「……これが私なのか」
面食らったように呟いたオズに、はこくこくと頷く。その隣でことの成り行きを見守る賢者は、少し離れた場所でオズの反応を面白がっているだろう北の彼らに内心ため息を吐いた。けれどオズは意外なことに、一瞥しただけではなく画用紙を受け取ってまじまじと眺める。怒りや呆れの気配はなく、どこか穏やかな空気さえ感じさせた。
「ここに描かれているのが、お前か」
「は、はい」
「……絵の具作りを、手伝ったのだな」
「!」
「すごいですねオズ、そんなこともわかるんですか」
「……微量だが、魔力が込められている」
ルチルと一緒に、見た者の喜びを願いながら混ぜた絵の具。ほんの微量ではあるが、魔力も混ざっていると。それでもその魔力は呪いなどではなく、ただただ純真な祈りであったから。そのことはオズに、閑寂な癒しを与えたようだった。
「お前は言霊の魔女だが、」
オズが僅かに眉を顰めたのは、目の前にいる少女を「こう」作ってしまった、かつての言霊の魔女を思い返してのことだろう。紺色の髪に、赤い瞳。器の許容量を無視した魔力。母親から与えられた言霊は、呪いだった。けれど。
「お前の魔法は、祈りなのだな」
呪いから産み出されても、優しく美しい祈りを抱ける。柔らかく目を細めたオズに、はほんのりと頬を赤く染めて俯いた。オズの指が、そっと画用紙に描かれた線をなぞる。笑う少女の人形と、それを見守る空として描かれたオズ。声もなく静かに、小さな魔法がかけられた。
「……この絵は、破れることはない。水に濡れることもない。お前が望むのなら、長く手元に置くといい」
「あ……ありがとうございます、オズ様……」
オズに返された絵を、は大切そうに胸元に抱く。自身がと共に描かれた絵に祝福を与えたオズは、やはりのことを疎んでなどいない。オズに疎まれることに怯えるにとって、この絵は確かな証になる。小春日和のような空気を纏って喜ぶを横目に、オズはちらりと賢者を見て。ギクッと肩を跳ねさせた賢者が、離れた柱の影にいる彼らの存在を気にしていることなどオズは見透かしているのだろう。予想とは少し異なる結果になったが、やはり叱られてしまうことには変わりないだろうか。内心慄く賢者をよそに、オズはに問うた。
「ミスラは、お前の『親』か?」
「……そうだったら、幸せだと思います」
「訊き方を変えよう。ミスラにとって、お前は『子』なのか」
改められた問いに、はぐっと押し黙る。オズは、ミスラがを引き取った理由を察しているのだろう。かつてアーサーを拾ったとき、オズはアーサーから石を取り出すつもりだった。けれど今は、もうアーサーを石にする気はない。そして、もう石を食べるということ自体しようとは思わない。だが、ミスラは違うだろう。アーサーと同じように力の強い魔法使いに庇護され、育てられていても、異なる未来が待っている。オズのせいではないと、オズに責任を求めるのは間違っていると、大抵の者は言うだろう。けれど自分がを受け入れていれば、何か違っていたのではないかと。そう思うのも、口で否定はするものの自分もまた「親」であるからなのだろう。は、自分のことを不幸だと思っていない。チレッタの家族と縁を持ち、ミスラの元で育ったことを幸福だと思っている。オズがその幸福を否定したり憐れんだりするのは、或いは傲慢かもしれない。それでもやはり、石のために誰かを害することを肯定することは、今のオズにはできないことだ。
「……石です。でも、かわいそうとか、不幸とかじゃ、ないです」
長い躊躇いのあと、は離れたミスラには聞こえないであろう小さい声で答える。は、石にされてもミスラの元を離れたくないと思っている。それがどんな感情に拠るものなのか、賢者は知らない。訊いていいものなのかも、わからなかった。アーサーと変わらない年で既に死を受け入れているなど、と思ってしまうのだ。
「お前は、死にたいのか」
「いいえ……死にたいとは、思って、ないです」
「では、何故」
「ミスラの、望む形で……ミスラの傍に、いたいです」
人の形でも、石となって喰らわれても。ミスラが望んで傍に置いてくれるなら変わらない。は、自らの幸せをそう定義していた。人の形をしているうちはミスラに捨てられることに怯えなければならないけれど、石になってミスラに食われればもう怯えることもない。それはのような少女が抱くにはあまりに寂しい願いだったけれど、にとっては大切なことなのだとひしひしと伝わるような、強い意思でもあった。
「お前の幸福は、私の定義するところではないが……」
「…………」
「もしお前が帰りたい場所に帰れないときがあれば、思い出すといい。そのとき私はお前を、拒まない」
「……オズ、様……」
ミスラの元にいられなくなったら、オズの元に来てもいいと。そのときは受け入れると、オズは言う。例えミスラにとって不要なものになっても、ひとりぼっちではないのだと、受け入れてくれる場所があるのだと知っていれば、ほんの少しでも気が楽になるだろうか。ミスラへの想いを、見つめ直すきっかけになるだろうか。心底驚いたように、がオズを見上げる。この二人が本当に親子だった方が幸せだったのだろうかと、詮無いことを賢者は考えた。
「……ああ、は俺のこと好きですよね」
「好かれてる自覚、あったんですね……」
「気付かないわけないでしょう、それなりに一緒にいるんですから」
「自分を好いていてくれる子を石にすることにこう、思うところとかは……」
「はあ……抵抗されなくていいなと思いますよ」
そうじゃないだろう、と賢者は思う。ミスラにしてみればいざ石にしようと思ったときに抵抗されることがないから安心しての魔法を鍛えられるのだろうが、良心の呵責とかそういうものは無いのだろうか。この二人にとっては今更なことであり、余計なお世話でもあるのだろうが。ちなみに今こうして向かい合って話している間、はミスラの膝の上にいる。最初見たときはぎょっとしたものの、二人にとってはいつものことらしく。距離の近さを問うた賢者に、ミスラは平然とした顔で答えた。
「昔から、よくこうしていたんですよ。泣き止ませるときとか、癇癪を宥めるときとか。チレッタにしてもらってたみたいで、落ち着くんだそうです」
「泣き止ませたり宥めたりは、一応してくれるんですね」
「泣いたままだと、うるさいでしょう」
「あー……」
「泣き止むまで外に出そうかと思ったんですが、凍死されて雪に埋もれでもしたら石を探すのが面倒になりますし」
「……最近、段々ミスラとの関係がわかってきた気がします」
「そうですか」
体温が高くて柔らかいところを、気に入ったのもあるのだという。特に今は奇妙な傷のせいで眠れないから、抱きまくらとして優秀なをそれなりに重宝しているらしかった。
「少なくとも厄災の傷が治るまでは、石にしなくてもいいかなと」
「石になったら、抱きまくらにはできないですもんね……」
一生治らなくていいかもしれないと、酷いことを思ってしまう。ミスラはもちろんにとっても、望まないことなのだろうけれど。
「その……ミスラは、いつちゃんを石にするつもりだったんですか?」
「石が取り出せるようになったら、って思っていましたね」
「過去形なんですね」
「もう石にしてもよかったんですが、何となく……今石にしなくてもいいんじゃないかと思っているうちに、抱きまくらとして便利なことに気付いて。しばらくは、このままだと思います」
「だったら、ずっとこのままでもいいんじゃ……」
「良くありませんよ」
賢者の言葉を撥ねつけたミスラの声は、氷のように冷え切っていた。
「オズより強くなるためには、もっと魔力が必要でしょう。〈大いなる厄災〉と傷のことがなければ、今石にしたっていいんですよ」
「ミスラ……」
「に持たせている人形だって、石を回収するための呪具ですよ」
「え……?」
襲われたら人形に食わせろというのは、何もを守るためだけに言っていることではない。食われたのがブラッドリーたちを襲ったようなそこそこの力を持つ魔法使いであれば、マナ石を奪える。人形の中の異空間に回収された石は、ミスラが食べているのだそうだ。が石を食べたことは、ないらしい。オズが言っていたように、若い魔法使いが石を食べることには危険を伴うせいもあるのだが。
「最終的には、その人形がを食べます。わかっていて肌身離さず持っているんですから、も俺に石を寄越すつもりなんでしょう」
「…………」
「変わった子どもですよ、空間魔法を教えても遠くに逃げたりしませんし。それこそ南の兄弟のところにだって、行けたでしょうに」
「……どこにも、行かないです」
「子どもの頃はあなた、ずっと帰りたがってたじゃないですか」
「小さいころ、だけです」
「……ちゃんは、ミスラのどこが好きなんですか?」
「最初は俺じゃなくて、俺の魔法具が好きだったんだと思いますよ」
何故かではなくミスラが賢者の疑問に答え、何も無かった空間に水晶のドクロを出現させる。少し恐ろしくもある美しい魔法具は、元々は大魔女チレッタのものだったのだそうだ。
「チレッタを思い出すから、欲しいとねだられましたよ。この魔法具は気に入ってるので、あげはしませんでしたけど。気が向いたときに見せてやってもいいと言ったら、喜んで。そういえばその時くらいから、あまり泣かなくなりましたね」
くるくると手のひらの上でドクロを回しながら、ミスラは遠くを見るような目をする。自分でも、特に好かれる理由がないことくらいはわかっていたらしい。石を取り出せるようになるまでは適当な場所に閉じ込めておこうと思っていたらしいが、がよく笑うようになって思い直したらしかった。
「、そういえば俺のどこが好きなんですか」
「……母様に似ているところと、オズ様に似てないって言うところ……? です、」
「へえ」
の答えを聞いたミスラは、少し面白そうに口の端を上げる。「オズに似てなくていいんですか」と尋ねる賢者に答えたのは、やはり何故かミスラだった。
「似なくていいでしょう。あんな男に似たって腹が立つだけですよ」
おそらく、のオズに対する罪悪感を最も刺激するのが自分自身の容姿なのだろう。それが単に色が同じだけだと言い切るミスラの言葉は、の心を救っていたのかもしれない。紺の髪と赤の目も、強い魔力も、生まれた時からずっとの罪だ。望まれて生まれてきたという祝福さえ得られなかった子ども。その色も魔力も、捨ててしまいたかったのかもしれない。自身の存在そのものに罪の意識があるから、喉を潰すほどに『家族』に尽くしたいと思うのかもしれない。自分を拾い上げてくれた優しい『母親』とどこか似通った雰囲気を持ち、オズと似ても似つかないと断言してくれるミスラ。そのミスラが、魔力さえも奪ってくれると言う。ミスラや周囲が思っているより遥かに、ミスラはの救いだったのかもしれなかった。
「……せめて石になるまでは、仲良くしていてくださいね」
「まあ、仲が悪いよりはいいと思うので。そうしますよ」
「ありがとうございます、賢者様」
生まれてきたことさえ罪に思う子どもを、どうしたら救えるのだろうか。何を言っても、偽善でしかないように思えて。今の賢者に言えるのは、せめてもの祈り。もミスラも幸せであってくれと、安らかな日々を送ってくれと、ただそれだけだった。
200623