「…………」
ミスラは、少し退屈しているように見えた。魔法舎にあるシャイロックのバーで、氷を手掴みでぼりぼりと食べつつ強い酒を舐めて。膝の上に抱えたが賢者やカインとババ抜きに興じるのを、気だるげに眺めていた。他の席では双子やオズ、ブラッドリーたちがそれぞれ酒を煽ったりシャイロックと雑談に興じたりと、今晩はなかなかの盛況である。ミスラは時折勝手にの代わりにカードを引いたりの髪を引っ張ったりしているが、何を考えているのかはわからない。のためにシャイロックが出したノンアルコールカクテルを勝手に飲み、お気に召さなかったらしくテーブルに黙って戻していた。
「ちゃん、ババ抜き強いね」
「?」
「動揺もしないし表情に出ないから、しれっとジョーカーを渡してくるんだよなあ」
賢者とカインがのポーカーフェイスを褒めると、は少し嬉しそうにはにかむ。彼女も勝敗にこだわる北の魔法使いだから、どんな分野であれ強さを認められることは嬉しいのだろう。こういうところで時折、が北の魔法使いであることを思い出す。大人ばかりのバーに連れて来られたと遊んであげるつもりだったのに、すっかり遊んでもらっている側になっている気がした。
「なら、ブラッドリーともいい勝負になるんじゃないか?」
「あ? 呼んだか?」
「ブラッドリーもババ抜きしませんか? ちゃん、けっこう強いんですよ」
「おう、いいぜ。俺が勝ったらこの燻製はもらっていくからな」
酒のつまみを賭けにして、ブラッドリーもババ抜きの輪に加わる。心理的な揺さぶりの上手いブラッドリーからカードを引く側にを置いたのは正解で、何を言われてもスンッとした顔で迷いなくカードを選び取っていくはやはり澄ました顔で賢者にカードを向けてくる。カインもブラッドリーには一歩譲るような形になっているものの、賢者からカードを引くときには油断ならない余裕を見せつけて。そうして、勝負は白熱していくかと思われていたのだが。
「……ッ、!?」
びく、と尻尾を踏まれた猫のように突然が身を跳ねさせる。ばらばらと、の手からカードが落ちて。慌ててそれらを拾い上げた賢者は、どうしてがカードを落としてしまったのかを目にして凍りついた。
「っ、……! ……!?」
カインとブラッドリーも、「それ」を凝視したまま動かなくなる。がっちりとの顔の下半分を覆うように、口を塞いでいる大きな手。腰を抱くどころか、締めるような強さで拘束している腕。動けないようにを抱え込んで、ミスラがその首筋に噛み付いていた。
「……、……!!」
声を出せないが、口元を覆うミスラの腕に縋り付く。小さな手が、細い指が、幾回りも大きなミスラの手を必死になぞった。かじ、とミスラは白く細い首筋に繰り返し噛み付いては舌でべろりと舐め上げて。白い肌に、赤い噛み跡があっという間に広がっていった。捕食するように、ミスラはがぶがぶと柔い肌を食む。噛むだけでは飽きたのか、ぢゅっと吸い付いて痕を残したりもして。
局所的に空気が凍りついているのかと思っていたが、気付けばバー全体が静まり返っていた。ミスラが首筋を嬲る粘着質な水音との堪えるようなくぐもった息遣いだけが、しーんとしたバーの中に響く。追加のつまみを運んで来てくれたネロも、カウンターのシャイロックも、その手元の果物をつついて遊んでいたムルも。上品にカクテルを傾けていたラスティカも、その隣で同じカクテルを芸術品のように眺めていたクロエも。双子に絡まれて辟易としていたオズも、彼で遊んでいた双子も、その様子を酒の肴にしていたフィガロも。皆、ミスラの突然の行動に思考停止したかのように動かない。じゅる、ぴちゃ、とミスラはのうなじに吸い付いたり舌を這わせたり、また噛み付いたりと好き放題首筋を貪っていた。狼狽を色濃く訴えているであろう赤い瞳はぎゅっと閉じられた瞼の下に隠れ、紅潮した頬はミスラの手に覆われてほとんど見えないものの耳まで真っ赤に染まっているのが見て取れる。息が足りないのか身悶えているのか、の小柄な体がびくびくと震えて。それを抑えるように、あるいは宥めるように、ミスラが腰に回していた手での腹をするりと撫でた。
「――こんなとこで盛ってんじゃねえ!!」
いち早く我に返ったのはブラッドリーだった。ミスラの腕の中から強引にを引っ張り上げて奪い取り、賢者にを押し付ける。「なんですか、ブラッドリー」と気を悪くしたように眉を顰めるミスラに、「何もクソもあるか」とブラッドリーは吐き捨てた。
「いきなり何してやがる」
「退屈だったので……の首を見ていたら、白くて柔らかそうだなと」
「だからって噛み付くやつがいるか、時と場所を考えろっつってんだよ」
「俺に今更そんなことを言いますか」
ブラッドリーがぎゃんぎゃんとミスラに食ってかかる横で、賢者は自分に預けられたを恐る恐る見下ろす。まだ顔の赤いは茫然自失といった状態で、どうにか息を整えながらミスラに噛まれた首筋を押さえていた。賢者は賢者で目の前で繰り広げられた淫猥な光景の刺激が強すぎて、のフォローをしなければと思いつつもその首の痕を直視することができない。隣に来たカインがにハンカチを差し出し、賢者はハッとして声を上げた。
「しゅ、集合ーーー!!」
「おっ」
「スノウとホワイトは俺と一緒にちゃんのメンタルケア! カインとラスティカは真っ赤になって固まってるクロエの担当! オズとフィガロはミスラに教育的指導!! シャイロックはムルの確保!」
「俺らはどうする?」
「ブラッドリーとネロはオズたちと一緒にミスラを見てて! でも正直俺もメンタルケアが必要です!!」
「正直だな、賢者さん。まあお子様には刺激の強い光景だよな」
「ガキどもの精神状態が大惨事じゃねえか」
カインから渡されたハンカチで首を押さえたまま放心していると、そんなの前でオロオロわたわたとしている賢者。「すごいもの見ちゃった……」と乙女のように真っ赤になってぷるぷる震えているクロエ。ブラッドリーの言う通り、大惨事である。酸いも甘いも噛み分けた代表であろうシャイロックがこの場を収める適任であろうが、これ以上場が引っ掻き回されないように彼にはムルを見ていてもらわなければならない。シャイロックも同意見なのか、端正な顔に少し申し訳なさそうな笑みを浮かべてムルの襟を掴んでいた。
「申し訳ありません、賢者様。ムルのことはできる限り捕まえておきますので」
「なになに? 俺、仲間外れ? ひどいね! いいよ、気にしない!」
「それは助かります。あなたは大人しくこのカクテルを楽しんでいてくださいね」
ムルが今「ねえどんな気持ち?」を繰り広げた場合、さらに場が混沌とするのは目に見えている。襟を離されたムルが大人しくカクテルに口をつけたのを見て、賢者はほっと息を吐いた。ネロがひょいっとをソファに移してやり、シュガーを与えてやる。両脇に陣取った双子が、よしよしとその頭を撫でた。
「可哀想にの、」
「さぞびっくりしたじゃろうて」
「賢者も驚いたじゃろうに、咄嗟にやクロエを気遣うことができてえらいのう」
「お主らは皆初心じゃからの」
「なんかもう……反射的に……」
「あんたにもシュガーやるよ、賢者さん」
「ありがとうございます……」
ネロのくれたシュガーを口に含むと、些か気分が落ち着く。もらったシュガーを手にしたままの格好で固まっているにも、食べることを促して。双子と一緒に大丈夫かと声をかけ続けていると、の精巧な人形のような作りの顔がほんの少し動く。ゆっくりと瞬きをして、薄く唇が開いた。
「……ぴ」
「ぴ?」
謎の鳴き声をあげたに、ホワイトが首を傾げる。ギギギギとぎこちない動きで首を回したは、ほんのわずか見えた自身の首の赤い痕を凝視して。そうして、前触れもなく気を失って倒れた。
「!? しっかりせんか!」
「キャパオーバーじゃなあ」
「スノウたちは本当に妙に現代語に詳しいですね!?」
「……嬢ちゃん、気絶したぞ」
「この馬鹿のせいだろ」
「ブラッドリー、あなた今俺のことを馬鹿って言いました?」
「馬鹿でなければ愚かなのか」
「いやー、チレッタになんて言い訳しようね……」
を取り上げられて不機嫌そうなミスラを、オズたちが囲む。「あまり可哀想なことをしてやるなよ」と頬をかいたフィガロに、ミスラは首を傾げた。
「可哀想? 何がです?」
「に決まってるだろ。お前と違ってには多少なりとも羞恥心ってものがあるんだから、気遣ってやらないと」
「場を弁えろということだ」
「……?」
「おい、こいつに説教とか俺はゴメンだぞ」
「言っても聞かねぇどころの話じゃねえしなあ……」
少し、退屈だっただけだ。はカード遊びに楽しそうにしていて、ミスラがちょっかいをかけてもすぐにまたカードに視線を戻して。賢者もカインもブラッドリーも、がミスラの所有物であることをわかっていない。理解していないから、気安くを喜ばせたり笑わせたりする。何となく、面白くなかった。何をすればこの子どもは笑うのだったかと思って。小さな丸い頭を見下ろしてそんなことを考えているうちに、柔い首筋が目に入ったから。酒気もない甘ったるい液体の残滓を上書きするように、雪のような肌に噛み付いたのだった。
「ああいうのは、二人きりでやましいことをする雰囲気のときにするものだよ」
「フィガロ、との不純異性交遊を勧めるな」
「あんたはすっかり『お義父さん』だな……」
呆れるネロの横で、ブラッドリーは既にミスラへの説得を放棄してつまみを口に放り込んでいる。賢明な判断だと、ミスラはぼんやり思った。オズやフィガロたちに何を言われようが、が羞恥で倒れようが、ミスラは自身の行動を改める気はない。ただ、自分の思うように動くだけだ。それを唯一力で捩じ伏せて従えられるのは『お義父さん』くらいなものだろうが、今は朝も遠い真夜中だ。厄災の傷で無力な存在と化しているオズを、恐れる必要などない。
「……〈アルシム〉」
「あっ!?」
「おい、逃げたぞあいつ!」
「もおらんぞ!」
「ほっとけよ、追うだけ無駄だぜ」
その後のバーでの騒ぎを、ミスラは知らない。気絶したを抱えて夜の湖に来たミスラは、の頬を摘んで起こす。カインが貸していたハンカチは、妙にイラついたのでどこか適当な空間を開いて棄てておいた。あの若い騎士はそんなことで気を悪くしないだろうし、仮に気を悪くしたところでミスラの知ったことではない。が薄ぼんやりと目を開くのを待ってやったのは、一応の優しさだった。
「……みすら」
の視線が、自らの状況を把握しようと動く。それさえ面白くなくて、ミスラはの頬を掴み目の下を親指の腹でぐいっと押した。オズとは似ても似つかない赤いだけの瞳が、ミスラを映して戸惑う。それでいい、とようやく何かが満たされた気持ちになった。
「ここでなら、噛んでもいいんでしょう」
「……?」
「あなたを気遣うというのは、こういうことを『二人きりでやましい雰囲気のときにする』ことだとフィガロが言っていましたよ」
「そうなんですか……?」
「さあ、俺は知りませんけど」
きょとんとされても、を気遣うことの正解をミスラが知るわけもない。そういうのは、の方が知っているはずだろう。あるいはでさえ、わからないのかもしれないが。
「ミスラ、その、噛みたいんですか……?」
「……さあ」
「……?」
首を傾げられて、ミスラも一緒に首を傾げる。どうせはミスラが噛みたいといえば否やなく首を差し出す。たとえ自分が恥ずかしさのあまり気絶する結果になったとしてもだ。本当に気遣いなど必要なのかと疑わしく思えてくるが、少なくとも魔法舎で他の魔法使いの目があるときにに手を出すとうるさいのがいることは事実だ。お義父さんだの、親戚の優しくて善良なお兄さんだの、可愛いおじいちゃんだの、そういうのを自称する面倒な年長者たちが。かといって自分の目的がその首筋を噛むことだったのかと思えば、確かに首を傾げざるを得ない。ただひとつだけわかるのは、渇きにも似たそれはもうミスラの内から消え去っているということだけだ。ミスラの一挙一動に怯えて泣いて、そのくせミスラミスラと後追いして慕う可笑しな子ども。一応、石になるまではの望む関係でいようと思ったはずだった。それを煩わしいと思ったことはないのに、どうしてああも苛立ったり
飢えたりしていたのか。どうにも、この子どもに付随する感情は面倒なものが多い。それでも泣かれたり悲しまれたりするのは気分が悪いから、優しくしてやっていた。
「なんかもう、面倒ですね」
その言葉は、思ったより冷たくはならなかった。が面倒だから石にしてしまおうとか、少なくともそういう方向性ではない。もミスラの言葉に負の感情が伴っていないことをわかっているから、怯えたり泣いたりはしなかった。を抱えて、ぽすりと柔らかい草の生えた地面に倒れ込む。結局、自分が何をしたかったのかよくわからない。そもそも、過去の自分の行動の理由を深く掘り下げて考えるような性質ではないのだ。だからきっと、これでいい。今自分が飢えていなくて、も泣いていないから、これでいい。柔らかい体が腕の中にあるのは、気分が良かった。その目がミスラに向いているのなら、尚更。
「……ひうっ!?」
首筋の痕が目について、そういえば痛かったかもしれないなと思って舐めてみる。バーのときと違って口を塞がなかったから、愛らしい声を上げては肩を跳ねさせた。そう、何となくこの声を周りに聞かせたくなくてあの時は口を塞いだ。の声は、小さくとも腹の底をぞわりとさせるから。一応これでもやはり、気遣ってはいるつもりだ。気遣いではなく、ミスラの我儘なのかもしれないが。結果的には、同じことだ。何とも煩わしいことが多いけれど、が「まとも」でいたいなら気が向いたときに付き合ってやるくらいは別にいい。結局ちゃんとした「まとも」ではなくとも、は喜ぶのだからいいのだろう。ミスラは別にまともになりたいわけでない。のしたがることに付き合うと嬉しそうな顔をするから、たまには付き合ってもいいかと思うだけだ。それを双子やらルチルやらが愛だなんだと定義したがる理由が、よくわからない。の首筋を労わるように舐めたり吸ったりしながら、今日も眠れなさそうだと諦め半分に思う。仄かな月明かりの中、二人きりで夜に溶けていくような世界。石にして喰らうより、ずっとずっと近くにいるような気がした。
200704