、少しも変わらない。これからもきっと、一生変わらないのだろう。
「私がいたせいで、いっぱい我慢させてごめんね。これからは、ナワーブに迷惑をかけないようにするからね」
 単にお前の面倒を見る相手が変わるだけではないかという言葉は、呑み込んでやった。体の弱いは、誰かの助けがなければまともに生きていけない。その「誰か」が変わるだけで、結局一人で立てやしないのだ。気付いていないのか、目を背けているのか。けれどがその事実を直視しないのなら、ナワーブもそれを突きつけはしまい。現実を真っ直ぐに見据えられないほど弱くとも、は彼の姉だった。姉という、同じ血を分けた少し尊い生き物。その存在への小さな敬意と愛をもって、ナワーブは口を噤んだ。
「私、がんばるね。きっと良いお母さんになるね。いつか、ナワーブみたいな良い子のお母さんになるの。がんばる、から」
 外にあまり出られないせいで、不気味なほど白い肌。頼りない、痩せた腕。その足取りは、ふらふらと危なっかしい。こんな生き物でも、大人になって嫁に行き、誰かの母親になるらしい。それはまあ、大したことかもしれないなとナワーブは適当に姉を祝ったのだった。
「まあ、元気でやれよ」
「うん、ナワーブ。今までありがとう」
 小さく整った顔が、カスミ草のように控えめに綻ぶ。あまり大柄とは言えないナワーブよりなお小さい、華奢な体。軍に入るために鍛え上げたナワーブと比べるまでもなく、どこもかしこも弱々しい。人間というものはどうして、強い者が弱い者を助けなくてはならないのか。どうして、ひとりでは生きられない役に立たないものを生かさなければならないのか。それは決して姉への恨みや怒りではなく、むしろ哀れみだった。獣に生まれていれば捨て置かれすぐに死ぬことができたものを、人間に生まれてしまったばかりに弱いまま生きていかなければならない。羽化できなかった蛹が、ガラス瓶の中で生かされているのを見ているような憐憫。一生蝶にはなれないままただ生きる姉は、ただただ惨めで哀れに思えた。

 少し考えれば、わかるはずだったのだ。ろくに働けないあの女が、何を目当てに娶られたのかなど。荒い息遣いの姉の頬は、普段は死人じみた青白い肌に血が巡って赤く色付いて綺麗だった。そう、綺麗なのだこの女は。器量だけは、昔から村で一等良かった。今だって、何も塗っていないはずの唇がまるで紅を差したように鮮やかで艶めいた赤色で。床に転がった、の夫だった中年の男。成金の小金持ちが姉を迎えた理由など、ただの器量望みだ。誰にだってわかるものをナワーブが今の今まで気がつかなかったのは愚鈍ではなく興味の薄さによるものだが、とて卑屈ではあっても馬鹿ではない。わかっていて嫁いで、わかっていて今日まで年の離れた夫の情婦めいた扱いに耐えていた。戦地から久々に帰ったばかりの弟が、すぐに噂を耳にするほどの性的虐待。ナワーブを見てヒソヒソと言葉を交わす井戸端の女たちから事情を察して彼が姉の嫁いだ家を訪れたとき、姉は夫だった男のでっぷりとした腹に包丁を突き立てたところだった。急に耐えられなくなったのか? 違う。溜まりに溜まっていた不満が、噴出したのか? 違う。嫁いだ理由も、夫を手にかけた理由も、同じだ。
(俺のため)
 その答えに至ったとき、もしかしたらナワーブは笑っていたのかもしれなかった。いじらしいことじゃないか。前途ある弟の未来を潰したくないがゆえに自分自身を厄介払いし、戦争で心身を摩耗させて帰ってきた弟に不幸で汚い自身の姿を見せまいと夫との心中を図った。姉から取り上げた包丁の柄を丁寧に拭い、自分の指紋をつける。なんだか急に、という姉が可愛く思えた。
「俺が殺した」
「……え?」
「誰に何を聞かれても、俺が殺したと言え。姉の扱いに激昂した戦地帰りの弟が、夫を殺した。あんたはずっと従順だったし、俺は人殺しが商売だ。誰も疑わない」
「なに、言って、」
 愕然と弟を見上げる姉の頬についた血を、指の腹で拭う。血に汚れた亜麻色の髪を見て、これはどう言い繕うかと眉を顰めた。
「あんたは俺から夫を庇った。だから血を浴びた。そういうことだ」
 もう少し真実味を付け加えておくかと、ナワーブはおもむろにの腕を切りつけた。あたかも、揉み合いの中で包丁が掠ったかのように。呆然とナワーブを見上げるは、切られた痛みも気にならないらしい。何か言おうとしていただが、どうせ「ごめんね」だろう。包丁を投げ捨て血を顔の目立つところに塗り、ナワーブは家を出た。姉はちゃんと嘘をつけるだろうか。もしかしたら本当のことを言ってしまうかもしれないが、その後のことには興味がなかった。どうせもう二度と、会うことはない。姉が嫁いだときも、そう思ったはずなのだが。それならば、いつかまた思いもよらぬ形で再会することもあるのかもしれない。夜闇に半ば紛れるようにして、ナワーブは生まれ故郷を永遠に去ったのだった。

「ごめんね、ナワーブ」
 ああ、この女は本当に変わらない。きっともう一生、変わらないのだろう。弱々しさを全身で訴えるような、儚い笑み。今はその笑みも、それなりに好きだった。
「ナワーブがいるって、聞いて。招待状をもらったの。『あなたの会いたい人がお待ちです』って」
 折れそうなほど細い指先が、一通の手紙を差し出した。ナワーブはそれを受け取って、宛名だけ確認する。姉のファミリーネームは、あの夫のものだった。
「ちゃんと嘘は言えたのか」
「うん、ごめんね。ごめんねナワーブ。私、あなたを人殺しにしたの」
「別に。元々俺は人殺しだ」
 その顔に、悲壮な色はない。まるで穏やかな窓辺の日々の続きのように、けれどあの頃は決して浮かべなかったであろう晴れやかな顔で、は笑っていた。
「あんた、欲しいものでもあるのか。それとも死にに来たのか」
「ううん、ナワーブに会いたくて。会って、お礼を言わなきゃって」
 そう言って、姉はナワーブの手を取る。今にも死にそうなほど脆くて小さくて、白い手だった。
「ありがとう、ナワーブ」
 屈託のない笑顔に、ナワーブは思い出す。もうだいぶ擦り切れてしまった、幼い日の記憶。あれは姉の世話をするようになったばかりの頃だった。その時はまだも、こういうふうに笑っていた。素直に、無垢に、ただありがとうと。自分はどうしてずっとこの弱い姉を守っていたのだろうと、不思議に思っていたけれど。そうか、これのためだった。弱いの脆い笑みが、それを見たナワーブの胸にずっと突き刺さっていた。その感謝が心地良くて、満たされて、いつしか姉が笑わなくなってもずっと。自分が何を欲しかったのか忘れてもずっと、姉を守り続けた。
「どうしたしまして、姉さん」
 くっ、と無邪気な笑みが浮かぶ。たとえ行き先が地獄でも、この女には関係ないのだろう。だってナワーブは、いつだってこの姉の宝物だった。病弱で何も持たない惨めな姉の、唯一の宝物。滑稽で、可笑しくて、いじらしい。記憶にあるかぎり初めて使った「姉さん」という呼称に、の顔がぱっと明るく輝く。このちゃんちゃらおかしい地獄の中でくらい、姉弟ごっこをしてやってもいいと思った。
 
200720
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