「そういうのはダメだって、叱ってやる大人が必要だったとは思うよ」
魔法薬で眠らせたの頭をそっと撫でて、フィガロは眉を下げた。オズとミスラの乱闘に巻き込まれて怪我をしたのを、慌てて賢者がフィガロの元に連れて来たのだ。普段なら巻き込まれても自分の魔法で逃げられるだが、今日は寝不足でふらふらとしていて。喧嘩が始まったことにも、ぼんやりとしていて気付いていなかったのだそうだ。寝不足の原因は、ミスラの傷だった。は眠れないミスラのために夜通しで言霊の魔法を使うことも珍しくないらしく、誤魔化しを許さないフィガロによって寝不足の原因を白状させられ眠らされた。自分をすり減らすようにしてミスラに尽くすのは良くないと、フィガロはを諭すつもりらしいが。こういう関係に落ち着いてしまう前に誰かが叱ってやれればよかったと、浮かんでいる表情は後悔にも似ていた。
「ミスラは長く生きてるけど、大人じゃないだろう? 子どもが子どもを育てているようなものだから、誰かが気にかけてやらなきゃとは思っていたんだけどね」
「フィガロは、その……ちゃんを引き取ろうとは、思わなかったんですか?」
「あれ、ミスラから聞いているだろう? 俺はチレッタに頼られてはいたけど、の育ての親となると微妙に思えたらしくてね」
「けど、実際今のミスラたちやルチルたちの様子を見てると……フィガロがを育てても、問題はなかったんじゃないかって思うんです」
「おっと、そうも信頼されると照れちゃうな。光栄だね、賢者様」
おどけたように笑って、フィガロは軽く指を振る。の眠りを妨げないように防音の魔法をかけたのだと言って、フィガロは茶の用意を始めた。結局ミスラの傍で育ったの姿に、思うところを零したかったのかもしれない。
「問題は、なかったと思うよ。俺は誰かの面倒を見るのは得意だし、が喉を潰さないように見ていてあげることもできる。チレッタがそうしろと言うなら、利用したりも絶対しない」
「じゃあ……どうして」
「『俺たちにとって』問題のないようにしか、育てられないんだ」
出されたお茶は、柔らかくて爽やかな良い香りがする。ルチルたちが市場に出かけてきた時のお土産なのだそうだ。
「オズが子どもだったとき、俺たちを石にしたりしないように大切にしてあげようと思ったのと同じ。はオズよりずっと容易いから、きっと思い通りに育っただろうね。俺たちから見て問題のない、可愛らしい張りぼてに」
「ずいぶん自虐的ですね」
「自虐に見えるかい? 言葉の上ではずいぶんを扱き下ろしてしまったけど」
「だって……」
それは、にはの思うように育ってほしかったということだろう。誰かのために力を使いながらも喉を潰したりせず、周りに心配をかけず、けれど適度に世話を焼かせてくれて。誰かにそうあれと望まれた形にしてしまうことを、フィガロは厭うたのだ。それはきっと、本当の思いやりだったはずだった。
「南の国はみんなが家族みたいなものだし、ルチルとミチルとも家族みたいに過ごしてきたつもりだよ。だけど、ルチルたちには父親がいたし帰る家は違うだろう? 『家族みたいに過ごす』のと『家族になる』のは、似ているようでだいぶ違う」
「……はい」
「と家族になったら、俺の都合のいいようにしてしまいそうで怖かったんだよね」
「フィガロの都合、ですか?」
「正直、すごく好みでさ。可愛くて優しくて、誰かの助けがないと生きていけなくて。助けてほしいって言える可愛げと、それに感謝して報いることのできる健気さがある。本当、甘やかして適度に叱って、ずっと慕われていたくなるよ。魔法使いだから、寿命も長いしさ」
肩を竦めて、目を伏せる。相性が良すぎて、何も問題が無さすぎて、だからこそ怖い。
「が不意に呪いを吐いてしまっても、俺には効かないだろ? それは俺が強い魔法使いだからで、俺は南でも『強い魔法使い』の俺を必要とされることができる。はいい子だから、ミチルたちに告げ口もしないだろうし。尊敬されて慕われて、それでいて世話を焼いてもらえて甘えさせてもらえて。俺にとってすごくいいとこ取りの生活ができたと思うんだ」
「その、すごく惜しんでいるように聞こえるんですが……」
「惜しいよ。今からでも欲しいくらい惜しい。こんな風に育っちゃったは困っちゃうくらい可愛く思えるし、食指をそそるものがある」
ちら、とフィガロが眠るに視線を向ける。灰の中に散る緑の光が、不穏に揺らめいた気がした。
「こういうところを、チレッタは嫌がったんだろうね。俺がを育てたら、絶対に幸せな家庭を築いてしまうよ」
「つまるところ、『お前に娘はやらない』?」
「そうだね。『娘さんを僕にください』って言うべきだったかな」
ルチルとミチルと父親は、チレッタの加護がなければ呪いを口にしてしまうかもしれないとは暮らせない。けれど、フィガロなら。の欠けたところをあまりに綺麗に埋めてしまえる。は、フィガロの探していた愛になれる。だからきっと、怖いくらい幸せな家族になれてしまえたのだろう。フィガロによって整えられたその幸福を、良しとできたなら。
「は、生みの母親の呪いで『こう』なったでしょ」
「そう、聞いてます」
「俺がを育てることとその呪いが、どう違うのかなって思っちゃってさ」
自分の都合のいいように、その存在を捻じ曲げることができてしまう。できるからといって、していいとは限らない。病の沼のあたりの土地を住みやすいように作り変えることのできてしまうフィガロは、そうしなかった。そうすべきではないと、思ったから。存在そのものを既に捻じ曲げられて生まれてきたことに、罪の意識を抱き続けている子ども。幸福の呪いで上書きしてしまうことは容易いけれど、ずっと他人の都合で生き続けることはきっと、くるしい。彼女は自分以外に縛られるべきではない、北の魔法使いだから。
「ミスラが育ててよかったって思うのはさ、」
すやすやと眠る、の表情は穏やかだ。ミスラのために身を削ることを、哀れまれることを良しとしない。一見南の気質を有しているように見えても、は強情で我儘だ。とても、北の魔法使いらしく。
「は自分のやりたいようにやってるだけなんだよ。ミスラはそうしてるし、もそうすればいいって育ててる。お互いの都合がぶつかったときは、北の流儀に則ってミスラが我を通してるんだろうけどさ」
「ミスラも不思議に思っていましたよ。空間魔法があるからどこにも行けるのに、行かないって」
「そう。やりたいようにやって、ミスラの傍にいたいからいる。ミスラに尽くしたいから尽くしてる。ミスラはそれを、受け取りたいときに受け取ってる」
「……贅沢な、関係ですね」
「それでも、やりすぎな時は止めてやらなきゃいけなかったんだろうけどね。二人とも自分に素直だから、噛み合っている限り歯止めが効かないんだ」
「石になることも?」
「そう。ミスラはの石が欲しいし、は石になってミスラの傍にいたい。噛み合ってるから、このままだといつか必ずそうなる」
互いの都合だけで、完結してしまっている関係だ。良識だとか常識だとか、周囲から向けられている思いだとか思惑だとか。そういうものを無視して、お互いのやりたいようにやってしまう。どこまでも自身に忠実に生きていることで悲しむ者がいることを、気にかけていない。それはチレッタの知己として、叱ってやらなければならない悲しさに見えるのだろう。
「は、賢者の魔法使いじゃないけど。賢者様からも、気にかけてやってくれないかな」
「……もちろんです」
「オズも、のことは気にかけているんだけどね。たぶんそのうち、詫びのシュガーを持ってここに来るよ」
「――もう来ている」
呆れを含んだ低い声が、扉の外から聞こえた。躊躇もなくドアが開かれて、オズが顔を見せる。少しばつの悪そうに見える最強の魔法使いは、フィガロの言っていた通りシュガーを持っていた。
「どこから聞いてた?」
「叱ってやらなければならない、というところからだ」
「最初からじゃないか。入ってくればよかったのに」
「お前は気付いていただろう。は……眠っているのか」
「寝かせたよ。起こさないでね」
言われるまでもない、とオズがシュガーの入った袋をの枕元に置く。そのまま部屋を出て行こうとするので、フィガロが「それはないだろ」と呼び止めた。
「起きたら謝らないと」
「……目が覚めたら、改めて詫びる。私がいると、夢見が悪くなるだろう」
「お前は嫌われてないよ。だって、仲良くしたがってる」
「オズ、ちゃんはオズとどう接していいのかわからないだけですよ。オズと同じです」
「…………だから、お前たちは先日私にをけしかけたのか」
「うっ……」
それを言われると、弱いところがある。実際けしかけたのは北の彼らであって賢者は巻き込まれただけなのだが、オズにしてみれば同じことだろう。けれど、賢者はオズとが仲良くしたいのなら協力したいと思っている。オーエンたちの本心は、わからないが。それはオズも解っているようで、ふっと息を吐いて僅かに眉間の皺を緩めた。
「お前を責めているわけではない。お前のそれは、善意だろう」
「そう言っていただけると……すごく気持ちが楽になります……」
「ところで、ミスラは? スノウ様とホワイト様に説教されてたのはお前だけじゃないだろ?」
「あれがの様子を見に来るのか」
「お前がそこを疑わないでやってくれよ……」
「オズは周りに思われてるより面倒見がいいですもんね……」
大した怪我ではないし、怪我より深刻だったのは寝不足だ。フィガロがいれば適切な治療を受けて睡眠をとってくるとわかっているのだろう。自分が手を出す必要はないと思えば、何もしない。も、ミスラに心配されることを期待はしていないだろう。
「……お前のところが、一番安泰だったかもね。お前はそう言われたくないだろうけど」
「……そうかもしれないとは、思っている。母親のしたことはともかく、あの赤子だけでも保護してやっていれば、と」
「だから、今さら口も出せない?」
「そうだ。だが、物言いたげな顔をしていたらしい。ミスラにそう言われた」
「もしかして、喧嘩の原因って……」
「言いたいことがあるならはっきり言え、と」
「うわぁ……」
想像がつく、と賢者は苦い笑みを浮かべた。教育方針を巡って争う、という程ではないのだろうが。オズはのことを責められる筋合いはないとはいえ罪悪感のようなものを抱いているし、結果的に縁もゆかりも無い子どもを拾って育てた経験からミスラに思うところもあるのだろう。そしてミスラは、の母親に一方的に押し付けられた恋慕を拒んだだけのオズは、と完全な他人だと思っている。オズとが互いに負い目を抱いていること自体、不可解で苛立ちを感じることのようだった。は結局オズの子ではないし、が生を受けたことに唯一責任のある存在はもう死んでいる。とオズの間には、何の関係もない。少なくともミスラは、そう思っているようだった。
「違う選択をしていれば異なる現在があったかもしれないと、そう思いを巡らせることが不可解で不愉快なのだそうだ。確かに、詮無いことではあるが」
「振った女に寝覚めの悪い死に方をされれば、子どものことが気にかかるのは当たり前だろ。むしろお前にそういう感覚があったことに安心してるよ」
オズは冷酷無慈悲な魔王のように思われていて、実のところ情が深いのだろう。その一面を引き出したのは、アーサーの存在だが。オズとアーサー、ミスラとという境遇の似通った関係を、どうしても比較してしまう。けれど当然ミスラはオズではなく、もまたアーサーではない。彼らには彼らで築いた関係があり、他人が誰かと比べて正誤を判じるものではないのだ。だからミスラはを気にかけるオズの気持ちを理解できないし、鬱陶しいと感じる。ミスラはを育てる上で双子やフィガロを頼ることもなく、はとても狭い世界で生きてきた。ルチルとの文通にも、ミスラは興味を持っていなかったらしい。細い縁を繋いでいたのはフィガロだが、直接会って話すことはほとんどなかった。色々と問題はあったものの、ミスラはをひとりで育ててしまえたのだ。それは親子の関係というよりも、子どもが親に与えられたものを壊さずにいられただけのようなものだが。チレッタに遺されたものを、どう扱ったものかは知らなくてもミスラなりに手元に置いて壊れないように持ち続けていた。そこに、オズの存在はない。は、チレッタの養い子だ。少なくとも、ミスラの認識の中では。「何の関係もない」他人に、自分の所有物の扱いに対して物言いたげな目を向けられるのが不快だったのだろう。
「が、したくてしていることだ。だが、寝不足になっているのを見ると気にかかる。それを私が口にしていいものか躊躇うと、ミスラの気に障る」
「言ってやればいいんだよ、子どもはちゃんと寝かせろってさ」
「ちゃんにも、せめて夜寝ないなら昼寝をするように言っておきます」
「そうか……そうだな」
「そういうわけだから、ミスラのことをちゃんと叱って来いよ。パパ友だろ」
「何だそれは」
フィガロが唐突に口にした単語に、思わず賢者が吹き出す。噎せるのを堪えながら「子どもを持つ父親同士友人になることです」と説明すると、オズがフィガロになんとも言えない視線を向けた。友人ではないとかミスラはの父といえるのかとか、心底呆れているような表情だった。
「ミスラにその単語は、間違っても言わない方がいい」
「言わないよ、俺はお前と違って乱闘なんかゴメンだからさ」
「……だが、意見はしてくる。に怪我を負わせたことも、二人で謝罪する」
「大人だからね」
「大人ですからね」
ミスラを叱れる人間など、どれだけいるというのか。オズも人間性に関しては欠けている部分が多く説教できる立場ではないかもしれないが、それでも誰かが叱ってやらなければ子ども二人はどこまでも行ってしまう。今はせっかく魔法舎にいるのだから、目に見えるものを案ずるくらいは許されるだろう。一度は生まれた、縁ならば。一度は切っても、また結ばれた縁ならば。
「乱闘はしないでくださいね」
「……努力はしよう」
「無意味に患者を増やさないでくれよ」
「善処はする」
これは二度目の乱闘になりそうだな、と思いつつも賢者とフィガロは笑顔でオズを見送る。の目が覚めたときに二人が正座していたら驚くだろうな、と賢者はひとり悪戯っぽく笑ったのだった。
200628