「母様は、約束でちゃんを守らせるようなことをしたくなかったんだと思います」
 優しくも強いルチルは、そう言って眉を下げた。どうしてチレッタはミスラにを守ると約束させなかったのだろうとこっそり尋ねた賢者に、ルチルは遠くを見るような目をする。
ちゃんには強さが必要になるって、母様が言ったんです。どうしてちゃんがいなくなっちゃうの、って泣いた私に」
「強さ……?」
「はい。自分自身のための強さを身につけないといけないって……本当に、小さい頃から人に気を遣う子でした。まだ言葉もまともに話せないうちから、声を出さないようにって抑えてて……ちゃんが私の背中を叩く回数に意味があるんだって気付いた時、とてもびっくりしたんです」
 一回叩いたときは、ご飯ができたとき。二回叩くときは、両親が呼んでいるとき。肘のあたりを連続で叩くときは、助けてほしいとき。まだ魔法という概念も理解していないような幼子が、既に他人を害する力であることを理解していることが衝撃的で、悲しくて。こんなに小さいうちから他人のことばかり優先するはいつの日か喉を潰してしまうだろうと、例え双子の予言がなくとも予期できてしまうような。だからきっと、自身の幸せのためにミスラに預けられたのだと思うことにしたのだ。そしてそれは、ミスラの幸せを願ってのことでもあったのではないかとルチルは思っている。
「たぶん……約束なんてしなくても、ミスラさんが自分でちゃんを守りたいって思うような……そんな関係を築いて欲しかったんじゃないかなって」
 その言葉に思い出すのは、ヒースクリフとシノのすれ違いだった。ちゃんと話し合う機会もないまま、互いを守ることを約束させられて。そんな約束がなくとも守りたいのに、そんな約束で縛りたくないのに、互いに手を差し伸べたいときにいつも約束の影が付き纏う。本心から信じ合いたいと願ったときに、枷になる約束。ミスラと傍で長く関係を築いてほしいと願ったからこそ、チレッタはミスラにの守護を約束させなかったのだろう。
「ミスラさん、他人から押し付けられたものほど執着しなさそうですから……自分の心で執着するものに、お互いなれるように願いたかったんだと思います」
「……チレッタさんは、ミスラとをひとりにしたくなかったんですね」
「そうですね。ただ……」
 顔を上げたルチルが見遣ったのは、食堂のテーブルでわいわいと盛り上がる年少組とネロだった。これまでのの食生活の酷さに料理人や保護者の魂が刺激されたらしいネロは、の食育を自ら行おうと決めたらしい。好きな食べ物を中心にすれば色んなものをバランスよく食べさせられるのではないかと、に食の好みを聞いているところだった。ただあまりにもの食べ物への関心が薄く受け答えが曖昧だったため、と仲良くなりたいミチルとリケがあれこれと好きな料理やおいしい食べ物について教えながら興味を惹こうとしているのだが。オムレツ、スープと具体的な料理名を言われてもピンと来ない様子のに、ネロは穏やかな表情でゆっくりと目を合わせて問うた。
「普段は、どんなものを食べていたんだ?」
「……おにく、です」
はお肉が好きなんですか?」
「ブラッドリーさんと気が合いそうですね……」
「あいつはフライドチキンだのアヒージョだの、味の濃い肉ばっかり好きだからなあ……が食べてた肉はどんなのだ? しょっぱく焼いてるとか、甘辛く煮付けてるとか……」
「……ええと、」
 逸る少年たちをさりげなく制しながら丁寧にの好みを聞き出そうとしていくネロの手腕に、賢者は感心する。リケといいといい、どうにも世間ずれして危なかっかしい子どもに対して彼の隠れた面倒みの良さは遺憾無く発揮されていた。リケが食べることに楽しみを見出したように、のぼんやりとした表情が喜びに輝く様はきっととても可愛らしいのだろう。日頃の食事を思い返そうとするの様子を、ネロはゆっくりと待ってやっていた。
「冷たい、おにくと……冷たくない、おにく……」
「…………」
「……です」
「ちょっと誰かミスラに説教してこい」
「私が行ってきますね」
「俺も行ってきます」
 指折り数えて、ふたつ。ではなくミスラに対して呆れ果てた様子のネロに、静かに怒っているらしいルチルが呼応する。今にもミスラを張り倒しに行きそうなルチルをミスラの不機嫌から守るため、或いはミスラをルチルの張り手から守るために、賢者も手を挙げたのだった。
「ちゃんと名前のついた料理を食べに行きましょう、! あとおやつも、ジュースも……!」
、安心してください。ネロのご飯はおいしいんですよ。きっとすぐ好きな料理ができて、ネロに作ってもらいたくなります」
「……? ミスラのご飯、やさしい、です」
「お、おお……?」
 およそ食事には使われないであろう形容詞に、ネロは首を傾げる。それでもが何を言いたいのかきちんと聞いてやろうとするあたり、やはりネロはどうにも優しいのだった。周りとは温度差のある、嬉しそうにさえ見える表情ではぽつりと呟く。
「いちばん柔らかいところ、くれます」
「――喉でも詰まらせたら、面倒ですから」
「ミスラ、」
 ここにいたんですか、とミスラがの背後に現れる。今まさに叱りに行こうとしていたミスラに対して口を開こうとしたルチルだったが、ぬっとに向かって腕を伸ばしたミスラがぽとりとその手に落としたものを見て絶句した。
「三羽獲れたので、一羽はあなたの分です」
「ありがとう、ございます、ミスラ」
「それは自分で食べれますよね」
「……いや、いやいやいやいや」
 いち早く我に返ったネロが、の手のひらに落とされたもの――野鳥の死骸をその手から取り上げる。「子どもから食べ物を横取りしないでくださいよ」と眉を顰めたミスラに、「違ぇよ!」と青筋を立てて声を荒らげた。
「まさかとは思うが、いつもこんな飯だったとか言わねぇよな?」
「はあ。いつもこんな感じですけど」
「処理もしてねぇ鳥を渡してどうすんだよ!?」
「羽を毟って皮を剥げば食えるでしょう。だってそのくらいできますよ」
「お前っ、お前なあ……!」
「……その鳥さん、食べるんですか……?」
 面倒を避けたがるネロが珍しく怒りを露わにしてミスラに食ってかかる横で、ミチルが恐る恐るといった様子でに問う。もう既に事切れてしまっている鳥だが、普段肉として売られている処理された姿ではなくまだ羽も揃っているそれを「肉」とみなすことに抵抗があるのだろう。ましてやそれを、この可憐な少女がミスラのように素手で握ってかぶりつくかもしれないと思ったら。
はあまりそのままでは食べませんね。行儀が良いみたいです」
「本来お前が率先して行儀よくするべきなんだよ……!」
「生肉は食べにくいみたいで、煮たり焼いたりはしてるみたいですよ。急いでるときは生のまま食べさせますけど、は食べるのが下手で」
「下手も何も、生肉を噛みちぎるのって小さい女の子には難しいんじゃ……」
「そうみたいですね。を引き取ってから初めて知りました」
 だから食べさせてやってます、とミスラは言う。手のかかる子どもだとでも言いたげな表情だったが、一応ミスラなりに食生活には気を使っていたのかもしれないと賢者は引き攣りそうになる頬を抑えた。
「ちなみに食べさせるって……どうやって?」
「はあ、変なこと聞きますね」
 ひょいっと、ネロの手から野鳥を取り上げてミスラは躊躇もなくその首を折った。ごきっという鈍い音に固まる周囲など気にした様子もなく、その断面に口をつけて肉を齧りとる。赤に汚れた薄いピンクの塊を口内で幾度か咀嚼したミスラは、座っているの顎を掴んで顔を上げさせて。当然のようにそのまま口を合わせようとしたミスラを「わーーーっ!!」と叫んで止めたのは、賢者だけではなかった。
「何ですか。大きい声を出して」
「いやもうすみません、わかりました、もうわかりました、お願いだから! 勘弁してください!」
「ミスラさん、本当に、本当にこんなことしてたんですか!?」
「お子様たちの前なんだよ! 考えろよ! 第一子どもに何してんだよ、野生動物じゃねぇんだぞ!!」
 大人たちのただならぬ空気に、ミチルとリケはすっかり青ざめて手と手を取り合っている。目の前で鳥が肉になる瞬間を見た衝撃の方が大きいようで、ミスラのしようとしたことにまで気が回っていないのは不幸中の幸いなのか、どのみち不幸であるのだが。つまるところ「冷たいお肉」とは生肉で、「冷たくないお肉」とは火を通した肉のことなのだとわかって賢者は頭を抱えたくなった。隣のルチルは、信じられないものを見るような目でミスラを見ている。
「母様が、育児や料理の本を渡していたはずですよね……!?」
「ああ、そういえば渡されましたね。が気に入って読んでいましたよ」
「育児される側が読んでどうすんだよ!?」
「読んでもつまらなかったので……」
「つまるつまらねえじゃねぇんだよ!」
「……もう、ミスラさんに預けておけません! ちゃんは私たちが引き取ります!」
「俺の石を横取りする気ですか? いい度胸ですね」
「石って、何……」
 石という言葉に険しい顔をしたルチルの背中を、控えめに小さな手が叩く。ハッとして振り向いたルチルの背中を三回叩いたのは、困ったように眉を下げただった。
「……お話したいことがあるんだね? 大丈夫、ゆっくり話してごらん」
 三回は、聞いてほしいことがあるとき。幼い頃のやり取りを覚えていてくれた『ルチルお兄さん』に、は少しほっとしたように小さな息を吐いた。椅子に座っていると膝をついて目を合わせたルチルは、先程まで浮かべていた怒りなど微塵も残さずにっこりと笑った。
「その……わたし、たぶん、変なことします。ミスラも」
「……うん」
「すこし普通じゃない、かもしれなくて……けど、これからちゃんと、勉強します」
「うん、ちゃん」
「だから、ミスラのところに、いさせてほしい……です」
 オズに初めて会ったときよりも緊張している様子のは、小さな声を震わせてルチルに懇願する。揺れる赤い瞳は苺ジャムのように滲んでいて、オーエンが見たら食べられてしまうかもしれないと賢者は馬鹿なことを案じてしまった。
「……そうだね、ちゃんにとってはミスラさんも家族だものね。ごめんね」
「ちょっと、勝手に家族にしないでもらえますか」
「ミスラさんがどう思っていようと、ちゃんにとっては家族なんですよ」
「そうなんですか? 
 ミスラに問われたは、ビクッと肩を跳ねさせてきょろきょろと落ち着かなさげに視線を泳がせる。その奇妙な反応に、ミスラもルチルも首を傾げて。がミスラを近い存在として慕っているのは見て取れたから、が「家族」という言葉を肯定しないのは賢者にとっても不思議なことだった。
「……家族って言ったらミスラに捨てられるんじゃねえかって思ってんだろ」
「!」
 彼らの疑問に答えたのは、苦々しげな顔を隠すように下を向いたネロの言葉だった。丸く目を見開いたの頭にぽんと手を乗せて、小さく息を吐く。
「ミスラがそういうの鬱陶しがってるのを見てるから、思ってても言えねえんだよ。面倒なものになったらいらなくなるって、わかってんだから」
「……ふうん。そんなふうに思ってたんですか?」
「…………、」
 何も言えずに俯いてしまっただが、あまりにもわかりやすい肯定だった。家族のようなものだと思っているけれど、それを口にしたらミスラにとっていらないものになってしまうから言わない。そう聞かされたミスラがどんなふうに反応するのか、この場の誰もが緊張を孕んだ面持ちで見守っていた。
「勝手に想像して勝手に怯えないでくださいよ、面倒くさいな」
「……っ、」
「あなたが何を言おうが言うまいが、俺があなたを所有してるんですよ。あなたの言葉程度で変わるわけないでしょう」
 ぱっと顔を上げたの頬を、ミスラがぐにっと摘む。嬉しそうなの表情は、どうにもただ微笑ましいとも思えなくて。
「一件落着……なのかな……?」
「あんまりそういうふうには……」
 賢者の横で、ルチルが首を横に振る。そう、結局ミスラはをひとつの人格として見ていないだけだ。いずれ石にして食らうために手元に置いているだけだから、その言動に興味も関心もない。魔力を失ったり自分の目の届かないところで死んだりさえしなければ、どうだっていいのだろう。ないよりは、ある方がいい。それでも「優しく」するのは、チレッタに託されたものだからだろう。師のような人に預けられたものを一応慈しんでみたり、あくまで石として扱ったり。ミスラ自身、本当はのことをどう思っているのかわかっていないのではないだろうか。どうしてか賢者には、そう思えてならなかった。
「……まあ、とりあえず生肉食わせるのはやめろよ。ここにいる間は、ちゃんと三食おやつ付きだからな。それ以外で食わせたら食生活が乱れるだろ」
「はあ、わかりました」
 ネロがてきぱきと場を纏めて、ミスラも手間が省けると思ったのか大人しく頷く。ひとまずが思った以上にものを知らないので、いろんな料理を食べさせつつ好みを探っていこうという結論になったらしかった。
「じゃあこれ、に食べさせておいてください」
「は?」
「捨てるのはもったいないじゃないですか」
「…………」
 頭のない齧りかけの鳥を、ミスラがネロに押し付ける。別に他意はなく、単に料理人であるネロならちゃんとした人間の食事の形にしてに食べさせられると思ったのだろうが。いつもはこうして渡された肉を、焼いたり煮たりして食べていたのだろう。確かに食材は無駄にするべきではないが、齧りかけの野鳥を料理して食わせろと渡すのもどうなのだろうか。微妙な空気が漂う中、更に混沌とした空気を醸し出しそうな来訪者が現れる。
。双子先生が呼んでたよ、お菓子をくれるんだって」
「お菓子……」
「さっさと来てよ、君を呼んできたら僕も分け前をもらえることになってるんだから」
「いやお前ら、本当にいい加減にしろよ……」
 お菓子の分け前欲しさにを呼びに来たオーエンと、そわっとしながらもこの空気の中お菓子を食べに行くのはどうかと躊躇う様子を見せる。日頃のの食生活は、こういう風に生肉と生ではない肉と時々甘味に偏っていたのだろう。心底疲れたように溜め息を吐いたネロの肩を、ぽんぽんとリケが叩いて。「菓子だけもらって帰って来い……」と頭を抱えたネロに、は、おずおずと頷いた。
「ネロさんと、リケやミチルの分ももらえますか……?」
「知らないよ。そんなにお菓子があるなら、その分僕がもらう」
 そんなやり取りをしながら、オーエンがの腕を掴んで一瞬で姿を消す。気まますぎる北の魔法使いに囲まれて育ったわりに本人はすこぶる良い子なのだが、それが逆にどうしようもなく不憫で。ネロの手に齧りかけの鳥だけ残して、ミスラもさっさと食堂から姿を消す。ひとまず今日のの夕食には、チキンスープが追加されることが決まった午後だった。
 
200619
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