二歳違いの兄がいると知ったとき、憐憫という感情を知った。生みの母に魔法使いというだけで忌避され、生命を拒む北の国に捨てられた王子。その存在を知ったとき、胸の裡に芽生えた感情。さびしい、かなしい、かわいそう。王妃である母のことも、国王である父のことも愛していた。けれど、自分より先に生まれて幸せに生きるはずだった兄の居場所に滑り込んだということに、罪悪感を覚えて。
「けど、それって傲慢だよね。だって君は兄の居場所を奪ったまま、のうのうと生きてたんだから」
 そう、傲慢だ。憐れむばかりで、両親に愛されるその居場所を譲ることはしなかった。臆病で、卑怯で、気高さとは程遠い。
「でも、君は悪くないよ。君は小さな子どもだったんだから。兄の記憶なんてほとんどなくて、母親に溺愛されて。ほとんど他人みたいな兄のことなんて、おざなりになって当たり前だよ」
 そうやって、自分に言い訳をした。結局兄のために何もしなかったことに、正当性を探した。
「だって、母親が可哀想だったんでしょ。魔法使いを産んじゃった王妃様が追い詰められているのを、自分まで責めたら可哀想だって思ったんでしょ? 仕方ないよね、君は人間でよかったよね」
 縋るように自分を抱き締める母親が、
「怖かったんでしょ? もし魔法使いに生まれていたら、ただそれだけの理由で自分も捨てられてたんだって気付いちゃってさ」
 愛してくれるのは、人間だから。たとえば、もし嘘でも「私は魔女です」などと口にしたなら、この腕は自分を突き放すのだろうか。ただそう生まれたというだけで、捨ててしまえるのだろうか。そう思うと、怖かった。愛しているからこそ、愛されているからこそ、怖かった。
「でも、よかったね。だって今度は、君がいらなくなったんだもの。君が可哀想なんだもの。もう、臆病で卑怯な自分が捨てられる日を想像して怯えることはないよ」
 左右で違う色の瞳が、うっそりと細められた。カナリア色の左目の本来の持ち主は、絶対にそんな目で人を見下ろすことはない。暖かくて優しいあの人の瞳が、嘲りと蔑みを孕んで月明かりを反射していた。
「おめでとう、望まれた人間のお姫様。可哀想じゃなくなったお兄様の代わりに、君が可哀想になる番だよ」

 グランウェル城のお姫様が、事故で歩けなくなりました。北の国から戻ってきた王子様は、すぐに皆に慕われるようになりました。歌い上げるように、死人のような青年はに現実を突きつける。無垢で残酷な笑みを浮かべた魔法使いは、北のオーエンだ。恐ろしくて理解し難いけれど、今のこの城で唯一に平然と話しかけてくる存在。皆、を嫌ったり疎んだりしているわけではない。ただ、どう扱っていいのかわからなくなってしまっているのだ。王子が帰還する少し前に、事故で脚が馬車の下敷きになって。神経が潰されたのか、脚の感覚を失ってしまった。優秀な中央の国の後継者として見做されていた彼女がそんな目に遭って、城が暗く沈んでいたとき。希望を運ぶように北の国から戻ってきたのは、の兄であり魔法使いであるアーサーだった。もっとも、アーサーがその時期に戻ってきたのはただの偶然だったのだが。あまりにも、タイミングが良すぎて、悪すぎた。今や、グランウェル城でが未来の女王だったことを口に出すものはいない。彼女が為政者になるべく毎日幼いながらに努力していた日々は、戻ってきた王子様の栄光の影に消えた。は、王位に未練があるわけではない。兄のことを、疎んでなどいない。ただ、自分が腫れ物のように扱われていることはわかってしまうのだ。皆優しいから、口に出して「アーサーが戻ってきてくれたおかげでが不具になっても困らない」と言うことはなかったけれど。アーサーの資質を称える一方で、の存在は皆の話の中から消えた。まるで、初めからいなかったかのように。
「優しさって、残酷だよね」
 それはそれは楽しそうな笑顔を浮かべて、死人のような青年はに語りかけた。アーサーと同じくらい綺麗な顔なのに、ぞっとするほど冷たい。真っ赤な血のような両目が、にやにやとを見下ろしていた。
「君を傷付けたくないから、みんな君をいないものみたいに扱うんだ。ねえ、それって優しさ? 君は、それを優しいって思うんだ?」
「……どうして、ここに」
「質問に質問で返すなよ、王女様のくせに礼儀も知らないの?」
 途端に突き放すような冷たい声が浴びせられて、は反射的に身を竦めた。北の魔法使いであるオーエンが、どうして人気の少ない区画とはいえ中央の国の、グランウェル城にいるのか。オズやミスラたちと並んで悪名高い彼が、優しさゆえにに話しかけたわけではないことは明白だった。だってその目には、好奇心というにはあまりに残酷な感情が澱んでいる。
「……みんなは、優しいです」
「ふうん。まだいい子でいたがるんだ? そんなふうにしたって、もう誰も君になんて目を向けないのにね」
「いい子なんかじゃ……それに、私はずっとこう、です。今までも、これからも……」
「なんだ、『いい子』以外の生き方を知らないだけか。惨めだね」
 にやにやと、楽しそうに笑う。その口元はちょうど、『大いなる厄災』が三日月の形に欠けたときにそっくりだった。
「『いい子』なんて辞めなよ。いくらお前がいい子にしてたって、もう誰も見向きもしないんだからさ」
「……あなたが」
「何?」
「あなたが、見てくれます。惨めで、無様で、卑怯な『いい子』を」
「……ふーん」
 意外とわかってるんだね、そう言ってオーエンは笑いを引っ込めた。もう誰にも見てもらえないとわかっていながら、それでも『いい子』であることを辞められない無様な姿。それしか知らなかった、惰性と打算の生き方。未だそんなものに縋っている愚かさを滑稽だと、この魔法使いは笑ってくれるのだ。誰もが直視することを避けるの惨めな姿を、優しくないこの魔法使いだけが視界に映してくれる。幼くして何もかもを突然失ったの心を慰めているのは、『そんなもの』だったのだ。
「わたし、きっと一生惨めです。滑稽で、馬鹿馬鹿しい生き物です」
「だから?」
「『だから』、あなたの退屈をほんのちょっと、紛らわせることができるかもしれません」
「…………」
「笑える生き物を見たくなったら……私を見てくださいませんか」
 天邪鬼な魔法使い。そんなオーエンを相手に、こんな取引を言い出すことが既に愚かだ。望んでいるとわかっていて、笑いものにしてくれるような優しい魔法使いではない。だがオーエンは、の虚勢を見通している。怖くて、傷付けられたくなくて、それでも傍に誰もいないことが寂しい。誰もいないくらいなら、誰かに馬鹿にされることの方がほんの少しだけ良い。それを自覚してしまっている賢さは、不幸だろう。その惨めったらしい性根が、気まぐれな赤い瞳の視界に留まった。ある意味ではそれこそが、彼女の最大の不幸かもしれなかった。
「ふうん。いいよ。惨めな自分自身を笑うしかない、馬鹿なお姫様。笑えるうちは笑ってあげる」
 それは、約束などではない。契約でもない。ただの、愚かな『お願い』。窓からやって来た魔法使いが姫に与えたものは翼でも奇跡でもなく、希望というにはあまりに惨めな言葉だった。それでも、には十分すぎたのだ。だって、
 ――よろしく、。俺はカイン、あんたの騎士だよ。
 魔法使いは本当のことを言わない。大好きなあの騎士も結局そうだった。魔法使いだけれど、騎士であろうとしている金糸雀色の瞳の少年。に笑いかけて、貴女が主だと傅いて、それはきっと嘘ではなかったのだろう。欺こうとして、偽ったわけではないのだろう。
 『よろしくな、アーサー。俺はカイン、あんたの騎士だ』
 畏まった態度から一転、悪戯っぽい笑みを浮かべた騎士がアーサーに手を差し出している。この高い窓からは、庭の光景がよく見えた。に向けたものと、同じ笑顔。偽りのない忠誠。本物の敬愛。はにかみながらも堂々と、アーサーはそれを受け取る。どこかで見たような、光景だった。
「ああ、可笑しい」
 の代わりに、笑ってくれる。心底可笑しそうに、笑ってくれる。『いい子』のには到底真似できない、悪意に満ちた笑顔だった。
「君たちは本当に可笑しくて、笑えるね」
 お腹を抱えて、愉快そうに。嘲って蔑んで、心から面白がって笑う。は笑えない。ひとかけらも、笑えない。それでもオーエンが笑うのを見て、胸の奥が少しだけ軽くなる。それはきっと、知ってはいけない類の安堵だった。
 
210804
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