誓って、ただの親切心だ。自分をぼんやりと見上げる瞳をなるべく直視しないようにしながら、自身に言い聞かせる。そうでもして心をしっかり保たないと、うっかり転んでしまうかもしれなかった。
「……大丈夫? 
「…………」
 こくり、と可愛らしい仕草では頷く。どうして手を繋いでしまったのかと後悔しつつ、その手の柔らかさや体温を意識しないように話しかけた。ぼんやりと、魔法舎の庭を歩いていた。朝の散歩だろうかと声をかけようとしたヒースクリフは、突然べちゃりと転んだに心底驚いて。慌てて駆け寄って大事無いかと問うたヒースクリフをはぼうっと見上げるばかりで、いつも以上にふわふわと心ここに在らずな様子だった。石畳の上でぺたりと座り込んでいることをまるで気にしていない様子のに、手を貸して立たせて。怪我が無いのを確認したが、ふわふわと視線も足取りも定まらないを見送るのが不安で部屋まで連れて行くことにしたのだ。捕まえておかないと朝の霞の中に消えてしまいそうな雰囲気は、本当に妖精か何かのようだった。
「…………」
 ヒースクリフばかりが気まずい、沈黙。今朝のは、いつにも増して人間離れして綺麗な獣じみた空気を纏っていて。白い肌はしっとりと濡れたような色香を放ち、薄い唇は珍しく血色が良く、紅を差したように色付いて花弁のようにふっくらと柔らかそうな線を描いている。光を吸い込んで艷めく紺色の髪は流れる絹糸のようで、淡く爽やかな朝の光の中では迷子になった夜の名残めいて見えた。今にも眠りの中に落ちそうなとろんとした赤い瞳はゆらゆらと曖昧に光を帯びて揺れていて、溶けかけた飴玉のように仄かな甘さを孕んでいる。ゆったりを通り越して今にも足を止めそうな気だるげな空気と、ヒースクリフに礼を言おうとして掠れた声。溶けかけた名残雪のようなを朝まで腕の中に抱いていたであろう「誰か」の残り香が、彼女の指先や首筋にまとわりついていた。聡いヒースクリフは、が空の白む今までミスラと情を交わしていたであろうことを悟ってしまって。普段慎ましく人間らしくあろうとしている可憐な少女が、情事の名残と眠気のせいでぼんやりと養い親のように色気をダダ漏れにしている。しっとりと甘い匂いを放つ百合のような色香が、たとえその気がなくとも転んでしまいそうな危機感をヒースクリフに抱かせた。本当に、ただの親切心で。下心などなくて。恋愛沙汰は自分に縁のない話だと思っているような純朴な箱入り息子。そんなヒースクリフには、化外じみた蠱惑に片足を突っ込んでいる少女の無防備さは刺激が強すぎた。夜着代わりの薄手のワンピースと、緩く纏められただけの髪。いつもはかっちりとしたブラウスや鉄壁のタイツに隠れているほっそりとした手脚が、頼りなく揺れている。本当に、怖くなるほど綺麗な少女だ。どんなにその気がなくとも、頬が熱くなってしまうのは健全な男子として当然の反応だと弁解したくなる。誰に言い訳しているのだと呆れつつ、努めて機械いじりのことを考えて気を逸らそうとするヒースクリフ。ミスラの部屋が見えてきたところでほっと息を緩めると、その安堵を凍り付かせるようにゾッと背筋に寒気が走った。
「――
 凍てついた夜のような声に、背筋が粟立つ感覚を覚えてバッと勢いよく振り返る。廊下の壁にもたれかかるようにして、ミスラがそこにいた。この場だけ冬になったような、痛いほどに冷たい威圧。よりずっと鮮烈で、本能的な捕食の恐怖を煽るような存在感。肉に喰らいつく生き物であることを隠しもしない、残酷な野生の獣を彷彿とさせる佇まい。熱いと錯覚しそうなまでに冷たい瞳が、気だるそうに二人を見遣った。ミスラの声に反応したが、とろんと眠そうな顔を上げて目元を緩める。あまりにも呑気な反応に、ヒースクリフの方が肝を冷やした。
「眠いときに出歩くなって、言ったはずですけど」
「ねむく……ないと、思って」
「そう言ってふらふらするじゃないですか、あなた」
 はあ、とミスラが吐いたため息には、夜の名残の色香があった。よりも生々しくて恐ろしくて、暴力的な気配すらある凄絶な色気。眠くても眠れない夜を情事で紛らせて、薄明の夢現に身を委ねていたのだろう。を探しに出ていたらしいミスラは、下は履いているものの上半身はいつもの黒いシャツに袖を通しただけだ。やや細身ながらも均整の取れた体が惜しげも無く晒され、緩く適当に履いたせいで今にもずり落ちそうなスラックスからは腰というか下腹部のギリギリなところが見えそうになっている。野性的な色気を放つ鎖骨はくっきりと浮き上がって、傷の多い胸や腹は適度な筋肉がついて引き締まっていた。真面目で品行方正で育ちの良いヒースクリフには、ある意味以上に目の毒なミスラの姿。下っ腹にあると聞いていた賢者の魔法使いの紋章まで目に入ってしまって、ヒースクリフはぶわっと顔を赤くした。
「……何してるんですか?」
 獣の視線が自分に移ったことに、心臓がぎゅっと緊張で縮こまった。特に悪意や威圧はなく、単に疑問に思っただけのようなぼんやりとした声音だったが。その視線が、の手を引いていたヒースクリフの手に移る。何もやましいことはしていないはずなのに、視線を向けられただけで全身全霊で謝罪したくなるような恐怖に駆られた。ひとつでも選択肢を間違えたら、喉笛を噛み切られるのではないかと思うような。東の王家や貴族たちを前にしたときだって、こんなに冷や汗を流したことはない。振り払うような手付きにならないよう慎重にの手を離して、そっと小さな背中を押した。
「落とし物を、届けに来ました」
「……へえ」
 カラカラの喉で紡ぎ出した返答は、酷薄なけだものを面白がらせたらしい。造り物めいた端正な顔に薄く笑みを滲ませて、ミスラはを受け取った。ふわふわと迷子のような足取りのの腰を掴み、ぽすりと裸の胸に収める。物分りのいい返答を気に入ったらしいミスラは、怯えながらも気丈に視線を合わせるヒースクリフからすっと視線を外した。その瞬間にどっと安堵で崩れ落ちそうになるのを堪えて、膝に力を込める。慣れた匂いに安心したようにすやすやと寝息を立て始めたを片腕で抱き上げたミスラは、去り際にちらりとヒースクリフを見て。
「あなたは長生きしそうですね」
 どこか愉しげにそう言って、部屋に戻っていった。今度こそ、安堵に胸を撫で下ろす。ヒースクリフの賢しさと分別が、がミスラの所有物であるという前提の言動をとらせた。冬が去ったように緊張から解放されたヒースクリフは、踵を返して自分の部屋へと向かう。早起きは三文の徳と賢者が以前言っていたが、今朝拾ったのはどう考えても厄介事だっただろう。迂闊な受け答えをしていれば、あの恐ろしいけだものの機嫌を損ねていた。気に入られてもそれはそれで面倒なことになるのだろうが、求めて怒りを買いたい相手ではない。たとえ常識的に考えて理不尽であっても、『あれ』は人の理など及びもつかないところを生きている存在だ。敵視されなかったことを僥倖と思えど、所有物を届けたのに何を疑うのかと憤るような愚かさはない。を見つけたのがシノではなくて良かったと、直情が長所でもあり短所でもある幼馴染を思い浮かべてほっと息を吐いた。潔癖なところのあるシノは、邪な気持ちを疑われたと思ったら気を悪くするに違いない。確実に、朝からひと騒動起きていた。あの獣に真正面から食ってかかる勇気は、羨ましくもあるけれど。それは時に命を縮める劇薬でもあると、ミスラに言われずとも知っている。気まぐれで傲慢なけだものが届け物の礼代わりに寄越した忠告は、夏の夜のどこか浮かれた熱でさえ凍てつかせるだろう。厄介事だとは理解していながら、これからも危なっかしいを放っておけず手を差し伸べるだろう自分に、気の迷いなど間違っても起こさないように絶対零度の釘を刺してくれた。多少の役得じみた幸福感を見逃してくれるだけ、あのけだものにしては優しい方だろう。冷酷な魔王などと呼ばれるオズより、実際よほどミスラは酷薄だ。
「はあ……」
 空から落ちてきたばかりの雪のように脆い少女は、あの凍土の化身のような腕の中で安らげるらしい。愛らしい呑気な寝顔を思い出し、化外の領分に片足を突っ込みかけている小さな魔女の行く末を憂いたヒースクリフだった。
 
200710
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