ぐち、ぬち、と嫌な水音が耳につく。噎せ返るような濃い匂いが、この部屋には籠っていて。片手で自分を抱き寄せている――否、後頭部を押さえて強引に胸に押し付けている男が、喉奥で笑った。
「なあ、」
男――の弟が、姉さんだとか姉貴だとか殊勝な呼び方を使ったことは一度もない。物心ついたときからこの男は、姉という生き物を支配していた。
「逃げられると思ったか?」
ひどく酷薄な響きを伴って、耳元で囁かれた言葉。ゾッと冷えた背筋とは対照的に、まるで睦言のように熱かった。
弟とは、訣別したはずだった。そう思っていたのは、滑稽にもだけだったらしい。一方的に去る意思を告げて逃げただけなのだから、弟にそれを受け入れるつもりがなければそれまでの話である。けれど、は正直弟が自分を追うなどとは思っていなかったのだ。死闘だけに生きる意義を見出す弟が、戦士でもなく弱いに執着する理由はないと。一度離れれば興味も失せるだろうとばかり、思っていた。もっとも弟がロドスに辿り着いたのは、自分ではなく「ドクター」を追ってのことであるらしかったけれど。それでも、メディカルチェックを受けに来た新入りとやらと鉢合わせたの絶望といったら。真っ青になって逃げ出そうとした、の腕を掴んで引き止めた弟のギラついた表情といったら。天敵に見つかった野生動物の気持ちはこんなものかもしれないと、間抜けな考えが頭をよぎった。見つかってしまった、再会してしまった。それは決して、にとって歓迎すべきことではなかったのだ。たとえ弟の本来の目的がドクターであっても、その目はを見逃す気など微塵もないと告げていたのだから。
「さん」
戸惑い気味に、医療オペレーターの同僚がのコードネームを呼ぶ。エンカクさんと、お知り合いですかと。尋常でない二人の様子に警備担当を呼ばないだけ、まだ穏便な対応だと理解はしていた。
「エンカク、」
「……そうだな、今はそう呼ばれてる。お前も、そう呼ぶといいさ」
今はエンカクと名乗っているらしい弟は、その名で呼ぶことをに許した。どのみち、本来の名はもうの喉の奥で恐怖と共に錆び付いてしまっている。今更弟の名を呼ぼうにも、呼べる気がしなかった。
「それで、エンカクさんはさんの……」
「……おとうと、です」
俯いたが発した言葉に、同僚は「へえ!」と驚いたような声を上げた。ロドスには珍しくもないが、はあまり自分のことについて語らないタイプで。そのの身内がオペレーターとしてやってきたことに、興味が隠しきれない様子でいる。長らく会っていなかったらしい姉弟、ということで同僚の頭の中では何かしら納得できる理論が勝手に組み上がったらしかった。先程までの怪訝そうな表情など何処へやら、久方ぶりの再会にぎこちない様子の姉弟を微笑ましく見るような視線を向けている。
「『おとうと』、ねぇ……」
「? エンカクさん、何がおっしゃいましたか?」
「いいや、何も?」
にしか聞こえない声量で、エンカクはぼそっと呟いた。その口元には、嘲りと愉悦が混ざったような笑みが浮かんでいる。の背筋に冷や汗がダラダラと伝っていることなど知りもしない同僚が、「せっかくならお茶でも」と要らぬ気を利かせて給湯室に去っていく。積もる話でも、というつもりなのだろうが。話すことなど何もないと、強いて言うなら今すぐこの場を――できればロドスすらも去らせてほしいと言いたかった。強い力で握られている腕には、もうほとんど感覚が無い。離してほしいと言っても、エンカクはその燃えるような瞳でを見下ろすだけだった。どかりと椅子に腰かけて、つんのめったを抱きかかえるようにその耳元に口を寄せる。
「……一応言っておくが」
今逃げたら追う、端的に告げられた言葉はの背筋を震わせるには充分過ぎた。これから身を置くことになる組織での立ち位置など、この弟にとっては本心からどうでもいいのだろう。が弟から逃げるためなら数年間帰る場所にしたロドスを躊躇いなく捨てるように、エンカクも姉を捕まえるためならば新しい居場所などに執着しない。そもそも昔逃げ出せたのも、不意打ちと幸運によって成せたことだ。真正面から逃げたところで、逃げ切れるはずもないのはわかっている。諦めたように首を振ると、エンカクはようやく腕を離す。じわりと血が巡り始めた腕を庇いながら、は数歩下がって弟と距離をとった。
「こんなところまで逃げていたのか」
「…………」
「自分を『ついで』だと思うなよ」
答えないに構う様子はなく、それだけ言ってエンカクも口を閉ざす。弟の言葉の意味が読めなかったが、敢えて問おうとは思えなかった。どう考えても、弟にとって自分はついでのはずだ。ドクターという因縁の相手のいる場所に着いたら、数年前行方不明になった姉もいた。ただそれだけのはずだ。エンカクとは、たまたま同じ親を持っただけの姉弟だ。サルカズという他種族に疎まれる血筋に生まれついて、幼少期から共に過ごした。たった、それだけだ。寄り添って温もりを分け合った記憶もなければ、何か生き方に決定的な影響を与えたつもりもない。はエンカクの姉ではあったが、弟の傍では生きていけないと思って離れた。弟が好む生死の懸かった闘いは弱いには恐ろしいものでしかなかったし、そんな場所で凄絶な笑みを浮かべる弟のことが到底理解できなかった。偶然同じ親を持って生まれただけで、違う世界の生き物なのだろう。はエンカクとは一緒にいられないし、一緒にいたいとも思えなくて。きっとエンカクも、を姉だなどと思っていなかっただろう。嫌だと言うの言葉などまるで聞こえていないかのように、手首を掴んで戦地に引き摺り込んで。必死に頭を庇って蹲るに降りかかるのは、エンカクが斬った人間の生ぬるい血液だった。頭から血を被ったように真っ赤になった弟が、やはり血に濡れたを見下ろして腕を掴む。そしてまた、次の死地へと引き摺っていかれて。怖くて、怖くてたまらなかった。エンカクの傍は、いつも血錆と死臭が立ち込めていた。妖魔とまで言われるサルカズに生まれても、はただのヒトだった。積み重なった屍の中を平然と歩いていく弟のことなど、血の繋がった人間だなどと思えるわけもなくて。平凡に死を恐れ痛みを厭うは、弟の元から逃げた。弟が誰かの首を刎ねていたその刹那に、死地から駆け出した。は弟の望む死闘を与えられる戦士などでも、命を散らすに相応しい戦場を与えられる指揮官などでもない。ただの、ちっぽけなひとりの人間だ。きっと、たまたま隣にいた命をなんとなく連れ回していただけだろう。いなくなればいなくなったで、エンカクの欲しいものなど何一つ持っていないのことなど忘れてしまうに違いない。エンカクとは、まるで違う生き物なのだから。そう思って、辿り着いたロドスで普通の人間として生きてきた。ロドスは決して「普通」の世界ではなかっけれど、まともな経歴もないサルカズを受け入れてくれたのはロドスだけだった。はメテオリーテのようにサルカズという種族のために戦うこともできないし、シャイニングたちのようにサルカズゆえの苦難を乗り越えてなお自らにできることを尽くそうとする強さもない。それでも、このロドスはにとって唯一の拠り所だった。何もできない自分なりに、大切にしようとしていた。ここに来てしまった弟が自分に執着を示しているとわかって、ここを捨てて逃げたくなったとしても。
「……鉱石病」
「ああ、かかった」
どうでもよさそうに、弟は言う。実際、本心からどうでもいいのだろう。サルカズだろうと感染者だろうと、弟の生き方は変わらない。確固たる優先順位を持って、弟は生きている。それをが理解することは、できなかったけれど。顔面や頭部に現れた源石結晶を弟が恥じたり負い目に思ったりすることなど、一生無いに違いない。がもし感染者になったら、同じようにいられるだろうか。それは絶対にないと、くだらない自問を否定した。
「お前は感染者か」
「……違う」
「そうか、いいことだ」
あっさりと、そんなことを言う。大した意味もないのだろうと、は目を伏せた。だから、は知らない。コーヒーを三人分淹れた同僚が戻ってくるまで弟がどんな顔をしていたか、は知らなかった。
「何も無い部屋だな」
「…………」
姉弟ということで、と同じ部屋に入れてやってほしい。後方支援部の職員にそう頼まれて断れなかったのは、今まで自分がサルカズということで気遣ってもらっていたのを知っていたからだった。ただサルカズというだけで同部屋の職員に怯えられて暮らすのも気詰まりだろうと、要人でもないのに一人で部屋を使わせてもらっていて。エンカクは他人と同部屋だろうがルームメイトに怯えられようが気にする性質ではないが、後方支援部の職員はむしろ周囲への気遣いのためにエンカクを周りから遠ざけてやりたいようだった。きっと、入職早々敵を血祭りにでもして引かれたのだろう。の予想は、あながち間違いでもなかった。それに、エンカクはドーベルマンらロドスの主要な人物に警戒されている節がある。血縁であるも、まったくのノーマークというわけにはいかなくなったのだろう。姉弟纏めて同室に放り込んだ方が監視が楽だと、面と向かって言われても納得できるほどだった。
「……私は、こっちを使ってるから。そっちは、好きに使って」
「」
言いかけた言葉を遮って、エンカクは真っ直ぐにを見据える。刀を下ろしていても、ただそこに立っているだけで弟の存在感と威圧感はを怯えさせるには充分過ぎた。それでも、は今日一度も呼ばれなかったその名に眉を顰める。静かな炎のような瞳を見返して、「」と自らのコードネームを告げた。
「ここではそう呼ばれているから、あなたも」
「」
バッサリと、斬って捨てるようにエンカクはまた名前を呼んだ。が今しがた言ったことなど、完全に無視している。昔から、弟はそうだった。の意思も感情も、まるで無いもののように振舞った。そうであることが当たり前だと錯覚してしまうほど、弟がの心情を汲んで行動を改めたことなどなかった。
「お前は前線のオペレーターか?」
「……違う」
「血を浴びないのか」
「血を見たいなんて思ったこと、一度もない」
「そうだったのか?」
驚いたようなエンカクの声色に、も呆気にとられた。静かな、ともすれば冷徹ともとれる表情で周囲を睥睨しているのがこの弟の常だ。純粋に驚いたような表情は、よりはるかに大きくなった弟をずいぶんあどけなく見せた。こんな顔もするのかと、姉としての感慨が湧いてくる。同時に、苛立ちにも似た感情がふつりと胸の奥底を揺らした。けれど、熾火を踵で踏み潰すようにそれらの感情を押し込める。どんな感情をこの弟に抱いたところで無意味だと、「姉弟生活」で思い知っていた。
「――そうだったのか」
噛み締めるように、エンカクが呟いた。まさかとは思うが、彼はがエンカクとは違う生き物だと今の今まで理解していなかったのだろうか。弱く、戦えないが。あの死地にエンカクと同じように生の喜びを見出していたと、そう信じていたというのか。
「足りないのかと思っていた」
「……?」
「お前を粧す血の色が足りないから、不満なのかと思っていた」
「…………」
だから、逃げたのかと。言外に込められた意味も含め、弟の言葉には絶句する。本当に、本当にこの弟は何一つわかっていなかったのだ。が血を厭うていたことすら、今の今まで。じゃあ何か、弟は姉を喜ばせるつもりで返り血を浴びせていたというのか。は泣いて嫌がっていたのに。言葉を失っているは、今度こそ心底から弟を畏れた。こんな目で、弟を見たいわけではない。だって、ただサルカズというだけで異星人のように見られるやるせなさは身をもって知っている。けれど、だからこそは普通の人間の輪に溶け込む努力を惜しまなかった。自分もまた、痛みに泣き喜びに笑い、死を厭うて生を尊ぶ、そんな当たり前の生き物であること。サルカズであろうとそこには何の違いも隔たりもないのだと、そう周囲に理解されるために努めて生きてきたのだ。今ではロドスで関わる多くの人たちが、そのことを理解して尊重してくれている。それなのにこの弟だけは、よりにもよってこの世で最もに近いはずの存在だけは、それを理解しようともしていなかった。血を分けた弟だけが、月よりも星よりも遠かった。
「……なにも、いらない」
「何?」
「きっと、……私とあなたは同じものを見て喜べないから……喜ばせようと、してくれなくていい。だいじょうぶ」
「…………」
震える声で口を開いたの真意を測るように、エンカクはじっとを見据える。姉弟だけれど、同じ色の瞳を持っているけれど、きっと見ているものはまるで違う。それでいい、それが嫌だなどと思わない。だから、頼むから普通のままでいさせてほしい。縋るような思いで、はぽつぽつと呟いた。
「あなたの邪魔はしない、から……」
「何が言いたい?」
「無理して『姉弟』を、やらなくていい……お互いの人生に、必要ないでしょう」
平穏な人生を送りたいの傍にいるには、エンカクはあまりにも血腥すぎる。死闘に心酔しているエンカクの隣にいるには、はあまりに弱すぎる。まだ今より幼かったあの日はきっと、エンカクも姉を気遣って見当違いとはいえ喜ばせようとしてくれたのだろう。も弟を突き放しきれず、恐れながらも求められたことを拒めなかった。姉弟という形を、お互い壊さないようにしていた。けれど、どちらもお互いの生き方に堪えられまい。だからあの日は逃げたのだ。また会ってしまったからといって、姉弟の形を繕う必要は無い。関係を良くしようだとか、そういう努力はしてくれなくてもいいのだ。徒労に終わるだけだ。平たくいえば、他人でいようと。ただのルームメイトでいようと。そう提案して俯いたに、エンカクは何も言わない。拒否されることはないだろうと、はどこかでタカをくくっていたのかもしれない。少なくとも、それがお互いのためだと本気で思っていた。けれど、すぐに自分の考えが間違っていたことを知ることになる。
「断る」
「……え、」
苛立ちすら燻っているような、ひどくざらついた声。怯えと驚きの入り交じる表情で顔を上げたは、目の前に立つ男の大きさにびくりと肩を跳ねさせた。ポケットに手を突っ込んで、けれど真っ直ぐに背筋を伸ばした長身の男。視線を合わせるためには首が痛くなるほど見上げなければならないのに、一度見てしまうと目が逸らせない。
「何を勘違いしている?」
「何、って……」
「『姉弟をしなくていい』? 俺の姉が、何を言っている」
ただ、目の前に立っているだけだ。それなのに、まるで首を絞められているかのような威圧を感じて一歩後ずさる。背中が壁にぶつかって、ずるずるとへたり込んで。それなのに、静かに燃えているような目から視線を逸らせなかった。
「お前は、俺の姉だ。嫌だろうが拒もうが、それが変わるものか」
大きな手が、の肩を掴む。折られそうだという危惧を抱いてしまいそうなほど、その力は強くて。それなのに、まるで縋られているかのような錯覚さえ抱いた。きっとそれこそが勘違いだと、自身に必死に言い聞かせる。そうでないと、まるで自分が弟にとても酷いことをしているような、そんな気持ちになってしまいそうだった。
201012