「何を真面目に着席してるんですか、
 授業のために教科書を机の上に出していたは、突如首を掴まれて持ち上げられる。休み時間特有の解放感にざわめいていた教室が、一瞬で静まり返った。
「ミスラ、」
 の首を掴んで持ち上げる者など、一人しかいない。慣れた大きな手の感触に振り向くと、いつものように気だるげな表情のミスラがそこにいた。ミスラは今朝登校する時間になっても寝ていたから、だけ双子に送られて時間通り登校したのだが。三時間目を迎えようとしている今、ミスラは登校したらしい。そして、この後の授業もまともに受ける気はないようだった。の返事に興味はないようで、首を掴んだまま歩き出す。一年の教室に三年生、それも元不良校の生徒会長が来ているわけだが、皆触らぬ神に祟りなしとばかりに黙りこくっている。ミスラによるの拉致は、わりといつもの光景になってしまっていた。も慣れたもので驚いたりはせず、されるがままに引きずられていく。咄嗟に掴んだ教科書だけを抱えて、はミスラと共に教室から姿を消す。その後授業の時間になり教室に入ってきた教師も妙にお行儀よく座っていたクラスメイトたちも、ノートや筆箱だけが残された空席について触れることはなかったのだった。

「それ、面白いんですか」
 の肩に顎を乗せて、ミスラはの手元にある教科書を覗き込む。面白くもないがつまらなくもないため曖昧に頷くと、ミスラはどうでも良さそうにしながら勝手にページを捲った。特に真剣に読んでいたわけでもないので、ミスラの指の動きを目で追う。どこかで喧嘩をしてきたのか、黒のネイルが少し剥がれていた。
「ミスラ、爪……」
「? ……ああ、殴ったやつのピアスに引っかけましたかね」
 ミスラが当然のように片手をに預け、もまた当たり前のことのように教科書を置いてポケットからポーチを出した。どうせ今日は撮影があるから双子のところでスタイリストに直してもらえるのだろうが、ミスラがやれと言うなら拒む理由もない。除光液のシートで黒のネイルを丁寧に落とし、双子推薦のクリームを塗り込んでいく。手持ち無沙汰らしいミスラは、の手を指でなぞったり手入れされていない方の手でのセーラー服のリボンを弄ったりと気ままに遊んでいた。
「……髪、双子にやってもらったんですか」
「あ……はい。たまにはアレンジをしてみたらどうかと言われて」
「へえ……」
 双子が楽しそうに編み込んでくれた髪に興味を示して、ミスラは指先で編み込みをなぞっていく。ミスラが当然のように事務所に連れて来ては隅に放っておくを構ってくれるのは、もっぱらスノウとホワイトで。本来男性向けのブランドを展開している二人なのだが、を着せ替え人形にして遊んでいるうちに「少女向けブランドも悪くないかのう」と言い出すようになってきた。あれこれと双子がに着せた服の感想をミスラに求めても大抵「はあ」だとか「いいんじゃないですか」としか言わないから、あまりの外見に興味がないものだと思っていたのだが。
「髪、俺がやってあげましょうか。明日」
「え、」
「いりませんか」
「い、いる、ます……っ、いります、」
 あまりに予想外だったミスラの言葉に、虚を突かれて。もたもたと悩んでいてはせっかくの気まぐれを撤回されそうだったので、噛みそうになりながらも何度も首を縦に振った。なぜとかどうしてとか、それを問う必要は無い。ミスラはそういった気まぐれの理由をあれこれ問われることを厭うし、ミスラが与えてくれるものはただ受け取ればいいのだとは知っている。嬉しいと、ありがとうとだけ伝えればいい。
「ありがとう……ございます、ミスラ」
「明日は勝手に登校しないでくださいよ。教室まであなたを取りに行くの、けっこう面倒なので」
「は、はあ」
 もしかしたら、抱きまくらとしての労働の対価なのだろうか。ミスラはいつも屋上でサボるとき、「枕がないと寝心地が悪いんです」と言ってを連れて行くから。双子の事務所に連れて行くのも、休憩時間に枕にするためだ。同じ養い親の元で育ったけれど、兄妹とも家族とも言い難い関係で。ただ、何となく今も二人で暮らしている。不良校の生徒たちはミスラの連れ合いのように思っているらしいが、自身はそうも思えないしミスラもそんなふうには思っていないだろう。けれど、こうして時折ミスラが気まぐれにに与えてくれて。当然のように自分の所有物として扱ってくれて。それはとても、居心地が良かった。育ての親の話では、に両親はいないのだそうだ。生みの母は気の狂ってしまった科学者で、とある殺し屋に恋をして拒まれ、その容姿に似せて「創った」子どもなのだそうだ。だからには、父親はいない。生みの母は、その殺し屋が父親だと思い込みたかったのだろうけれど。当たり前のことだが、を抱いた母親は意中の人に拒まれた。母親はを産んで暫くして死んでしまったけれど、創られた役目を果たせなかったは彼女にとって役に立たなかった道具だろう。愛を乞う道具として生まれてきたを、「柔らかくて枕に丁度いいから」という本来の用途とは全く関係ない理由で使ってくれるミスラのことが好きだった。作った人間の役には立てず、他の人間にとっては迷惑でしかない存在に、用途を見出して使ってくれる。使えなかった道具は道具なりに、拾ってくれた持ち主に恩義と愛情を抱いているのだ。だからこうして時たま愛着を示されることは、にとっては確かな幸福で。誰かをたくさん傷付けてきたこの大きな手も、怖いと思ったことはない。ミスラは自分勝手な人間ではあるが、が隣にいることを許してくれる。そして時々、気まぐれに優しさを与えてくれる。それだけで、十分だった。
「爪、乾くまで持っててください」
 ネイルを塗り直したばかりの手をに預けて、ミスラはを抱えたまま目を閉じる。気ままで、自由で。ちょっとだけ、の居場所を空けておいてくれる。肩にかかる重みが、の幸せの形だった。
 
200630
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