「あなた、俺に謝ってほしかったんですか?」
 ミスラの問いかけに、は首を横に振った。そんなものを欲しがっていなかったことは、ミスラにもわかるらしい。寝不足でぼうっとしていて、ミスラとオズの喧嘩の余波を食らって軽い怪我をしてしまった。フィガロと賢者には「ミスラのために何かするにしろ、まず自分の身を大切にするように」「具体的には夜寝ないなら昼寝をするようにね」と諭されて、昼寝の時間も含めて一日の予定を双子と一緒に組み直すことになった。賢者の魔法使いでもないのに魔法舎にいさせてもらえて、訓練にも参加させてもらえる。その上がしたくてやっていることのために寝不足になっていることを気遣ってもらえて、困惑する気持ちもあった。それは申し訳なさの中に、くすぐったさもあって。自分がもらっては、いけないものであるような気もする。
「でも……起きたらミスラがいて、うれしかった、です」
「へえ」
「抱っこしてもらえるのも、うれしい、です」
「気に入ったんですか、これ」
 よくわからないという顔をしつつも、ミスラはを抱え直す。「安静じゃぞ」「安静の意味は知っておるか?」と双子に言われたミスラは、を部屋まで抱えて帰ってくれることになった。大した怪我ではなかったし、もう眠くはないけれど。必要はなくともミスラがいてくれたのが嬉しかったし、ミスラを連れて来てくれたのはオズだと聞いて胸がぽかぽかとした。をあまり動かさないように部屋に帰るというなら空間魔法でいいだろうとミスラは言ったしもそう思ったけれど、フィガロが「わかりやすい形で大事にすることも必要だよ」と抱っこを提案して。ミスラはどうでも良さげに「はあ」と頷いたけれど、大人しくそうした方が双子やフィガロから早く解放されると気付いてを抱えてくれた。フィガロの言葉の意味はよくわからなかったけれど、実際ミスラに抱えられて部屋まで戻るのは何だか、小さな箱にしまい込んでしまいたいくらい大切な時間に思えた。
「ありがとう、ございます、ミスラ」
「別にいいですよ、あなた軽いですし」
「それに、」とミスラはちらりとを見下ろす。いつもよりずっと近い距離が嬉しくて頬を緩めると、ミスラは不思議そうに首を傾げた。
「あなたの声がちゃんと聞こえていいですね、これ。声も背も小さいから、たまに聞こえないんですよ」
「えっ、と……ごめんなさい……」
「聞こえなくて困ったことはないので、いいんですけど」
 最近よく喋るようになったでしょう、とミスラが今日の天気を言うような口調で言う。つまるところ、わりとどうでもよさそうではあったが。今まで、ミスラとの会話といえば基本的にミスラの言ったことにが従うだけで。返事が聞こえずとも同じことだったから、それに困ることはなかった。今もミスラとの会話はほぼ変わりないけれど、魔法舎の皆たちとはよく言葉を交わすようになって。魔法舎で唯一の同性であるカナリアにも、仕草での意思表示がほとんどとはいえ少し懐いている。魔法使いを恐れているはずのクックロビンも、の見た目に絆されているのか呑気にぬいぐるみごと撫でる始末だ。あれだけ人間との関わりを避け、言葉を発することを避けていたのにどうしたのかとぼんやり問うミスラに、は少し怯えたような顔をした。
「その、オズ様が……」
「オズ?」
「魔法の、訓練……指向性とか、制御、とか……教えて、くれて」
 中央の国の魔法使いは、オズの他は若い魔法使いばかりだ。訓練を共に受けさせてはもらっているが、彼らがの言霊の影響を受けるようなことがあれば危険だと思ったのだろう。特に中央には、オズの慈しむ養い子であるアーサーがいる。お互いのために必要なことだと、個別に魔法を制御するための訓練をつけてくれた。ミスラたちが教えてくれるのは魔法を強くするための方法ばかりだったから、今までは喋らないという形でしか魔法を制御することができなくて。オズのおかげで少しずつ、感情が昂らなければ声に魔力が乗らないようにと意識してコントロールができるようになってきている。ミチルやリケのように積極的に話しかけてくれる若い魔法使いに、自分の声で言葉を返せるのが嬉しかった。また、言霊を使うときも周囲に無差別に使うのではなく対象を限定したり狭めることも教えてくれて。傷付けたり支配したりせずに他人に触れたいという気持ちを、オズは大切にしてくれた。自分にも覚えのある感情なのだと、目を伏せて言葉を零していた。
「……ふうん」
 どうでもよさそうに、ミスラが鼻を鳴らした。自分で聞いておいて、などとは思わないしミスラにそんなことを言うのは愚か者だけだろう。ただ、気を悪くした様子がないことに安堵する。ミスラは、自分が面白くない思いをさせられているオズにが懐いていても気にするような性分ではないけれど。ミスラの前でオズの話をするのは、少し怖い。元々、がオズに謝りたいと思っていたことも理解できないという顔をしていた。がオズに抱く罪悪感と、そこに少し混ざる憧憬。オズは母親の被害者であるという負い目と同時に、その色彩に拠り所のようなものを感じて惹かれてしまう。「あなたはオズの子」という母親の呪いが、深層意識に影響している可能性は高いとフィガロは言っていた。は血縁という繋がりを持たないから、尚更唯一のよすがに親しみを感じてしまうのだろうと。それはの責任ではないとオズは言う。ただ、にはそれがミスラに対してあまりに恩知らずな感情ではないかと思えてしまうのだ。実際に自分を育ててくれたのはミスラなのに、呪いに心を引っ張られている。魔法舎に来てオズを初めとする他の魔法使いたちと関わりを持つようになって、くっきりと浮かび上がった新しい恐怖。別にミスラはに恩を感じてほしいわけでも、親のように思ってほしいわけでもない。どうだって、いいのだ。だから、が一方的に怯えている。二人きりだった世界が広がっていくことを恐れているのは、きっとだけだった。

 魔法舎に来てから、は「いい子」と言われることが多かった。ルチルも、ネロも、双子も賢者たちも。いい子、とを優しい目で見下ろして頭を撫でてくれる。けれど、自分はあまりいい子ではないかもしれないとは思うのだ。
「……まあ、『いい子』はこういうことはしないんじゃないですか」
 いい子とはどういうものだろうと尋ねたの頬を、ミスラの親指が撫ぜた。幼子のようにすべすべとして柔らかい頬を、骨ばった大人の男の指が撫でていく。そこにあるのは親が子に向けるような慈しみではなく、体温を食らおうとする欲だけで。行為が終わったあと特有の気怠い空気を纏いながらも、今日はまだ足りないのかミスラがの唇に噛みつく。なるほどいい子はこういうことをしないのかと、がっしりとした腕が背中に回る感触に小さな声を漏らしては裸の胸にぺたりと手をついた。睦言というにはあまりにも無知ゆえに愚かしいことを訊くの口を塞いで、舌を絡めて。一度熱を吐いたそこが再び硬くなっていくのを自覚しながら、背中や腰を撫でる。こういう関係になったのはいつからだったかと、ぼんやり記憶のふちに指をかけた。白くて、小さくて、脆そうだなと思っていた子どもに、柔らかそうだなと思うようになって。感触を確かめるように触れてみたら柔らかくて温かかったから、腕の中に閉じ込めてみたら収まりが良くて。手慰みに髪や頬に触れていたのがもっと柔らかくて温かい部分を探してまさぐるようになるまで、そう時間はかからなかった。ふにりと柔らかい唇を撫でて、押し開いた口腔に指をねじ込んで、小さな舌を嬲って。北の夜は寒くて、腕の中には体温を分け合うのにちょうどいい柔らかいものがあった、ただそれだけだった。奪って、与えて、貪って。綺麗な顔も柔らかい肢体も堪えるような喘ぎ声も、それなりに気に入っていた。雪のような肌に鼻先を埋めて微睡む朝を、少なからず心地よく思っていたのだろう。厄災の傷で眠れない夜も、この柔らかさを貪っていると気が紛れる。溶けかけた雪のようなぬるい嬌声が、嫌いではなかった。それこそけだもののように朝まで熱を溶かし合って、春先の朝のシーツのようにひんやりとした心地良い疲労に身を任せて安らぐ。とっくに白さを失って泥のついた足で踏み躙られているはずのこの子どもは、無知なことを差し引いても少し綺麗すぎた。
「んッ、」
 奥を緩く突き上げられて、甘えるような声が漏れる。たぶんこれは他人に知られてはいけないことだというのは、なんとなくにもわかっていた。ミスラとの関係を、多少の語弊はあれど親子だとか兄妹だとか思っている周囲には特に。きっと親は子に、兄は妹にこういうことはしないのだ。を妹のようだと構ってくれるアーサーの手付きとも、距離を測るようにと接するオズの指先とも、ミスラのそれは違う。から奪って与えていく、そんなふうに触れるのはミスラしかいないし、ミスラだけがいいと思う。髪の一本から爪先に至るまで、温もりも存在もそっくりミスラに差し出すこの行為は好きだった。少し苦しかったり痛かったり、恥ずかしいときもあるけれど。ミスラの大きな手がの腰を掴んで、中を穿っていっぱいにしてくれる。寄り添って体温を分け合う獣より、ずっとずっと刹那的で本能任せだ。本当はきっと、「大人」は「子ども」にこういうことをしてはいけないのだろう。けれど子ども同士が過つように、ミスラとはチレッタに言えない夜を重ねている。
(ミスラは、ちょっとうそつき)
 ただの「抱きまくら」だと、言外にこういう関係があるのではないかと訊かれて面倒くさそうに否定していたミスラは、けっこう嘘つきだ。双子が起こしに来た朝も、普段なら力づくで起こされるまで起きないのににシーツをかけるとさっさと自分から部屋の外に出て行って。はもう先に食堂に行ったと、嘘を吐いた。ミスラが嘘を吐くなら、も本当のことは言わない。後から食堂に現れたに迷子になっていたのかと尋ねた双子に、は黙って頷いたのだ。大人に嘘を吐く子どもは、きっと悪い子だろう。ミスラとの秘密が少しずつ増えていくことにどきどきと鼓動が早くなってしまうから、なおさら。は惨めにみっともなく、二人だけの過ちを守ろうとしてしまう。大人は、例えばルチルやオズたちはきっと、これはいけないことだと、悪いことだとを諭す。その時責められるのは、きっと「大人」のミスラだ。「子ども」のは守られていて、過ってはいけなくて、自分自身の過ちすらその手に持たせてもらえない。が自分の意思でミスラと「悪いこと」をしたと言っても、取り合ってもらえない。間違っていてもいいからミスラに奪われていたいのだと思う自分はきっと悪い子だから、大人たちに守られて与えられることに落ち着かなくなる。自分が受け取っていいものではないのだ、きっと。嘘をついたまま優しさを受け取るのは、とても悪いことだ。魔法舎での生活は楽しくて胸が弾んで、けれど時々北の住処に帰りたくなる。二人きりの夜に、戻りたくなる。悪い子でいながら楽しくて幸せな毎日を送っているのが怖くて、いっそ今にでも石になってしまいたい。けれど今のミスラは柔らかいを気に入ってくれているから、まだ石にはなれない。熱に浮かされて理性が緩んだのか、ぐるぐると処理しきれない感情が浮かんでは沈む胸に押し出されるようにぽろりと涙が落ちる。親指の腹でそれを拭ったミスラは何を思ったのか、無邪気な少年のように首を傾げた。
「帰りましょうか」
「……っ、?」
「ここが嫌なら、北の住処に帰りますか」
 ひょいっとの腰を掴んで、抱き寄せる。ずるりと抜けたモノが擦れて鼻に抜けるような声が漏れたが、色めいた空気はすっかり霧散していた。泣いている赤子を見た子どものように、ミスラは見様見真似の下手くそな手付きでをあやす。
「他の魔法使いに合わせようとして、疲れてるじゃないですか。嘘のつき方も知らないくせに」
「え……」
「北の魔法使いが、何を他人に遠慮してるんですか」
 の考えていることくらい、ミスラにはわかる。呪いを受けるのは、弱い魔法使いたちが悪い。そう思えないのがの弱さだ。見ていて、苛々する。体を重ねていることを知られれば周りがうるさいから適当に誤魔化しているだけで、が疎ましくてそうしているわけではない。別に知られたところで関係が変わるわけではないし、あまりに周りがうるさいようなら北の住処に戻ればいい。そのくらいのことでミスラが自分の意思を曲げてを手放すと思っているのが、この子どもの愚かさだ。
「い、いやじゃない、です」
「下手くそですよ、嘘」
「だって、魔法舎、たのしくて……」
 未だに頓珍漢な言葉を吐き出す唇を黙らせるように口付ける。細い首を掴んで顔を逸らせないようにして、小さな舌を絡め取って引きずり出した。小さな赤い舌は、本心を語ることに臆病すぎる。が魔法舎を離れたくない理由など、ひとつしかないだろう。
「いい子じゃないでしょう、あなた」
「……っ、」
「俺と離れたくないだけのくせに」
 きゅっと、花のようなかんばせが泣きそうに歪む。「いい子」などではないことを指摘しても往生際悪く黙っているから、本心を指摘してやっただけだ。ミスラが魔法舎にいるのに、ひとりで北に帰るのが嫌なだけだろう。ここが楽しいのも他の魔法使いたちに親しみを感じているのも本当だろうが、ミスラが帰ると言えばはそれら全てをあっさりと手放してついて来る。そんなことなど知っているのに、ひとりで帰れと言うわけがないのをわかっていないのも本当に愚かだった。
「一緒に帰りますか、と訊いたんですよ。俺は」
「……え、」
 溶け落ちそうな赤い瞳をまんまるに見開いて、は驚く。何をそんなに驚いているのかと、ミスラは呆れた。別に、のためにそうするわけではない。ミスラだって、魔法舎が色々と煩わしく思えるときがある。賢者が言うのと、オズがうるさいから一応付き合っているだけで。それでも我慢がきかなくなったら、ひと晩やふた晩住処に帰ることくらい構わないだろう。それに文句を言わせるようなミスラではない。今までミスラとほとんど二人きりで生きてきた子どもが朝から晩まで誰かに話しかけられる生活に放り込まれて、いっぱいいっぱいにならないわけがないのだ。それをこの、いい子でいたがる愚かな子どもはミスラがいるからと魔法舎での生活に適応しようとして。他人のことで頭をいっぱいにしている。自分が本来どういうものか、忘れたわけでもないだろうに。
「俺が帰るから、あなたも持って行くって言ってるんです」
「……ミスラ、」
「あなたは俺の石ですよ」
 オズに従わされて否応なしに中央の国に連れて行かれたときは、住処に置いて行くしかなかったが。その後ちゃんと取りに行っただろうと、ミスラは呆れた様子での髪をくいっと引っ張る。元々、に選択権など与えていない。ミスラがどこに行こうが、はミスラの所有物なのだから置いて行くことはない。これを今更置き去りにして他の魔法使いに掠め取られるのは、想像するとなかなかに不愉快だった。
「かえります、ミスラと」
 だから最初からそういう話だったろうと思うものの、きらきらと瞳を輝かせてミスラの胸に頬を寄せるに悪い気もしない。行為に怯えたり恥ずかしがったりするくせに、互いが裸であることも忘れたかのように無邪気にくっついてくるは稚い子どものようだ。けれど、あれこれと他人のことで勝手に考え込んでいられるよりは、こうしてあどけなく縋ってくる方がいい。はオズと関わることにミスラがどうとも思わないと勘違いしているようだが、実のところ面白くないと感じていることを言ってやった方がいいのだろうか。それは幼稚な嫉妬などではなく、下手に感化されでもして「石になりたくない」などと言い出されても面倒だという気持ちから来るものだが。互いに、互いの奥底を信じていない。は未だにミスラに置いて行かれることに怯えているし、ミスラはの気が変わりでもしたら即座に殺せるように手元に置いている。それでもこうして熱を分け合って、寄り添ってみたりもして。これを家族だの何だのと言えるや周囲が不思議でならなかった。
「……、歌ってください」
 なんとなく、また行為に戻る気にもなれなくて。柔い肉のついた胸に頭を埋めて、気まぐれに歌をねだる。背中に腕を回して目を閉じると、遠慮がちな小さい声がぎこちなく音を紡ぎ始めた。拙くて、あえかな歌声。ラスティカに教わった子守唄だというそれは、優美な彼の歌声とは全く違っていたけれど。外に音が聞こえないように魔法をかけているから、この拙い子守唄はミスラだけのものだ。優しい魔力の滲んだ柔らかい声が、耳に溶けるように心地良い。澄んだ雪解け水のように、するりと意識に染み込んでいく。ミスラが自身の魔法への抵抗を解けば、の言霊であっさりと眠れるのだろう。いつも一時的に抵抗を解いているはずが眠れないのは、無意識で抵抗してしまっているからだ。を警戒しているだとかではなく、それはもう北の魔法使いとして長く生きてきてどうしようもない部分なのだろう。自分の身を無防備に誰かに晒すということが、もうできないのだ。あるいは、これもまた奇妙な傷の影響なのか。それでも、の声は時折ミスラの意識に届く。人も魔法使いも多くを殺してきた手に、いつか自分を殺す手に、躊躇いなく縋る子ども。その愚かさに少しだけ、柔いところを晒してやってもいいという気になるのだろうか。
(あ……)
 今日は眠れそうだと、久々に感じる微睡みの感覚に意識を委ねる。あれほど待ち望んだ眠りなのに、もう少しだけ、と思う自分がいることを沈みゆく意識の淵で訝しんだ。雪よりも綺麗で寂しい子どもの声は、ミスラを害することはない。この声を聞き取り損ねていたことは少し惜しかったかもしれないと、眠気で少し緩くなった頭で考えたのだった。
 
200713
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