ミスラがに、チレッタの面影を感じたことはない。南の兄弟と違って、そもそも彼女たちの間に血縁関係はないのだから。オーエンの言うように、チレッタの代わりにしているわけではない。チレッタの代わりにするには、はあまりに静かで根暗で他人のことばかり気にして、幼くて弱い。そして何より、はミスラに近過ぎた。魔法使いが幼少の頃から人に排斥されるのは、珍しいことではない。王子であるアーサーや貴族の嫡子であるヒースクリフですら、そのしがらみから逃れられずにいる(あるいは王侯貴族であるからこそ、なのだろうが)。それでも、生まれた時から孤独だったミスラに恩人から託されたひとりきりの子どもは、今思えばミスラ自身に似ていたのだろう。否、似ているかもしれないと思った、という方が正しい。そこまではっきりとした自覚はなかったが、何か突き放せないものを感じたからこそ約束でもないその願いを託されてやった。石にすると言いながら、長いこと傍に置いて。
ただ、そこに愛情だとか恋情だとかがあるかと言えば首を傾げてしまう。今更そんなものを求めるには、ミスラは長いこと自身の心に無頓着でいすぎた。チレッタがそういう対象なのかと考えたこともあったが、彼女が人間の子どもを産んで死んだ以上その感情は掘り下げるべきではないとわかっている。少なくとも、チレッタに向ける感情とに向ける感情は、全くの別種であるということだけ知っていた。
「あなた、俺のこと好きなんでしたっけ」
ミスラの問いに、いつものように腕の中にいたはこくりと頷いた。そこには逡巡する様子すらなく、自身の感情に疑いを持っていないことが見て取れる。案外自分にさほど似ていないんじゃないかと、内心で呟いた。
「じゃあ、俺に恋してるんですか」
「?」
「恋でも、愛でも。どっちでもいいですけど、そういう感情なんですか?」
「……?」
柔らかい頬をつまみながら問うと、なぜかは首を傾げて黙り込んでしまった。好きだという気持ちには疑いを抱いていないくせに、愛か恋かと聞かれると首を捻る。意味がわからない、と思いつつも、こういうところが似ていると周囲に思われていることをミスラは知らなかった。
「どう違うんですか、それ」
悩むようなことかとミスラが訊くと、は困ったように眉を下げる。自分で言うのも何だが、抱きまくらにされたり触れられたりするのを許して、挙句の果てには石にして食われることまで許して。そんな相手を愛しているかと聞かれて即座に肯定しないというのは、どういう心情なのだろうか。言葉を選ぶように何度か口を開けたり閉じたりしたは、おずおずとミスラを見上げた。
「その……愛とか恋とか、って、どうわかりますか……?」
「……さあ」
問い返されて、首を傾げる。心の成長期を迎えた子どもなら誰しもが一度は疑問に思うようなことを、はミスラに『好き』の種類を問われて初めてまともに考えたようだった。その結果、愛も恋もわからないとは言う。問われたミスラもその答えなど知らないのだから、まったくお話にならなかった。或いは南で育って喉を潰していたなら、「これが愛だ」と言って笑ったのかもしれないが。
「好き、はわかります」
ミスラと一緒に食べるご飯が好きで、最近はネロや賢者が作ってくれるご飯も好きだ。ミスラに抱きまくらにされることも好きだし、魔法を教えてもらうのも好き。気まぐれで頭や頬を撫でたりしてもらえるのも好きで、投げるように本をくれるのも好きだ。ルチルやレノックスが話すときに屈んでくれるのも好きだし、ミチルやリケと駆け回るのも好きで。オーエンやブラッドリーも怖いけれど好きだし、オズやフィガロ、双子たちと話すのも緊張するけれど好きだ。好きという感情は、たくさん知っている。けれど、恋とか愛とかは、わからない。たくさんの本を読んだけれど、自分がミスラに抱く「好き」という気持ちが、御伽噺のような恋愛に結び付くようにはどうにも思えなくて。だって、ミスラはどう考えたって王子様というよりは悪い魔法使いだ。など、いいとこその手下であろう。そんな者たちの愛や恋を描いた御伽噺など、読んだことがない。知らないから、わからない。どういう気持ちなのか、自分でもわからない。オズがアーサーを愛するようにはミスラはを思っていないし、アーサーがオズを愛する想いにからミスラへのそれは重ならない。例えば双子のように、殺してでも離れたくないだとか。魂を縛り付けてでも傍にいてほしいだとか。例えばオーエンのように、あらゆる愛や幸福を嗤ったりだとか。例えばフィガロのように、何一つ執着するものを得られないだとか。例えばブラッドリーのように、裏切られたかもしれないと思うと傷付くだとか。周りの魔法使いたちですら自分たちとはあまりに違いすぎて、わからなくなる。ミスラはそういうことを疎ましがっているようだったから、わからないようにしてきたというのもあった。
「えっと……愛とか恋とか、わかったほうがいい、ですか……?」
「ええ、まあ」
戸惑うの首を、ミスラが掴む。まだその手には力が込められていないけれど、とくとくと静かな脈を断つのがこの手なのだとわかった。そっと、指先が血管のあるだろうそこを撫でる。明日の天気を諳んじるような気軽さで、ミスラはそれを口にした。
「そのうち、あなたのことを石にするので。心残りがあるようなら叶えておこうかと」
「あ……」
「忘れてたんですか?」
「いえ、その……」
心残りがないようにするということは、たとえばが恋をねだったら叶えてくれるのだろうか。愛を乞えば、許してくれるのだろうか。何だかそれはとても――嬉しく、なかった。
「なんですか?」
「……なんでも、ないです」
あまりにも、贅沢だろう。元々石にする予定だったを、この年まで生かしてくれて。おまけに、心残りのないように想いを叶えようとしてくれている。優しいミスラに、誠実に報いたい。だから、この沈んだ気持ちはひどい我儘だ。胸の奥底に沈めて、凍らせよう。きっと自分は、贅沢になりすぎた。魔法舎の皆の優しさに慣れきって、欲張りになったのだ。だから、ありがたく受け取るべきだ。ミスラの優しさに感謝をして、石になろう。
「ありがとう、ミスラ」
「礼はいらないので、早めに考えておいてください」
そのうち、とは言ったがそう遠くはないうちにその日は来るのだろう。大いなる厄災の傷は、賢者がいればある程度緩和できる。ルチルやミチルたちを初めとする他の魔法使いたちと関わりを持つようになって、ミスラの居場所はあの寂しい北の住処ではなくなった。きっと、もうはあまり要らなくなっているのだろう。嘆くことはない、嘆いてなどいない。石になることに、恐怖は感じていなかった。ただ、最後までミスラの優しさに応えたい。せめてミスラが叶えようとしてくれている恋愛ごっこに真剣に応えなくてはと、はきゅっと拳を握り締めたのだった。
「おや、小さな大魔女様。お一人でいらっしゃるとは珍しい」
その日シャイロックのバーのドアを開いたのは、雪の妖精のごとく可憐な少女だった。いつもはミスラの影に隠れている印象が強いが、今日は一人らしい。飲食への関心が薄いがここに来るということは、求められているのは酒ではなくシャイロックだろう。それも彼女と親しい北の魔法使いや南の兄弟たちを頼らないあたり、何やら入り組んだ事情がありそうだ。以前彼女に出したときに気に入っていたノンアルコールカクテルを手早く用意しながら、所在なさげに佇むを席に促した。幸い、今日の客は彼女が初めてだ。シャイロックはに見えないところで魔法を使い、そっと扉に防音の魔法と鍵をかけた。
「小さな……?」
おずおずと椅子に腰かけたは、魔法具のぬいぐるみをぎゅうぎゅうと抱きしめながら首を傾げる。小さな大魔女。一見矛盾するその呼び名で彼女を呼ぶのはシャイロックくらいなものだ。面と向かって呼んだのはそういえば初めてだったかと、雪の造花のごときかんばせを見下ろしてシャイロックは蠱惑的に微笑んだ。
「貴方様は、百年もすれば北の彼らに名を連ねて語られる方ですよ。いずれ大魔女の二つ名も、チレッタではなく貴女の戴く冠となる」
「……大魔女、いらない、です……」
「おや、どうして?」
「母様のもの、とりたく、ないです」
「あらあら」
時の流れに逆らおうとするいじらしさは、まだまだ幼い子どものそれだ。生みの母よりも母として慕う存在から、その名を思い起こさせる称号を奪っても嬉しくないと拗ねる。ミスラの教育の賜物なのか、元々こういう性情なのか。両方でしょうね、とシャイロックは思う。けれど、そもそもは大魔女になるまでは生きられまい。自らの未来をミスラに明け渡している少女への憐憫をリキュールに沈めて、本来の用向きをさりげなく問うた。
「……シャイロック、おとなです」
「ええ、そうですね」
「恋と愛について、教えてほしい、です」
「……おや、まあ」
哲学者のように眉を顰めて、が口にしたことはといえばあまりに可愛らしい相談だ。まろい頬が、言葉を躊躇うように輪郭を揺らがせる。本当に、オズと同じところなどその色彩だけだと思った。彼女の生みの母は恋にさえ狂わなければそれなりの魔女として名を馳せていただろうが、やはり強い北の魔法使いであるがゆえにどこか欠落していたのだろう。本来の彼女の髪と目の色を、シャイロックは知っている。彼女の母がそうであったように、の本当の髪と瞳はあらゆる色の抜け落ちた白銀だ。何も持たないがゆえに眩く美しい、そんな芸術品をよりによって色を与えるという形で損なってしまった。宵闇に踏み込む紺の髪も、血よりもなお熱い赤の瞳も。彼女に与えるには強すぎる色で、ちぐはぐだ。美しいものとして生まれ落ちた我が子を恋のために塗り替えてしまえるほど、の母親は母として欠落していた。にとって、恋や愛という概念は原罪に近い。本人はミスラがそういうものを疎ましがっているから避けていると思っているようだが、がそれらを忌避するのはむしろ生まれに伴う罪悪感からだろう。生まれてきたという罪を、母に呪われた身で贖い続けている。そんなが、愛恋の情を知りたいとシャイロックに乞うている。一体何があったのだろうと、西の魔法使いらしい好奇心の強さでシャイロックは話の続きを促した。上品な猫のように眇られた目の奥には、こんな滅多にない面白い話を最初に打ち明けられた愉しさが潜んでいる。
「ミスラ、愛でも恋でもくれるって、言ったんです」
のぽつぽつと語る事情に、シャイロックは澄ました顔でいたもののクスリとでも笑わないように必死だった。なんとあの傍若無人を絵に描いたような御仁は、冥土の土産に少女の望むものを与えようとしているらしい。それが自分が愛だの恋だのに応えることで叶うと思っているらしいのだから、なんとも彼らしいというか。謙遜も遠慮もなく、この少女が自分の存在に幸福を得ることを事実として認識している。人生最後のごっこ遊びに付き合うくらいは構わないと、それは果たしてあの大魔女への手向けなのだろうか。それとも、この少女への餞なのだろうか。
「でも……わからなくて、」
グラスの中で揺れる翠の水面に目を落とし、は形のいい眉を下げた。まともに礼儀作法を教わって育っていれば気品に溢れていただろうと思わせる生まれつきの楚々とした佇まいが、にはある。「けだもの」「野蛮」と周囲に評されるミスラの元で育ったことで、それは美しくも危うい――たとえば歌声で人を魅入らせ海に引きずり込んで喰らうような――魔性と隣り合わせの儚さへと変化していた。愛も恋も知らない、降り積もったばかりの雪のような少女。自らを溶かす手のひらの熱は知らないのに、足跡に蹂躙されることだけ知っている。
「ちゃんと欲しいもの、言えなきゃだめなのに……わからなくて、困って……」
「ちなみに、北の方々ではなく私を相談相手として選んでいただけた理由は?」
「その……双子様は、愛してるから殺し合いになったって……」
「……ええ」
「ミスラと、殺し合いはしたくなくて。ブラッドリーに訊いても、『てめぇにゃまだ早え』って」
「案外彼は悠長なのですね」
「オーエンは……」
「…………」
「……フィガロ先生は、『俺とイケないことする?』って言って、ルチルさんとファウストさんに耳を引っ張られていきました」
「なるほど。理解できました」
誰も彼も、まともにミスラとの恋愛相談などできようはずもない。愛憎の末に片割れを失った双子。ミスラがを石にしない未来に賭けているブラッドリー。愛を並列に語ることを無言で避けられたオーエン。愛を知らないくせに、愛欲の地獄に物見遊山で首を突っ込むフィガロ。この子の保護者どころか、周囲を見渡してもにろくな人間性を有したものがいない。それでは、とシャイロックはひとつの提案をにする。
「しばらく、ここにいらしていただくというのはどうでしょう? まだ魔法舎には、貴女が愛を問うていない魔法使いが何人もいますから」
色々とネジの飛んだ北の魔法使いばかりが、愛を知るわけではない。とミスラの関係は複雑怪奇で、何が参考になるのか皆目検討もつかないのだ。シャイロックは人生経験が豊かで、もちろんこういった恋や愛に焦がれる魔法使いたちに頼られたこともたくさんある。だから、的確に助言してしまえる自負はあった。けれどこれは、お姫様と王子様の恋愛譚ではない。化け物同士の指先が触れ合っただけの、危うい状態だ。それでも美しくて醜くて、華々しくておぞましい。予定調和に収まってつまらない結末を迎えるより、花を散らすように刹那の真実に辿り着く方がきっと。この二人の奥底には可愛らしい恋も健やかな愛も存在しないと察していたから、いっそ怪物のはらわたを引きずり出した方が愛おしい。そんなささやかな好奇心と、長くを生きた魔法使いなりの思いやり。そうして、少しばかりいつもと違う夜の一日目が始まったのだった。
200705