「東の魔法使いのヒースクリフです、よろしく……」
「…………」
 ヒースクリフがおずおずと手を差し出すと、雪の妖精のような少女はこてんと首を傾げたのちにその手を掴んだ。きゅっと、案外無造作で加減のない手付きで指を握られて「ひえっ」と思わず情けない声を上げてしまう。幼子がぬいぐるみを掴むような触れ方に、一拍の混乱の後にこの少女は「握手」というものをしたことがないのだと理解した。東の国、それもブランシェット領主の嫡男として育ったヒースクリフには到底想像もつかない世界だが、彼女は顔を合わせたら殺し合いがデフォルトの試される大地で生きてきたのだ。ここに来たときもミスラの言動があんまりすぎてちょっとした騒ぎになったため、まともに挨拶を交わす間もなかった。気付けば彼女は魔法舎の日常に溶け込んでいたから、改めて律儀に畏まった初対面の挨拶をしてきたのはヒースクリフくらいなのだろう。手を差し出されたら握り返すということを知っていただけ北の魔法使いにしてはまともな方かもしれないと、なかなかに失礼なことを考えた。
「?」
「あのね、。握手は……」
 不思議そうに見上げてくる顔は、同年代のはずなのにどうにもあどけなく思えて。小さい子の面倒を見るような気持ちになって握手がどういうものか優しく教えると、花をも欺くような可憐なかんばせがさっと朱を差したように赤く染まった。透き通るような雪の色の肌は、血の巡りがわかりやすい。もじもじと恥ずかしそうに手を離したは、ぎゅっとぬいぐるみを抱き締めて顔を上げた。
「あの……もう一回、やり直しても、いいですか……握手、」
「もちろん、いいよ」
 にこにこと、なんだか優しい気持ちになる。あまりにも作り物めいた綺麗な顔を、正直怖いとさえ思っていたのだけれど。実際話してみると知らないことが多いから幼く思えて、素直にそれを尋ねてくるところは北の魔法使いらしからぬ可愛げがあった。おそるおそる握手をやり直すの様子を見ていると、アーサーが同い年である彼女を「妹」と断言する理由がよくわかる。少なくとも、このあどけなくものを知らない少女を「姉」とは形容し難いだろう。ほぼ同い年である自分たちよりも年下であるリケやミチルと一緒にいることが多いが、それが自然に思えるのは彼女が年齢よりも稚いからだろう。北の魔法使いはどうにも、その力の強大さのわりに子どもじみたところがあった。
「ごめんね、帰ってきたばかりなのに」
 ミスラが「環境を変えたら眠れるかもしれないので」とここ三日ほど魔法舎を空けていたと、賢者に聞いた。ふるふると首を横に振るは、気にするなと言ってくれているのだろう。実際彼らは空間魔法で移動しているから、長距離の移動でもあまり疲れているようには見えないが。それとこれとは別に、外出から帰ってきたところを引っ張り出すというのはやはり申し訳なさがあった。それもこれもオーエンが、「魔法舎の裏の森に、呪いの花の種を落としちゃった」などと言い出したことが原因だ。周囲の動植物を手当たり次第食い散らかして凄まじい速度で成長するという魔の植物を落としたのは、本当にうっかりなのかと問い詰める暇もない。魔法舎にいた魔法使い総出で花の回収、あるいは駆除に乗り出すことになった。シノはヒースクリフの傍で護衛にあたろうとしたが、今は人数勝負だからと断ったのだ。森に慣れているシノには、自分の護衛など気にすることなく捜索にあたってほしい。ヒースクリフは感応能力が高いから、捜索要員としては一応一人前と数えられてもいいだろう。それでもヒースクリフを一人にするのはと渋るシノとのやり取りを見て、意外にもミスラが「それなら、これを持って行ってください」とを寄越したのだ。曰くは捜索の類の魔法はてんでダメだが撃退や駆除なら役に立つということで、北の魔法使いが守護にあたるならとシノもやっと納得したのだった。
「じゃあ、行こうか」
「…………」
 こくりと頷くは、ほんの少し何かを躊躇ったように見えた。けれど黙ってヒースクリフについて歩き始めたから、それを追及していいものか逡巡の末にヒースクリフは口を噤んだ。可愛らしいとはいえ北の魔法使いに気安く話しかけられはしないし、元々ヒースクリフは他人に踏み込むのが苦手な性質だ。違和感を置き去りにして、暗くなり始めた森の奥へと足を進める。賢者には、カインとリケがついているから問題ない。シノも、搦手の呪いならともかくただ真っ向から食い散らしてくるだけの知能の低い呪いに遅れをとることはないだろう。ミスラやオーエンを心配するほどヒースクリフは愚かではないし、彼らを心配するとしたら真面目に捜索をしないのではないかという方向だ。ミスラがをヒースクリフにつけたのも、自分がどこかでサボるためかもしれない。何はともあれ森が荒らされる前には花を見つけなければと神経を研ぎ澄ませたヒースクリフの背筋に悪寒が走ったのと同時に、「『止まって』」と澄んだ声が耳を打った。
「っ、」
 霜が張るように薄い冷気が、足を止めたような錯覚に陥った。ヒースクリフが対象ではなかったらしいその言霊の残滓は、薄氷が溶けるように消え失せて。振り向いたヒースクリフの目の前で、『本来の対象』が凍りついたように動かなくなっていた。木々の枝から飛び降りてヒースクリフを襲おうとしたらしい、奇怪で醜悪な見目の花。雪の造花のようなを見た後では、それを花と形容するのも烏滸がましい。空中で奇妙な姿勢のまま固まっている花に特に急ぐこともなく近寄ったが、魔道具のぬいぐるみを抱き上げた。
 ばくり。
 一瞬でヒースクリフの倍ほどの大きさになったぬいぐるみが、呪いの花を呑み込む。その光景はまるで、幻想的で不気味な絵本の一幕のようだった。

 昼の中庭でシノに何やら教わっているらしいを遠目に見ながら、ファウストに教わった護符を作る。先日ヒースクリフを呪いの花から守ったを「お前、やるな」と認めたシノは知らないことだが、ミスラはヒースクリフとを囮にするつもりで一緒にさせたらしかった。ごめんなさいと目を伏せたの長い睫毛と、その一瞬前に呪いを食らった恐ろしい人形。美しいものとおぞましいものの同居したその姿に見入ってしまったヒースクリフは、たどたどしいの言葉を聞いても怒る気になどなれなかった。感応能力が高く良くも悪くも魅入られやすいヒースクリフと、人外のものを妙に惹きつける。その二人を一緒にしておけば、ほぼ確実に呪いの花は惹かれて襲って来る。森の中で一つの種や花を無闇に探すより、向こうが勝手に見つけてくれた方が楽だとミスラは言ったらしかった。特に逆らう理由もないは、自分を囮にすることも疑問に思わず承知したけれど。ヒースクリフに何も言わないまま驚かせてしまって申し訳なかったと、は謝った。は芽吹いたばかりの呪いなど歯牙にもかけない強さを持っているし、先に説明して万が一ヒースクリフがと一緒に行動することを拒否すればミスラの言いつけに背くことになってしまう。あの一瞬の躊躇いはそういうわけだったのかと、ヒースクリフは納得した。わけを話して信頼を築き共に事にあたるよりも、自らの力で解決することを選んだは結局北の魔法使いだ。それを怒る気にはなれないし、ヒースクリフももあの時は互いを信頼できるほど距離を縮められなかっただろう。理解はしているから、ヒースクリフは自分たちが囮にされたことを誰にも言わなかったし、ミスラを詰ることもしなかった。ただ、ひとつだけには伝えたことがあった。
 ーー次は先に言ってもらえるように、今から信用を重ねていくよ。だから次は君が俺を見て決めて、
 ヒースクリフも、を見て信用していいか決めていきたい。ミスラの言うままに動くは自身で何かを決めることに関心が薄いし、それは周囲にとっても危ないことだと感じる。だからミスラの所有物ではなく、自身を信頼できるか考えていきたいのだ。は賢者の魔法使いではなくミスラの持ち物だけれど、それでもひとりのヒトだ。北の魔法使いの所持品を信用するのは難しいけれど、ヒースクリフを危険に晒したことを謝った女の子は信頼できる気がするのだ。だからヒースクリフも、ここ数日を見ていた。シノが語るシャーウッドの森の話に、目をきらきらと輝かせて聞き入る少女。同い年だが小さくて幼くて妹のようなのに、ゾッとするほど『違うモノ』だと感じるときがある。失われた古の御伽噺の魔物が、人の形をして目の前に現れたような。どんなに小さくとも幼くとも彼女は北の魔法使いで、けだもので。彼女の優しさは、理解ではなく模倣から成り立っているものだと知った。と接していると、その良心や優しさは稚い小さな怪物が一生懸命人の真似をしているだけだとわかってしまうのだ。ミスラはが他人に優しくしたがることを奇妙な「趣味」だと思っているらしかったけれど、ヒースクリフから見ればのそれはただただ健気で哀れな人真似だ。南で過ごした温かい感覚を模倣して、は他人に接している。本当の意味での優しさを理解していない、可哀想な怪物。拒絶しないでと、嫌わないでと、の優しさは人に避けられないための手段だ。より弱い者たちは皆、が優しくしないとを怖がる。の態度でいちいち対応を変えたりしないミスラや無償の愛を与えた南の家族をが大切にする理由も、理解できてしまう。彼女には、安心して寄り添っていられるものがないのだ。望まれて生まれてきたと教えてくれる肉親がいないことは、両親に愛されて育ったヒースクリフには想像もつかないほど深い孤独だろう。愛を乞う道具として作られた子どもは、愛し方も愛され方も知らない。だからこそ、美しくて恐ろしくて。何よりもミスラを大切にしているは、根本的に他人が大切ではない。人の温かさを好む気質があるだけで、その欲求に従って他人に優しくしているだけだ。
(信頼、できるかな)
 彼らは、北の魔法使いは特に、裏切るという行為には縁がない。そもそも彼らは、己の力以外を信用していないから。裏切られないためにはどうすればいいかと問えば、信じないことだと返してくるような。そこには彼らなりの自身への信頼と矜持がある。他人の存在も他人への信頼も、必要としていないのだ。だから怖いし、理解できない。それでも、他人の存在を必要とするとはまだ、わかり合う余地がある気がする。彼女と理解し合いたいと思うことそのものが、危険かもしれなくとも。
 ーー君は魅入られかけているよ、ヒース。
 あれは半分は精霊や魔物のような何かが混ざった存在だと、ファウストは忠告してくれた。父親がわからないとは言っていたが、そもそも人と人との交わりによって生まれた存在ではないだろうと。おそらくだが、の生みの母はオズの城付近の細氷を取り込んで「子」にしたのではないだろうかと。オズの魔力の影響を受けた、彼のマナエリアの細氷。化外になりかけていたそれを核に人の器を得て生まれたは、ミスラの元で育ったこともあり半人半霊の魔物に近い存在だ。人と定義するには危うく、妖精というにはタチが悪い。美しいと、綺麗だと思った時点で既に惹かれかけているのだとファウストは言った。対象を制御できているはずの言霊の影響を受けてしまったのも、感応能力の高いヒースクリフがという化外に少し魅入られているからだろうと。あれを美しいものだと思うのは危険なことだと、ファウストは護符の作り方を教えてくれた。それでもやはり、彼女を綺麗だと思う。握手を知らなかった、雪の花のような少女。手のひらに落ちてきた雪の結晶が溶けるのを惜しむように、脆い繋がりは失うには惜しい。物語が好きで、内気で、人に惹かれていて、少し恐ろしい子ども。ミスラも、彼女を綺麗だと思うのだろうか。
「そこ、間違えてますよ」
「あ、……ミスラ!?」
「はあ、俺ですけど」
 ガタっと立ち上がった拍子に、作りかけの護符がぽろりと手から落ちた。それを慌てて拾い上げるのを、ミスラは興味なさげに見下ろしていて。北の魔法使いがわざわざ間違いを指摘してくれたというのが意外すぎて驚いてしまったが、普通に考えれば失礼すぎる反応である。慌ててもごもごと礼を言ったヒースクリフに、どうでもよさげにミスラは頷いた。
「それ、言霊避けでしょう」
「は、はい……あ、えっと、すみません、が嫌だとかいうわけじゃなくて、」
「はあ……どうでもいいですけどね。まあ、は喜ぶんじゃないですか」
「え……」
「人の傍にいたがりますから。人に近付くと苦しいくせに、変な子どもですよね」
 人に近付くと苦しい。ミスラの言葉がの印象と噛み合わなくて、ヒースクリフは北の魔法使いへの畏怖も一瞬忘れて目を瞬いた。は誰かの傍にいると安らいでいるように見えるから、苦しいという言葉はどうにも意外で。けれど、ミスラはヒースクリフよりよほど長くを見てきている。ミスラが言うのなら、きっとそうなのかもしれなかった。思わぬ相手に話しかけられて、一応会話が成り立っている。その事実に恐れが薄らいでしまったのか、ヒースクリフは本来訊くつもりのなかったことを訊いてしまった。
「その……ミスラは、を綺麗だと思いますか」
「は?」
「す、すみません……突然、変なことを聞いて」
「本当に変なこと聞きますね。まあ、綺麗なんじゃないですか」
 釣り上げた魚が亀だったような顔でヒースクリフを見ながらも、ミスラはあっさりと頷いた。少なくとも、気を悪くした様子がないことに安堵する。下手に北の魔法使いと言葉を交わすものではなかったと後悔しつつも、すっとに視線を移したミスラは目を細めて言葉を続けた。あるいは、暇だったのかもしれない。
「北の国の美しいところをそのまま人にしたようなところは、気に入っていますよ。顔も綺麗ですし」
 少なからず気に入っているところがなければそもそも抱いたりしない、とはさすがに言ったりしないが。雪の結晶や樹氷がそのまま人になったと言われても信じられるような儚く透明感のある人外じみた美しさは、北という土地に僅かなりとも愛着がある者なら何かしら感じるものがあるだろう。現にオーエンやブラッドリーたちも、無自覚だろうが彼らなりに「身内」としてを扱っている節があった。がいるだけで、そこに北の白い風景を透かし見るような感覚を得る。窓を開けたときの冬の匂いだとか、足元から冷え込むような寒さだとか。そういう、生粋の北の気配を纏っている。そういうものが傍にあるのは、決して悪い気分ではないのだ。
「まあ、だからこそあの髪と目が気に入らないんですけどね」
「えっ……」
 戸惑うヒースクリフを残し、ミスラはすたすたとに向かって歩いていく。「昼寝をするので、枕になってください」とを呼んだミスラは、話し相手になってくれたことの礼をシノに告げている途中のの首を掴んで空間の扉を作ってしまった。憮然としたシノを置いて、を連れたミスラはさっさといなくなる。ぽかんとした顔のヒースクリフの元へ駆け寄ってきたシノは、「何もされていないか」とヒースクリフを案じた。
「ああ……うん、少し話しただけだ。護符の作り方を間違えたところも、教えてくれたよ」
「北の魔法使いがか?」
「北の魔法使いがだよ」
 怪訝そうに眉を寄せたシノに、まあそういう反応にもなるだろうなとヒースクリフは頷いた。噴水の縁に腰掛けてミスラに指摘された部分を直していくと、シノも隣に腰を下ろした。幼馴染との気まずくない沈黙を破る必要はなかったけれど、ヒースクリフはあえて口を開いて問うてみる。
「シノはのこと、どう思う?」
「変なやつだ」
 バッサリと答えたシノだったが、そこに嘲りや侮蔑の意図はなく。
「綺麗なくせに臆病で、強いくせにものを知らない。北の魔法使いのくせに礼儀は知ってる」
「貶してるんだか褒めてるんだか……」
「事実を言ってるだけだ。けど、俺のことをすごいって言うから気分がいい。ヒースを自慢しても変な顔をしないし、素直に聞く」
「ちょっとお前、何話してるんだよ……!」
「悪いやつじゃない。あいつ、生まれる場所を間違えたんじゃないのか」
「……いい子だけど、北以外の子じゃないと思うよ」
「へえ。お前と少し似てるのにな」
 でもまあ、お前がそう言うならそうなんだろうな。そう言って、シノはヒースクリフの手元を覗き込んだ。「それは何だ」とあどけない好奇心で尋ねるシノに、シノこそ少しに似ているじゃないかと胸の内で呟く。
「護符だよ。シノにも作ろうか」
「ヒースの手を煩わせたりしない。作り方を教えてくれれば自分で作る」
「わかった、じゃあファウスト先生のところに材料をもらいに行こう」
 作業を中断して手元を片付けながら、ふと思う。がヒースクリフを囮にしたことを知っても、シノはを「悪いやつじゃない」と言うだろうか。北の魔法使いらしくないと、思うだろうか。きっとシノは怒るだろうから、黙っているけれど。の恐ろしいところは、美しいところでもある。そう思うことは、あまり人には言わない方がいい気がした。これが既に魅入られかけているということなら、ヒースクリフは早く護符を完成させてしまった方がいいのだろう。それでもやはり、ひやりと美しかったあの姿が、まだ瞼の裏にこびりついていたのだった。
 
200804
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