エンカクはどうやら、のことを姉だと認識しているらしい。が思っていたより、ずっと。けれどの思う「姉弟」とエンカクの思うそれには、あまりにも隔たりがあると思うのだ。だっては、弟の考えていることがわからない。
「難しく考える必要があるのか」
 淡々と問い、の手首を掴んでエンカクはしゃがみ込む。笑ってもいない、けれど嫌悪に歪むこともない、ただただ静かな表情。炎を閉じ込めたようなその瞳だけが、煌々と燃えていて。
「姉弟は、一緒にいればいい」
「……いられない」
 わかり合いたいとは、思えない。わかってもらいたいとも。弟が血の繋がりを尊ぶようには思えないが、そんなふうに言うのならの意思をこそ尊重してほしいのだ。はエンカクが怖い。恐ろしいから、一緒にいたくない。あの頃は、耳を貸してさえもらえなかった。何を言っても、ただを連れ回すだけで。今は、言葉は返ってくる。もしかしたら弟も変わっているのかもしれないと、淡い希望に縋った。
「どうして、一緒にいたがるの」
 自分の声は、まるでグズっている子どものようだった。実際、癇癪を起こしかけているのかもしれない。周りからは落ち着いていると言われるだが、恐怖の根源が突然過去から現在に追いついてきた衝撃は大きすぎた。仇敵を追っているのなら、そちらに集中してくれればいいものを。どうしてこんな、弟を弟と思っていないような薄情な姉に構おうとするのか。冷たいようだが、はエンカクが死闘を求めるのを止める気はない。元気で生きていてくれればいいという思いはあっても、戦って死にたいというのなら邪魔をする気はないのだ。わけのわからないなりに、怖いなりに、傍にいた存在への情は残っている。それだけが、の思うこの姉弟関係に抱く全てだった。だから、問う。一緒にいられないし一緒にいたくないという姉の唯一の望みすら叶えてくれない「弟」は、なぜこんなにつまらない存在に執着するのかと。逃げることさえ許さないというのなら、向き合って理解してもらうしかなかった。あるいは理解できずとも、納得さえしてくれれば。後になって思えば、ただ言葉を交わせるようになったというだけで、弟に何を期待していたのだろうと後悔したものだが。
「どうして、か」
「…………」
「哀れなやつだな」
 いちいち理由を必要とする生き物は哀れだと、そう言ってを見下ろす弟の表情はやはり静かだった。そこに、嘲りや侮蔑はなく。ただ、しかたのないものを見るような――いっそ子を慈しむ親のような愛しささえ垣間見えて。背筋がゾッとして、後ろは壁だというのに後ずさる。それが刺激となってしまったのか、ただでさえ近い距離をゼロにするかのようにエンカクはに覆いかぶさった。
「そうだな、理由が必要だと言うのなら……」
 姉に合わせて言葉を探そうとする弟は、どこか愉しげにも見えた。との関わりを、楽しんでいるような。怯えるを前に、エンカクは口の端を持ち上げるようにして笑う。皮肉げな笑みではあったが、嘲笑というにはずいぶん優しかった。
「生まれたときから一緒にいた。だから、死ぬまで一緒にいる」
 これでいいか? とエンカクはの手首を握る手に力を込めた。死ぬまで、という言葉を刻み込むような強さで。咄嗟に、首を横に振った。この恐ろしい弟が、死ぬまで傍にいる。言われた途端に拒否感が込み上げて、拒絶を示したのはほとんど反射のようなものだった。
「なんだ、嫌なのか。我儘だな」
 そう言いながらも、気を悪くした様子はない。「さしあたってロドスに留まる理由が必要か?」と口にしたエンカクは、が言葉の意味を問う前にその顎を掴んだ。
「……っ、」
 代わりに手首は離されたが、顎を掴む手を両手で引き剥がそうとしてもビクともしない。血管の浮く大きな掌は、炎が巡っているように熱くて。このまま力を込めれば、エンカクはの顎など簡単に砕いてしまえるのだろう。大声を上げようとしたの口に、親指をねじ込んでこじ開けて。喉奥まで指を押し込んでえずかせ、エンカクは懐から黒い石を取り出した。
「わかるか、。源石結晶だ」
「ぁ、な……んで、」
「切除処理されたものを保管しておいた」
 エンカクの鉱石病によって生成された結晶だと、の口元に結晶を近付ける。黒い石片は、親指の先ほどの大きさだった。
「選べ。俺にこれを呑まされるか、自らに突き立てるか」
「……!?」
 何を、とは愕然と目を見開く。それは、人為的に鉱石病に感染させるということだ。を姉だと言った口で、を害する選択肢を突きつける。この社会での感染者の扱いを知らないわけがない、エンカク自身が感染者なのだから。は弟に、そこまでするほど憎まれていたのだろうか。けれど、恐怖と混乱でじわりと溢れ出した涙を拭った長い指は意外なまでに優しくて。嫌悪や侮蔑を抱いているようには見えないのに、に不治の病を与えようとしている。感情と行動がちぐはぐで、それが一層恐ろしかった。
「感染者のサルカズがまともに暮らしていけるのは、ここくらいだろう」
 エンカクから再び逃げるためにここを離れたとして、感染者になったに行く場所があるのかと。その問いに対する答えなどわかりきっていて、はざっと血の気が引くのを自覚した。弟にとって、鉱石病は姉の逃げ場を潰す手段でしかない。が人並みの生活をこそ最も大切にしているのをわかっていて、逃げればそれが叶わなくなると脅すためだけに姉を感染者にしようとする。死ぬまで、という言葉はどこまでも本気なのだと、どうにかエンカクの手から逃れようともがきながらも怖くてどうにかなりそうだった。舌を指で押さえつけられて、開かされたままの顎に唾液が伝う。指が汚れるというのに厭う様子もなく、エンカクはに顔を寄せるとべろりと舌を出して伝う透明な雫を舐め取った。
「っえ、ぁ、やだ……!?」
「聞き分けが無いようなら、このまま源石を呑ませるが」
 どうにかエンカクの手を退けようと抵抗していた手が、ぴたりと止まった。羞恥と混乱もあったが、やはり恐怖が勝って。体格も膂力もより遥かに優れている弟は、簡単に喉奥に源石を押し込めてしまう。言葉は通じるのに、話がまるで成り立たない。弟が自分と一緒にいたがる理由を求めたに、姉が自分のいる場所から逃げられない理由を作ろうとするエンカク。向かい合っているのに、言葉は交わせているのに、まるで噛み合わない。こんなにも違うから一緒にいられないとは思うのに、弟は違いや隔たりなど微塵も気にかけていないのだ。そもそも見ているものがあまりに違っていて、いよいよ弟のことがわからない。唯一理解できるのは、源石結晶を掴んだ弟の指が今にも口に押し込まれそうだという目の前の現実だけだった。
「……まっ、て」
 抵抗を止めて震える声を絞り出すと、口をこじ開けている親指の力が緩む。顔は掴まれたままだが、言葉を発するには十分だった。
「自分で、刺す、から……」
 鉱石病の治療を担当するオペレーターとして、それがどれだけ愚かな行為かはわかっている。それでも、喉に押し込まれるよりはマシだと思った。それに、どんなに怖くても鉱石病への感染を強要している張本人でも、エンカクは弟だ。直接姉に手を下したという事実を残すのは、できることなら避けたかった。酷いことをされているはずなのに、それを責めるどころか弟を傷付けることすら怖いと思っている自分がいる。馬鹿なのではないかと、頭の中の冷静な部分が呆れていた。これも情なのだろうか、それとも怯懦が過ぎるのだろうか。震える手で源石結晶を受け取ると、顎を掴んでいた手がゆっくりと離れた。
「…………」
 左腕に結晶の先端を押し当てて、ぐっと力を込める。石片などよりよほど鋭い視線が手元に突き刺さったが、俯いて弟の顔を見ないようにした。どうして、こんなところで再会してしまったのか。あれだけ怖かったから逃げたのに、同じ部屋になることを受け入れてしまったのか。まさかこの弟が姉というものにここまで執着を示すなどと思っていなかったは、弟という存在を軽んじていたのだろうか。侮っていたのだろうか。あの頃は碌に言葉も交わさずにの腕を引いていた弟。その時から既に「死ぬまで一緒」だと思っていたのか。だとしたら、は大きく誤った。逃げる前に、そのズレを正しておくべきだった。今はもう、弟にとっては自分を裏切った姉だ。だからこんなことをしてまで、逃げないように理由を与えるのだろう。ぶつりと、黒い欠片が肌を突き破る。感染者になることよりも、弟を再び裏切る方が怖かった。

 まるで破瓜のようだと、自分の腕に源石を突き刺した姉の姿にこみ上げる熱を感じた。痛みと恐怖でぎゅっと目を閉じて震えるの姿は、エンカクにとっては純潔を踏み荒らされた清いもののように艶かしく映る。小さな石片を少し突き刺したくらいでは、確実に感染するか疑わしい。けれどこれ以上深く突き刺すのは、痛みに弱く力も無い姉には無理だろう。だから、エンカクは手を伸ばして石片を握る姉の手をぐっと抑えた。小さくも痛ましい悲鳴にゾクゾクと背筋が震えるが、それをやり過ごして更に深く結晶を押し込む。自分の一部だった石が姉の白い肌を突き破って埋まっていく光景に、浅ましい興奮を抱いた。
「ぁ、……う゛っ、」
 この石が確かな病巣となって姉を侵すまで、外れないようにしていた方がいいだろう。自分の応急処置に使う布切れで石を固定するように傷口に巻き付けると、石に肉を抉られる痛みにが小さく呻いた。エンカクを恐れているひ弱な姉に残酷な仕打ちをしている自覚はあったが、罪の意識はなかった。仕方の無いことだとすら、思っている。また逃げられては面倒なのだ。特に今は、ドクターの行く末をもう少し見定めると決めている。が逃げたとしてもまた捕まえて放浪の旅をするのもいいが、どうせ同じ場所に身を置いているなら纏めておきたかった。ただそれだけのために、ときっとこの「まとも」な姉はまた理解できないという顔をするのだろう。実際、ただそれだけのためだ。エンカクにとっては、鉱石病などその程度のものに過ぎない。小さな姉にとっては、人生を左右する大事なのだろうが。ぼろぼろと痛みに泣く姉は、昔からよくわからない。エンカクにとって大事なことは姉にとってはひとつも大事ではなくて、その逆も然りで。エンカクが見向きもしないようなものばかり、この姉は大切にしたがった。
「他にはどんな理由が必要だ? 面倒だが、お前のやり方に付き合うのも悪くない」
 ふるふると、は必死に首を横に振る。なんだ、もういいのか。そう呟くと、びくりと肩を震わせた。不思議なことに、こんなに怯えていても姉はエンカクを「嫌い」だと言ったことはない。本人に自覚があるのか知らないが、は弟を怖がっているだけで嫌いになれないのだ。安穏とした生活をたった今壊され、鉱石病に罹患させられても。とは言えひとまずは、ロドスから逃げる算段を潰せばエンカクもこれ以上に何かしようとは思わない。姉が何か望むのなら付き合うつもりだが、萎れた花のように憔悴している姿に確かな充足感を得ていた。
「……エンカクは、」
「なんだ」
「誰かを好きになれてたら、よかったね」
「お前は何を言っている?」
 俯いた姉が放った言葉に、エンカクは眉を顰めた。恨み言というにはずいぶん生易しいそれは、エンカクがに抱く感情を否定していた。お前は誰のことも好いていないからこんなことができるのだろうと、弱い姉らしい生温い意趣返しだ。けれど根本的に勘違いしている姉を、そのままにしておくわけにはいかなかった。好きだの嫌いだの幼稚なやり合いをする気はなかったが、姉はこの期に及んで気付いていない。あるいはいつもの「わからない」なのかもしれないが、どちらにしても同じことだ。馬鹿でも阿呆でもないくせに、なぜこうも鈍い。何とも思っていない者の腕に源石を突き刺すような人間に、見えているというのか。
 ――たいせつなものは、ちゃんとたいせつにしないと。
 幼いエンカクをそう諭したのが自分自身であることを、目の前の姉は忘れているのだろうか。エンカクが姉のやり方に付き合うことを決めた、最初の言葉だというのに。それは、幼い日のどこかの町での記憶だ。汚い路地裏に転がって死にかけていた猫を、じっと見ていたエンカクに姉はそう言った。別にエンカクは、その猫を哀れんだり好ましく思っていたわけではないのだが。死にかけていたその猫を抱き上げ、清潔にし、腹を満たしてやった姉は、エンカクに猫を抱かせてそう言った。エンカクが猫を見ていたのは、単に弱い姉もああしてどこかの路地裏で朽ちるのかと思ったからだ。だから姉の言葉に、弱いものは大切にしてやらないとすぐ死ぬのだと納得した。姉の言葉や価値観を理解できる機会はそう多くなかったから、珍しくすとんと理解できたそれを唯一のしるべとしてエンカクは姉を「大切に」していたつもりだったのだ。今も、そうだ。姉があの猫に首輪をつけて棲家に隠していたように、姉に鉱石病という枷をつけてロドスに留めおくだけだ。それが弱い姉を大切にするということだと思っていたのに、姉は頓珍漢なことを言う。好きでもないものを大切にするような人間に見えているのかと、その憤り自体がやはり姉の考え方とズレていることをエンカクは自覚していなかった。誰かを好きになったことがあれば、相手の自由を制限したりそのために病に侵させることはないと思うのがにとっての普通で。エンカクにとっての「大切にする」という行為が姉を傷付けるものだということを、理解できていなかった。
「どうにも俺とお前は、姉弟でいるのが下手らしいな?」
 だからそう言っているのにとでも言いたげな姉の渋面に、エンカクも苛立ちを隠さない。血の滲む腕を押さえている姉の手を取り、無理やり引き起こした。
「っ、」
「少しは『同じ』になれたかと思ったが」
「同じ……?」
「お前が言葉を交わしたがるのに合わせている、俺が感染者だから『理由』に鉱石病を選んだ」
 あまりにも、遠い姉弟だから。炎を閉じ込めたような瞳と、緩く波打つ黒い髪。そして、サルカズであることを示す角。容姿には共通点があるが、それだけしか血縁を見い出せないほど違う姉弟だった。黒曜石のような角に触れて、自分の対になるように生えているそれに安堵にも似た気持ちを抱いていることを自覚する。性別も考え方も価値観もあまりに違いすぎていることを、対であるが故だと思えば面白くない気持ちも収められた。けれどやはり、『同じ』部分が増えれば近付けた気持ちになる。生まれたときから隣にいるのに姉が遠いという自覚は、エンカクにもあった。
「……隣にいる理由も必要か」
「え、」
「お前が、俺の隣にいる理由だ」
 エンカクがの隣に、ではなく。がエンカクの隣に、という言葉が当然のように出てきた意味にエンカクもも気付かないのだろう。弟の驕傲と姉の卑屈だけが綺麗に噛み合ってしまっている、皮肉にもそこだけは収まる形を得てしまった姉弟だった。綺麗な歪の形を互いに自覚しないまま、この姉弟関係にそれぞれ異なる不満を抱いている。どちらかが動くたびに、食い合ってしまっている部分が軋んだ。
「…………」
「エンカク……?」
 急に黙り込んだ弟に、はおそるおそる声をかける。それを無視して掴んだ手首をグイッと引いたエンカクは、小さな悲鳴を上げたの口を塞いだ。手ではなく、唇で。
「んッ、ぅ……!?」
 仰け反って逃げようとしたの後頭部を抑え、唇を押し付ける。が両脚に力を込めて離れようとしても、ギリギリと音が鳴りそうなほど強く掴まれた手首と掌ですっぽり覆うように押さえ込まれた後頭部のせいで身を捩るのが精一杯で。エンカクが突然姉弟の度を越した接触をしたことで、は既に泣きそうなほど混乱して今にも卒倒しそうだった。自由な方の手でエンカクを突き飛ばそうとするが、そちらは源石を刺した腕だ。衝撃が傷に響いたらしく、顔を歪めて唇の隙間から呻き声を漏らす。ロドスでの生活では痛みに無縁だったのだろうと思えば、その愚かさも可愛らしかった。
「……ん、っ……」
 柔らかい唇を貪るように、角度を変えて何度も口付ける。少しかさついた自分の唇とは違う、きちんと手入れのされた柔らかさだ。隙間を埋めるように押し付け、あぐあぐと食んではべろりと舌でなぞる。こういった行為に慣れていないのか、鼻で息をすることを忘れたが空気を求めて口を開く。薄く開いた唇に舌をねじ込むと、くぐもった声が漏れた。往生際悪くもがくの頭を押さえる手に、力がこもる。自分と同じ髪質の黒く柔らかなそれをくしゃりと押さえ付ける感触は、手に心地よくて。奪うように、口内を荒らしていく。涙の浮かぶ炎色の瞳は姉弟でそっくりなのに、自分なら決して浮かべない感情が映っている。胸にずくりとこみ上げた感情が苛立ちなのか興奮なのかわからないまま、エンカクは姉の体を壁に押しつけた。
 
201018
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