我妻は、弟を大切に想っている。例え、血が繋がっていなくとも。
「なんだってあんなクズを庇う」
 面白くなさそうに、獪岳は肩を竦めた。桑島の拾い子ではあっても剣士ではないだが、獪岳の態度は善逸に対するそれよりは幾分か柔らかい。もっとも、善逸からを引き剥がそうという打算もその優しさには含まれているのかもしれなかったが。鈍いと言われるだが、獪岳が善逸に向ける昏い敵意にはさすがに気付いていた。汲み上げた水で重い桶を奪うようにして代わりに持った獪岳に、は困ったように眉を下げる。
「庇うつもりは……あの子はクズなんかじゃありません」
「それを庇ってるって言うんだよ」
「弟ですから」
 善逸は、心根の優しい子だ。自身も捨てられて打ちひしがれていたのに、親に置いて行かれてわんわんと泣き喚いていたに「だいじょうぶ?」と声をかけてくれたのだ。風を遮るものもない河川敷でふたり寄り添い合って眠り、汚れた手を繋いで宛てもなく歩いた。善逸は耳のいい子で、危ないものが迫っているときにすぐに教えてくれたから無事生き延びることができた。それなのに自信がなくて怖がりな善逸は、いつもにくっついて離れなくて。小さな善逸を守らなければと自身に言い聞かせることで、はどうにか自分を奮い立たせることができた。二人で助け合ってどうにか人並みの暮らしを手に入れて、けれど善逸がその善良さ故に信じた人間に裏切られて落ちぶれていく中、は愚かにも共に苦労を背負って歩いた。には可愛い弟を諭すことなどできなかったのだ。弟の信じたい人間を、も信じたかった。弟が騙されていると、姉のが思いたくはなかった。誰が善逸を嗤おうとも、だけは善逸の味方でいたいと思った。それらは結局ひどい過ちで、は善逸のために何もしてやれなかったけれど。桑島が二人を引き取ってくれたおかげで、真っ当な道に戻ることができた。誰かのために生きたいと、思うことができた。本心を言えば、善逸には危ないことをしてほしくない。のように、家事手伝いではいけないのか。なぜ修行から逃げるほどに怖がっている善逸を、命懸けで戦う剣士にしなければならないのか。けれど、はどうにも善逸を駄目にしてしまう。がいつまでも善逸をひた隠しに守ろうとしている限り、善逸は自分を誇って生きることができない。の愛情は、善逸のためにならないのだ。自分が生きていていい理由を、もう弟に求めてはいけない。桑島たちと暮らし始めて、そう気付かされた。獪岳の嫌がらせや罵倒から守ってやる程度なら良いだろうが、修行から逃げ出す善逸を匿ったり「やりたくないならやらなくていいの」と庇ってやったりすることは愛情ではないのだ。弟への過保護から脱却しようとしているを、桑島は優しく見守ってくれている。「お前も強くなろうとしている子だ」と、がつい善逸に伸ばしそうになった手を抑えて俯く背中を優しく叩いてくれるのだ。
(この時間がずっと続けばいいのに)
 やはり愚かな性分は変わらなくて、そんなことを思ってしまう。善逸がずっと、最終選別になど行かずにここで修行をしていてくれたらと。どこにも行かずに、の可愛い弟でいてくれたら。朝には修行に行きたくないとぐずり、夕方はもう嫌だと泣きながら飛び付いてくる。そんな日々がずっと続いていたっていいではないかと、浅ましい絵空事を描いてしまう。どこかに行かなければいけないのだ、善逸も、も。ずっと二人だけでは、いられない。
「……血が繋がってないんだろ」
「? はい」
「そんなのが、『弟』だってのか」
「弟ですよ、たった一人の。先生は大切なおじいちゃんで、獪岳さんはお兄ちゃんです」
「兄だと? ふざけたこと言うんじゃねぇよ」
 汲み置きの水を入れる甕に、桶の中身を移す。ざばさばと勢いよく水のぶつかっていく音に、の返した言葉はかき消された。

「姉ちゃん、獪岳の嫁になるって本当!?」
「あら、善逸。先生から聞いたの?」
「嘘でしょ!? あいつ性格悪いよ!」
「うん、知ってるから大丈夫。顔を洗っておいで、善逸」
 に飛び付いてガクガクと揺さぶる善逸は、鼻水と涙で顔がとんでもないことになっていた。ちょうどが朝食の配膳を済ませたところで、この場には獪岳もいるのだが。我関せずと席に着いた獪岳に、善逸はギッと鋭い視線を向けた。
「何考えてるんだよ獪岳! お前が姉ちゃんを嫁に欲しがるわけないだろ!」
「うるせぇな」
「姉ちゃんに手を出したら許さないからな!!」
「汚ねえ顔を近付けんな」
「善逸、顔を洗っておいで」
 獪岳に掴みかかって押し退けられた善逸に手を差し伸べ、はにこにこと再び洗顔を促す。けれどぎゅっとの腕にしがみついた善逸は、顔から出るものを全て出しながら泣き喚いた。
「姉ちゃん、獪岳なんかの嫁にならないでよぉ……!」
「でもお姉ちゃん、獪岳さんくらいしか貰い手がいないの」
「姉ちゃんならもっと良い男見つかるって! 俺が探してくるから……」
「見つかる頃にはこいつは行き遅れだな」
 獪岳が善逸の尻を蹴り飛ばし、縁側に転がった善逸は「何すんだよ獪岳!」と憤るものの桑島に見つかり叱られて。井戸へと追いやられた善逸を見送り、は苦笑しながら桑島と獪岳の茶碗に飯をよそった。
(自分がこいつを引き取るとは言わないんだな)
 あれだけべったり甘えているくせに、あれだけ女が好きと騒いでいるくせに、善逸はを全くそういう目で見ていないらしい。も善逸に妙に執着しているわりに、自分が善逸の伴侶になろうという考えは微塵もないらしかった。血も繋がっていないくせに、この二人はどこまでも姉弟くさかった。桑島が提案した獪岳との結婚にが頷いたのは、ただただ善逸のためだ。善逸の唯一の気がかりである自分をさっさと片付けて、尚且つ善逸と不仲の兄弟子との緩衝役になる。恋慕の情でもないくせに、血も繋がっていないくせに、は善逸のためだけに生きようとしていて。そんなこの女が不気味で、苛立たしくて、けれど不思議と嫌悪はしていなかった。雷の呼吸の継承者として認められるために使える材料だと思ったから、獪岳は桑島の提案に頷いたが。最終選別から帰って来たら結婚するという話だが、どうせ鬼狩りの任務に追われて夫婦としてまともな生活をすることはあるまい。はただ、善逸も旅立った後にここに残る理由が欲しいだけだ。善逸がいつか帰って来るかもしれない場所に、留まり続ける言い訳。お互い、相手に対する愛情など無い。だからこそ、この茶番劇は案外長持ちするかもしれなかった。
「無事に帰ってきてくださいね、獪岳さん」
「……ハッ」
 兄だの、家族だの。微塵もそんなふうに思っていないくせに、この女は模範的な婚約者のように笑ってみせる。そういう滑稽なところは、あまり嫌いではなかった。
 
200510
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