『姉さん』
 幼い頃、にはたった一人笑いかけてくれる家族がいた。小さな弟は、よりずっとずっと強くて。そしての持っていないものを、何もかも持っていた。一族の誰より秀でた才と、それに耐えうる体。一族からの、期待。或いは畏怖。それ故に監禁されていた弟は、けれどこの里の誰よりもカルムの業に愛されていた。対しては、何も持っていなかった。強い体も、技を会得する才能も、薬を作る器用さも。何も。弟には弟の、苦悩も苦労もあったのだろう。けれど、にもまたの苦悩と苦労があった。父親の関心は、弟一人に向けられ。里の中では、まるで空気のように扱われ。誰一人、名前など呼んでくれない。視線はを通り過ぎていく。そんな中、閉じ込められた弟の元に通うことはあまりに容易だった。たった一人、に笑顔を向けて話しかけてくれる小さな可愛い弟。全てを持って生まれた弟がほんの少し妬ましくて、羨ましくて、そして何よりも、愛おしかった。誰が弟を恐れようと、だけは弟の味方でいようと決めた。それが、小さな手の温もりにが返せる唯一のものだった。その手が年齢に似つかわしくない硬さと傷に包まれていようと、はその手を恐れなかった。抱き着いてくるその手がを害することなど、考えもしなかった。ただ、弟の与えてくれる小さな暖かさに応えてあげたかった。何も持っていないが弟に与えられるものは、それしかなかった。
 『姉さん、大好き』
 弟は、の柔らかい手のひらを蔑まなかった。の白く柔らかい手が好きだと、頬擦りしてくれていた。

「大好きだったんだ、姉さん」
「――シン、」

呆然と、は目の前の青年を見上げていた。猿轡を外され、咄嗟に名を呼ぼうとする。けれど、弟の面影のある青年はの口を塞いで、ゆっくりと首を横に振った。
「今は、シスと呼ばれている」
「……シス」
「人前では、そちらの名で呼んでくれ」
 もっとも、その機会があるかはわからないが。ポツリと『シス』が呟いた言葉に、は混乱のままに口を開く。聞きたいことはたくさんあるはずなのに、「どうして」とただそれだけしか言えなかった。
「どうして、か」
 は、子供の頃里から外に捨てられた。暗殺のできない者は、里に必要ないと。たまたま善良な薬師の老夫婦に拾われて、薬草を煎じて細々と生計を立ててきた。それは彼らが天寿を全うしてからも、変わることなく。小さな街の片隅で、小さな繋がりを大切にして生きていく。そうして、静かに一生を終えるつもりだった。あの里は、自分のいていい世界ではなかったのだと。そう思って、今いる世界を自分なりに大切にして生きていくつもりだったのだ。けれど、買い出しの途中で懐かしい声が「姉さん」とを呼んで。振り向いたときには、意識を失っていた。目覚めたときには何処ともわからない暗い部屋にいて、手錠と猿轡で拘束されていて。大きくなった弟が、を見下ろしていた。
「俺も聞きたかったんだ。どうして、」
「……?」
「どうして、俺を見捨てたんだ」
「っ、」
 今までどうしていたのだとか、里から出られるようになったのかだとか、どうやって自分を見つけたのかだとか、どうして拘束されているのかだとか。頭の中に浮かんでぐるぐると巡っていた疑問は、凍り付いて砕け散った。カルムの里のものではない、見慣れぬ装束を纏った弟は、の頬を両手で包み込む。「どうして」と、悲痛な色さえその瞳には浮かんでいた。
「俺にだって、お前しかいなかった」
 何も持たずに生まれてきて、誰からも期待されなくて。それ故に、血反吐を吐くような修行を強いられることもなく。その手を汚すこともなく。羨ましいほどに、綺麗で。窓辺に降り立つ小鳥のように、自由に彼の元へやって来ては温もりを分け与えてくれた。たった一人、彼を恐れず笑顔で接してくれる人だった。愛おしかった。このひとといるためなら人殺しでもいいと、そうまで思ったのに。
「それなのに、お前は俺を見捨てたんだ」
 里から追放されたのは知っている。最後まで、弟を気にかけていたことも。だから、きっと迎えに来てくれると思ったのだ。そんなことができるはずがないとわかっていても、諦められなかった。里の者たちを皆殺しにして、誰もいなくなった土地で。姉が帰ってきて抱き締めてくれるのではないかと、期待してしまった。けれど、姉は幸せに生きていた。カルムの里のことなど忘れ、弟が里を滅ぼしたことも知らず、小さな幸せを大事に抱えて生きていた。姉は、自分がいなくても生きていられるのだ。自分は、姉がいないとこんなにも苦しくて辛かったのに。
「……シンク、」
「……俺は、里を滅ぼした」
「え……?」
「皆、俺が殺した。もう、あそこには誰もいない」
「……わたしも、殺しに?」
 見捨てたと、そう恨まれても仕方のないことをした自覚はある。は弟を諦めたのだ。殺しのできない自分が追放されるのは当然だと、あの里に居場所はないと、諦めた。弟を残して行くことに心残りはあったが、結局は諦めたのだ。弟の傍には、里の皆がいる。がいなくとも、父親が、誰かが。そう考えると羨望さえ湧いてしまいそうで、は弟への嫉妬を抱いていることを自覚してその感情を嫌悪した。あの眩しい存在が目に入らない方が、心穏やかに生きていけるのではないかと。何も持っていないは、全てを持っている弟から逃げた。だから、殺されても仕方ない。無関心の反対にあるのは愛情ばかりではないと知っているのに弟を置いて行った自分は、殺されても仕方ないと思っていた。
「違う」
 けれど、弟はの手首を掴んで首を横に振る。殺しになど来たわけではないと、に顔を近付けて。良く似た面差しと、あまり似なかった髪質。手錠と手首の間には、肌に傷がつかないようにきちんと柔らかい布を巻いておいた。相変わらず柔らかい手のひらを自分の両手で包み込んで、目を細める。
「相変わらず、殺しには無縁なんだな」
「……うん」
「よかった」
 小さい頃とは違い、今はもうシスの方が手が大きい。背丈も、指の長さも。筋張った手の甲には、ゴツゴツと硬そうな関節が浮き上がっている。小さな少年は、大きな青年になった。何歳になったのだろうと、つい数えてしまう。小さい頃もきっとそうだったけれど、今のシスは簡単にのことを殺してしまえるのだろう。それでもやはり、の目の前にいるのは可愛い弟だ。小さくて眩しくて少しだけ憎らしい、柔らかい心を持った愛おしい弟だった。けれど、少しだけ怖い。すり、との手に頬を擦り寄せる弟の熱が。少しだけ、怖かった。
「もう、二度と俺を見捨てないでくれ」
「……っ」
「傍にいてくれるだろう、『姉さん』」
「シン、ク、」
「……俺は」
 するりと、シスの手がの背中に伸びる。エルーン特有の背中の開いた服は、その接触を阻むことなく。つうっと、無骨な指がの背筋をなぞった。
「お前に、償ってもらいに来たんだ」
「つ、ぐなう……?」
「俺はきっと、お前がいたら里を滅ぼさなかった」
 手首を掴むシスの手に、ギリッと力が込められる。言葉と手首、両方の痛みには眉を下げて息を詰まらせた。
「別に人殺しでも良かったんだ、お前さえいてくれたら」
「……ご、めんなさい、」
「責めてるわけじゃない。ただ、返してくれ」
「返す、」
「家族を」
 大きな体が、の体を抱き竦める。の肩口に頭を埋めて、シスは囁くように言った。
「俺に家族を返してくれ、姉さん」
 たった一人の姉なのに、逃げた。里の者たちも、手にかけてしまった。だから、再び出会えた今『家族』を返してほしい。「姉さん」とを呼ぶシスの声は、まるで泥のように重かった。
 
200422
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