ざばん、と何かが浴槽に落ちてきた。
ぎょっとして顔を上げた賢者は、湯の中に見えた人影に慌てて救助のために駆け寄ろうとして。意外と落ち着いた様子で水面に顔を出したと、目が合ったのだった。
「きゃーーー!」
その悲鳴がどちらのものであったかは、言わずもがなである。
「それで、どうしてまたをお風呂に落としたの」
「ハーブのお風呂はやめたんですよね?」
賢者の絹を裂くような悲鳴を聞いて駆けつけたのは、ミチルとフィガロだった。昼の薬草風呂騒動を知っている二人が賢者にタオルを羽織らせたり、またしても濡れ鼠になったを乾かしてやっている間にミスラが空間転移魔法でやってきて。どうして風呂から出ているのかとを見たミスラに、「そもそもここ、男湯だからね」とフィガロが呆れたようにため息を吐いた。
「なんか、ハーブの匂いがするんですよ」
「……?」
「いや、ハーブの匂いをさせたかったんじゃないの?」
「の匂いがしなくなって……」
いや、そんなのハーブ風呂に投げ込む前にわかるだろう。とは誰も言わず浴室に沈黙が下りる。は怒ることもなかったが、ただただ呆然としていて。一日に二回も風呂に投げ込まれた理由がそんなことであれば、普通の人間なら怒っているところだろう。十年以上ミスラの身内でいると、気まぐれを通り越した傍若無人ぶりにも耐性がつくのだろうか。不憫なものを見る目が、に集中した。
「なんか、違うなって」
「せめて、普通にお風呂に行ってきてって言うとか……」
「俺は早く寝たかったんですよ」
「結果的にこういう騒ぎになったら遅くなると思うんですけど……」
「はあ。騒いでるのはあなたたちだけでしょう」
ミチルの正論にも、ミスラは悪びれもせず肩をすくめる。とりあえず女湯の方でお風呂に入っておいでと、フィガロがを気遣ったのだった。
「…………」
すんすんと、ミスラがの首筋を嗅ぐ。少しだけ眉を顰めたミスラに本日三度目の風呂ダイブだろうかと不安になっただったが、ミスラは黙ってを腕の中に抱えた。そのままぼすりとベッドに倒れ込んだミスラは、疲れたようにため息を吐く。
「安眠効果だなんて、どれもこれもあてにならないですね」
「ごめんなさい……?」
「別にいいですよ、元々あなたに期待はしていませんし」
そう、元から期待など大してしていなかった。あえて動機を言葉で表すなら、気まぐれと思い付きと八つ当たりが三等分といったところだ。いつものの淡く透き通るような仄かな匂いが、ハーブの匂いに隠れてよくわからなくなってしまっている。自分のしたことと反省するミスラではなく、どころか苛立ちすら覚えて気付けば呪文を唱えていた。ミスラの横暴に慣れているは、今更この程度で泣きも怒りもしないのだが。が改めて入浴している間フィガロとミチルに散々説教されたことなど、その場で右から左に聞き流してとうに頭に残っていない。余計なことをしたと、の肌に未だに残る匂いに顔を顰めた。違う匂いがするから、落ち着かない。安眠どころか、違和感が気になって眠れない。慣れ親しんだ北の住処の寝床に、異物が混ざりこんだような。ぐりぐりと首筋に鼻を押し付けると、くすぐったかったのかの体が少し震えた。まるで獣のマーキングのような行為に、自覚はなかったけれど。
「あなたを食べるときは、生で食べることにします」
「生ですか……?」
お腹を壊したりしないかとズレた心配をしただったが、ミスラは曖昧に唸ってその首筋に噛み付く。簡単に喰いちぎってしまえそうな柔い肉に、安堵にも似た感情を抱いたのだった。
200810